壱 ロックバンド

第一章 サウンド・マッチング

1 逃げて、見逃され、死に損なって

 その日、レナは生き残ってしまった。

 それが、どれほどの呪いになるかも知らずに、無様な醜態を晒して――。



 轟然たる咆哮が轟いた。

 肝が握りつぶされると思った。実際には自分は杖を握っている。それを相手に振っても、しかし、恐怖で魔力が鈍って、魔法はまるででない。

「なんでっ、――ひぃ」

 自分は、気高きエルフ――なのになぜ!


 敵は圧倒的だった。魔法種族の最も苦手な戦略を行っている。


 圧搾空気が弾ける音が、ほぼ一斉に唸る。

 前衛、魔法結界が砕けた。弾丸にアンチ・スペルを組み込んでいる。


「ああっ……」

 レナは、喉が凍るのを感じた。股のあたりに、ぬるい湿り気が滑っていくのを感じる。


 砕けた結界。再発動は、間に合わない。

 敵の抜剣部隊が切り込んできて、血しぶきが上がる。


「くそぉっ」

「なぜだっ、なぜここが……!」

「乱れるなっ、気を正せ!」


 レナはすでに、錯乱しそうだった。杖を振る。けれど魔法は、一切でない。

 ありえない――!


 ふと、それが視界に入る。


 命乞いする若い女が、恐ろしげな顔つきの無法者バンデッドに引っ立てられ、連れて行かれる。

 助かるのか。

 生きられるのだ!

 けれど、その扱いは……きっと、尊厳などないのだろう。

 

 明確な侵略意図をもった者らが迫ってくる恐怖は筆舌に尽くしがたく、喉が固く凍ってしまう。


 誇り高く死ぬべきだ。

 誇り高く戦って、朽ちるべきだ。


 それこそ、魔法族エルフの、――。

「たっ、たゅ、たしゅっ、」


 命乞いの言葉すらでてこない。


「おいレナッ、敵前逃亡する気か⁉︎」

「貴様、おいっ、――ペンダントを、っづ、ぁあああああっ!」


 止めに入る同胞。

 しかし、次の瞬間には肉片に変えられる。


「くそ、なんだって、こんな――」

「待てレナ、見捨てるな、うわぁああああああッ」


 断末魔が背後で響き渡る。

 死にたくなかった。

 けれど、敗者の女としての無様な扱いも、受けたくなかった。


 背後から、怒りとも絶望とも取れる怒号がし、そして、直後それは夜天を切り裂く絶叫へ変わった。





 森で死ぬつもりなどジーグにはなかった。

 見返し、連中の鼻を明かし、認めさせるためにここへ来たのだ。



 ちち、ちちち、と軽やかな鳥の鳴き声がしていた。

 木漏れ日が柱のごとく差し込んでいる。

 草花、虫。それらと、倒木に繁茂するコケ類に、キノコ。

 見上げれば、三葉虫のような生き物が遊弋している。


 そこは樹冠八〇メートルはあろう森であった。


 伸び上がる木々に絡め取られた自動車が、そして癒着する道路標識や信号機が、顔をのぞかせていた。

 それらのモニュメントの最たるものが、旧時代のビルだった。


 きらり、と。

 にわかに、陽光が反射。鋭い光は一瞬で何処かへ去る。

 しかし森の獣たちは気づいていた。


 ――何者かが空気銃を構えている。


 歳の頃は一八かそこら。男だ。くすんだ茶髪を後ろにまとめて、結んでいる。

 二階部分の窓枠に銃を固定して、狙いを定めていた。

 そのライフルは、すでに空気の圧搾を済ませており、あとは発射の時を待つばかりである。


(外すなよ、俺)

 言い聞かせる。

(外すわけ、ねえ)


 青年には自信があった。狩りは初めてではない。

 と、スコープにころりと太った大きなウサギが入ってきた。

 あれだと思い、トリガーの遊びを取る。

 バスッ、と空気が炸裂する、くぐもった銃声。

 飛翔した九ミリバレットが風を置き去りに、その大ウサギの――右の腐葉土を弾いた。

 ギッ、とウサギが鋭く鳴いて、そして、逃げ去ろうと踵を反転させる。


「くそっ」

 青年は――ジーグは、快哉を叫ぶ予定を台無しにされ、舌打ちした。

 すぐに銃を上げて背負うと、木々に飲まれているビルの中を巧みに駆けていく。

 傾いている階段を飛ぶように降りて、木の根を飛び越える。


 ビル一階の非常口から外へ出た。

 いっそむせかるほどの大自然。見飽きた、日常。

 その日常は、驚くほどのっぺりしていて、あまりにもつまらない。


 一生を腐って終わる気などない。


 腐敗から、平和というぬるま湯から逃げ出すように、ジーグは走った。

 ぐずぐずの腐葉土をブーツの踵が跳ね上げる。

 驚いた小動物たちが穴に隠れる。

 濃すぎるほどの緑が、肺を満たす。


 狩りの腕を見せつければ、あの閉鎖的な村の連中をわからせられると思っている。

 己の見立てが甘い。そう喚く大人もいる。

 そんなわけない。

 もう一八の男だ。いっぱしの男だ。


 木々をかき分けて、邪魔な枝を鉈で払い、身を平べったくして、岩間をすり抜けていく。


 大ウサギはこちらをからかうように、途中止まったりしていた。

 生意気な。そう思った。


 息が上がる。遠回りでは見逃す。

 ジーグは一気にルート短縮しようと、崖上へ倒れた木を踏みしめ、走った。


 行ける、そう思った。

(ざまあみろ、俺は、やれる!)


