与流と志南海 〈卵〉
ミコト楚良
卵
朝、起きると、まず自分が誰だか思い出すことからはじめる。
一時は自分の記憶が、手のひらですくった砂のように指の間から、さらさらと落ちていって、このまま廃人になっていくのかと思った朝もあった。
「
まだ自分の名前を言える。大丈夫だ。
ぼくのつけていた五年日記は、災害で流されてしまった。
あれがあれば直前まで自分が何をしていたか、何を考えていたかわかるのに。
上層部が治療の助けになるようにと、叔母を頼って送ってもらった資料の中には小中高のときの学年ノートがあった。
こんなものを叔母が、まだしまっていたとは驚きだよ。
それに、忘れたのは
ぼくが覚えている叔母は、かなりの慌て者だった。ぼくが完全に記憶喪失にでもなったと思っている節がある。
もう少ししたら画像通信システムでの通話が許可されるかな。
ちゃんと説明したい。
丸っこいフォルムからアームを伸ばしてきて、車椅子に乗るのを補助してくれる。彼らは見かけより、ずいぶん力持ちだ。彼ら自身も重いので、そこは気をつけねば。
車椅子がつけられるテーブル――自動で利用者の体格を推し量り、高さ調節してくる――には、すでに朝食がセットされていた。
朝食はランチボックスの形態。
森に点在する
昼と夕方の食事は、リハビリテーション棟で集団で摂る。
今日のメニューは、コンソメスープ、ロールパン、オムレツ。スムージー。
野菜と果物の味のするスムージーは、ほとんどの栄養素を含んでいる。それだけでいいほど。
だけど、それでは味気ないという理由で食事らしい食事を提供するのも、この
あの精神科訪問介護士だったかな。
「しなみ」
うん。忘れていない。
同じような年頃に思えた。あの男に車椅子の自分は、どう見えたのだろう。
フレンドリーな空気感を醸し出していたが、ちょっと苦手に思えた。
元の自分もそうだったんじゃないだろうか。
でも介護士が陰キャだったら、それはそれでいやだな。
この
目が合うと静かに微笑んでくれる。
役立たずと責めたりしない。
それで、少しばかり休んでいいんだと思えた。
脚が治らない限りは働けないわけだし。有休もまったく消化できていなかったみたいだ。久しぶりの休暇なんだ。これは。
ゆっくりするのも治療の内だと言われた。
だからか、まどろんでいる時間が長い。
自分が孵化する前の卵の中の雛のように思える。
明日、目を覚まして、忘れていることがなければいいな。
毎日、生まれたてのような状態は少し苦しい。
でも、朝の光を見るのは好きだ。
「好きだ」
忘れてしまったぼくは、何が好きだったんだろう。
与流と志南海 〈卵〉 ミコト楚良 @mm_sora_mm
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