二節
排気ガスがせっせと息を立てている。
止めどない加速と減速を繰り返して。
導かれるよう大通りを進むうちに、やっと送迎車は役目を終えたようだった。
重い腰を下ろすようなブレーキを合図に、ウルカはドアを開け放つ。
彼女は身軽にひょいっと下車した。
運転手には軽率に感謝を述べた後に、道端にあるこじんまりとした店舗に潜り込んだらしい。私は動けずに、幾ばくか経った後。彼女が手招きをするようにやってきた。
「モフィリアもほら、降りて~」
そう言われてしまえば、地に足付けるしかない。
……知らぬ土地。
どうしてか連れてこられた街で、私は第零歩目を歩む。
「――ふぅ」
存外、素直に足裏がくっつく。
「そこで待ってていいからね。もう少しで来ると思う」
心臓の音を十数える前に、それは来た。
「あー、こっちこっち。おっちゃ~ん! ひっさしぶり~!」
彼女は腕いっぱいを使い大きく振り上げる。
輝かしい視線の先にいたのはガニ股歩きで近づいてくる男だった。
「家内に呼ばれて来たと思えば、なんだヒグマっ子の嬢ちゃんか」
「なんだとはなんだ! こっちに呼んだのはおっちゃんの方だろ!」
「がはは、そういやそうだったな! おっ――」
男は大きな目を開けながら私に向いた。
「なんだ、新顔の嬢ちゃんもいるじゃねぇか! お友達かい?」
「この前手紙で言ったでしょ! この子が私の親友のモフィリア。約束だから連れてきたの」
「おお、そうかそうか、こりゃいけね。ようこそ〈ミラノ〉へ。新顔の嬢ちゃん、こんなおっさんだが宜しくな」
顔を見せたのは、自身よりも頭二つ高い中高年の男性。
野性的な風貌を感じ取れる、謂わばイカツめの人だった。
「あ、あの。……〈ミラノ〉?」
外の人間と会うなんて久しぶりで。
どう……すれば。
「おうよ! もしかして来たことねぇのか?」
「は、はい……えっと」
「ああ、ここで話すのもいいがちょっと長話になっちまう。嬢ちゃんたち、中に入りな」
親指を中に立てて入ることを促してくれる。
存外、強面ながらも怖そうな人ではないとすぐに解った。
声のトーンから、仕草から、歩き方から。
けれど、私は怖気づいてやまなかった。
この場から今すぐにでも逃げ出したいほどの恐怖が襲い掛かっていたから。
「行くよ、モフィリア」
冷汗はとまることなく、今の今まで堰き止めていたダムが決壊したかのよう。
怯え、息遣いが荒くなり、小さく震えていた。
「モフィリア……」
「どうした新顔の嬢ちゃん。具合でも悪いのか?」
「あ、あ、あ……」
「ん?」
喉が潰れそうなほどに、――伝えた。
「あ、あ、――歩く理由を私にください!」
……言ってしまった。
どうしようどうしようどうしよう。
「急にどうしたんだ、大声出して。歩く理由? そりゃあどういったもんだい」
「あ、その。理由がないと歩け、ないというか……ッ、意義を見出せなければいけなくて」
「意義、ってぇ。んー?」
「ごっめんおっちゃん。私から話つけとくから先に入ってて」
「そうか? そういうならいいが。中で待ってるぞ」
おっちゃんと呼ばれる男性は、背広な後姿を見せながら店舗に入っていく。
それを見届けたウルカは、ふいに私の背中をさすってくれた。
「モフィリア、今日はお金を貰うための大事な話し合い。必要なステップなんだから、あまり気負わずに考えなくていいんだよ。私もこれから助けになれないし」
そう、私がここに連れてこられた理由。
最たるワケは、ウルカがこれから金銭的支援が難しくなるといったことだった。
そのカバーをしてくれる人がいるとのことで、紹介してくれたらしい。
「お金のため、お金のため……」
「そう。モフィリアがこれから生きていくための、必要不可欠なステップ」
お金。生きる上では欠かせない、お金。
けれど本当に歩いていいの?
私の追い求める理想から遠ざかるんじゃないの?