 ぬる、と足が滑る。

 表面のぬめった地衣類に足を取られた。


「うわっ」 落差はせいぜい三メートル。

 死ぬわけがない、けれど、体は正直に、そして、ジーグの思い上がり以上に、生に従順だ。

 咄嗟に手を伸ばし、対岸のツタを掴んだ。

 鉈が滑り落ちるが気にしてられない。

 どうにかして這い上がる。


「くそ、ったれ。あのウサギ野郎、ぜってえ仕留めて、食ってやる」


 体を起こして、失った鉈に後ろ髪を引かれる思いで駆け出していく。


 唾液が枯れて、喉が、ねばっとしている。

 森に来て二日、ろくなものを食っていない。

 食ってやる、血を飲んででも、渇きを癒す。


 具体的にどう仕留めるかなど、もはや問題ではない。追いつけさえすればどうにかする。素手で握りつぶしてでも仕留める。

 そのときだった。


「ぎぃーっ」と大ウサギの悲鳴が、西の方からした。

 一体、今のは何だったのか。

 狼にでもやられたか? それとも、――。

 ――いや。

 ジーグはサブウェポンの空気式ピストルを抜いた。


 森が黙る。

 にわかに、死の、臭いが――。


「っ、あ……」


 この森に出る最強の獣の幻影が、脳をひっかく。

 逃げろ、と本能が囁くのが聞こえる。だが無視した。大の男が、狼ごときで逃げてたまるか。ジーグは己を叱咤し、悲鳴がした方へ爪先を向ける。


 森の奥――思えばここまで来たことはなかった。


「…………」(ブルってるってのか、この俺が)


 あり得ない、ジーグは左の拳で己のこめかみを打った。

「出てこいッ!」

 怒鳴り、一発、空へ発泡。バウッ、という圧搾空気の咆哮。

「出て来いつってんだ!」

 それは悲鳴だったかもしれない。恐怖を怒りで塗り固める類の雄叫びだった。


 とうとう、森が平伏した。

 鳥が羽ばたいて去り、虫は身を潜める。


 ぞろり、と。

 巨大な狼が一頭現れる。

 一瞬で、全部を後悔した。


 ――一匹狼。

 社会からあぶれてなお、孤独な存在として生きながらえた、老練なる「ハンター」。

 この瞬間、ジーグと森の、そして獣との立場が反転した。


「っ、あ」

 後ろへ二歩、後ずさった。


 一匹狼は試すような目つきでこちらを見つめていた。


 撃て、相手は無防備だ。圧搾空気はもう溜まっているはずだ。撃て、撃て、撃て!

 しかし、指は筋肉が痙攣して、動かない。


「やるのか、やらんのか」そう言われた気がした。



 判断がつかない。時間切れという優しい絶望を待つしかなかった。


「若いの、息を止めてろ!」

 野太い、豪とした声が森に跳ねた。

 ジーグは咄嗟に首のマフラーで鼻まで埋め、左手で塞いだ。


 直後、何かが投げ込まれて弾ける。

 煙幕だ。しかも、なぜか目が滲む――辛い、刺激臭。

 一匹狼はたまらず後退、撤退していった。


「何が、……」

 いや、わかっていた。ジーグには、全部わかっていた。

 だから認められなかった。

「ちくしょう」


 ――助けられた。

 ――見逃された。


 恥辱で、耳が震えた。銃がきちきち鳴る。握り込む手を、なんでもいいからなにかに叩きつけたくて、ジーグは感情に任せて、ピストルを地面に叩きつけた。


「青いな、お若いの」

 山が唸るような声である。見上げるほどの大男が、のっそりと、しかし驚くほどのしなやかさで茂みをかき分けた。

「怪我はないか」

「……別に」

「そう睨むな。な?」


 ジーグは震える息を漏らした。

 たった今殴りかかろうとしてやめた理由が、その男の、オーク族という筋骨隆々たる種族性にあるのも、腹立たしかった。


「さっき獲った獲物がいてな。捌くのを手伝ってくれないか」

 ――獲物。

 ――飯だ。飯が食える。

「……ああ」


 飯につられて、最後まで意地を通せずに折れた自分が無様で、情けなかった。

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