スマホの画面の向こう-間宮響子-

江渡由太郎

スマホの画面の向こう-間宮響子-

 午前二時。


 霊能力者・間宮響子のスマホは、サイレント設定である。だが、その鳴らないはずのスマホが着信音を発した。


 番号非通知。

 通話を取ると、向こう側では若い女の声が、息を殺したように震えていた。


「……助けてください。兄が、兄じゃないんです」


 女――桜井麻里は言った。


 三年前、兄は深夜にスマホを見ながら眠り、翌朝から人格が変わった。無感情で、優秀で、完璧で、そして――“中身が空っぽ”のようになった。


「最初に見ていたのは、動画でした。再生数が……一つしかない」


 響子の背中を、冷たいものが這った。


 それは彼女が、ここ半年で何度も耳にしてきた兆候だった。


 数日後、響子は高校生・瀬戸崎紘の家を訪れた。


 母親は「成績も良くなって、何も問題はない」と繰り返したが、響子には一目でわかった。


 この家には、人の数より“視線”が多い。


 紘の部屋。

 カーテンは閉じられ、スマホだけが机の上で黒い鏡のように沈黙している。


「動画、見せて」


 響子がそう言うと、紘は一瞬だけ躊躇し、ぎこちなく再生ボタンを押した。


 タイトル――。


 『みえてる?』


 画面は暗く、何も映っていない。


 だが響子の霊視には、はっきりと“向こう側”が見えた。


 人の形をした空洞。

 顔は再生する者のもの。

 中身だけが欠け落ち、黒い霧が詰め込まれている。


「これは悪霊じゃない」


 響子は低く言った。


「模倣体。人間の“殻”を集めて、こちらに馴染もうとする存在よ」


 紘の目が、かすかに揺れた。


「……もう、半分以上、取られてる」


 その瞬間、スマホの画面が切り替わった。


 インカメ。

 映っているのは――響子自身。


 だが、微笑い方が違う。

 口角が、人間には上がらない角度で吊り上がっている。


『いただきます』


 画面の中の“響子”が、そう囁いた。

 響子は即座にスマホを床に叩きつけ、真言を唱えた。


 空気が震え、部屋の壁に無数の指の跡が浮かび上がる。


 コン、コン、コン。


 叩いているのは、画面の向こう側。


「……こっちは、狭い。寒い」


 声は紘のものだった。


 否、紘だった“何か”だ。


「でも、そっちに行ける。電波がある」


 響子は悟った。


 これは呪物でも地縛霊でもない。

 “覗いた者同士が、入れ替わるための穴”。

 完全な解決は不可能だった。


 響子ができたのは、ただ一つ――。

 動画の拡散を止め、瀬戸崎家の回線を物理的に遮断し、紘の“残っている部分”をこの身体に縫い止めることだけ。


 数週間後。

 瀬戸崎紘は「回復した」と診断された。

 だが、彼はもうスマホを持たない。

 画面を見ると、向こうから目が合うのだと言った。

 事件は、表向きには終わった。


 だが、響子のもとには、今も届き続けている。


 再生数:1


 みえてる?


 そして今日、彼女のスマホにも表示された。


 視聴者:間宮響子


 画面が、静かに点灯する。


 インカメに映った“自分”が、ほんのわずかに遅れて瞬きをした。


 ――この世界は、本当に“こちら側”なのだろうか。

そう思った瞬間、画面の中の彼女が、唇を動かした。


「次は、どっち?」



 ――(完)――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スマホの画面の向こう-間宮響子- 江渡由太郎 @hiroy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