――あの人なら、どう、思うのだろう。
「……お、お金が無ければっ。わたしの探すものが、探すに探せない……わ」
うん、大丈夫。あの人ならこう言う……はず。
きっと私は歩いていいんだ。先に進んでいいんだ。――きっと。
「だから、――大丈夫よ。みつかったわ、歩く理由」
「偉いねモフィリア。さ、こっちおいで」
手を引く彼女は普段と変わらず気さくに接してくれる。
彼女の知り合いの前で大恥をかいたことを気にする様子はなく、平静を装っていた。
いてもたってもいられなくなり、唇を力いっぱい噛む。
だが、燃えるように熱い身体は無理やりにでも現実に引き戻してくるような気がした。
――二度と戻ってきてくれない熱を再現するように。
隠れて私は深いため息をつく。
私はつくづく社会進出するべき人間ではないと身をもって実感した。
こうして歩く理由でさえも自ら見出せず、友人の即興なフォローによってやっと目的意識を明確にできる実情。私なんかを連れてきてよかったのだろうか。
――とうとう店舗入りを果たせた。
どうやら私の行かない系統のお店らしく、特定の機器等を扱う希少な専門店。壁中には私の部屋に負けず劣らずの多くのもので埋め尽くされていた。
黒い眼がこちらを覗き込む。
それらを見渡しながら、一つの結論に至った。
「フィルムカメラ?」
「正解! ここはフィルムカメラの専門店なの」
ずらりと商品棚に置かれているのは、それぞれ型の異なるフィルムカメラ。
私の知らないシリーズまで網羅しているらしい。
経営者は相当カメラ好きだと見て取れる。しかも……
「写真がこんなたくさん」
壁一面に貼り尽くされていたのは、現像された写真の数々。
そのどれもがセンスの塊のような構図で、風景や街並みが撮影されていた。
誰がこんなにたくさん撮ったのだろう……。
夥しい数だ。
写真を目に通している間に、自然にも私の足はピタリと止まってしまった。
世界で唯一無二の神秘に出会ったかの如く。
数え切れないほどの現像写真から、一際異彩を放っていたのは特別大きな一枚。
白い、そんでもって地平線にまで続く広大さが何物にも代えがたい絶景。
「綺麗だろ。俺が撮ったんだ」
気付けば傍にガシッとした体格の男が立っている。
「これは……」
「アルプスの山頂から切り取った一枚だ。もう二十年も前になるっかな」
「アルプス……」
眼を離そうにも離せない。
無論、写真の美しさに目を引くものはあったかもしれないが、それより深く、真っ黒に塗りたくられたあの日のことを。――思い出して止まなかった。
「完全に見惚れてんじゃねぇか! どうだ、気に入ったか」
「これが、店主自慢の。ってやつだもんね〜。よかったね、モフィリアに気に入ってもらって」
「おうよ! よくわかってんじゃねぇか」
「えっへへ〜」
「嬢ちゃんら、そこに椅子があるからよ。適当にかけてくれや」
「はいよっ。モフィリア、あそこに座ろ~」
どうして、ここに……。
「おーい、モフィリア?」
「な、何かしら」
やっとのことで彼女の声が耳を触る。
「も~話聞いてた? おっちゃんが適当に座ってだって」
「え、ええ」
ウルカは近くにあった子椅子を持ってきてくれて、呼吸を沈めながらも座り込む。
「今日は来てくれてありがとな。遠かったろ!」
「うーん、私的には一瞬だったかも! こんな長時間車に乗ることなんて滅多にないし!」
「そうかそうか、それは良かった。送迎車の手配をしてよかったぜ」
「――あら、いらっしゃい」
突如、横からの声に歯を浮かしてしまう。
振り返ると、そこにはお淑やかな雰囲気を纏った貴婦人が立っていた。
「わーい! ありがとう!」
彼女がコトンと目の前に置いたのは、小ぶりなカップ。
丁寧な手つきで私たちにお茶を用意してくれたらしい。
「あ、ありがとう……ございます」
そのまま彼女は何も言わずに去っていった。
一瞬音が止んだ頃、店主はコホンと咳ばらいを一つ挟んで、
「新顔の嬢ちゃん、今日は来てくれてありがとな」
「わ、私ですか」
「おうよ。そこのヒグマっ子の嬢ちゃんだけに最初は仕事を頼もうと思ってたんだが、どうも都合が悪いらしくてな。そんでもって二人でやらせてくれないかっ、て――ゲホッゲホッ」
「だ、大丈夫?」
「がはは! 気にすんなって。それで、嬢ちゃんたちにはこの店の伝統を受け継いでほしいんだ」
いつしか彼の顔は笑みばかりで塗られている。
「伝統?」
「ああそうとも。色んなところ旅してよう、それで写真を撮って景色を切り取る。それがこの店の伝統ってやつだ」
顎をしゃくり、彼が見上げた先。
やはり先ほどの壁にかけられた写真群が、その伝統なようだ。
「だから、その伝統を途切れさせたくない。……あー、イテテテテ!」
彼は腰に手をやり、苦しそうな表情を浮かべる。
「大丈夫ですか?」
「ああ、腰が悪くなったもんでな。それができなくなっちまった」
「つまり、店主の言う『伝統』を受け継ぐことが仕事内容とみていいのでしょうか」
「店主じゃなくておっちゃんでいいって。気軽によ」
「店主と呼ばせていただきます」
「がはは! まぁ好きなようによう。んでもって、新顔の嬢ちゃんが言うのはそうなんだけどよう……」
思い切り両手をあげて、彼は目の前で掌を合わせた。
「一年だけでいい。――伝統を受け継いでくんねぇか!」
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