与流と志南海 〈卵〉

ミコト楚良

 朝、起きると、まず自分が誰だか思い出すことからはじめる。

 一時は自分の記憶が、手のひらですくった砂のように指の間から、さらさらと落ちていって、このまま廃人になっていくのかと思った朝もあった。


一式与流いっしきよる

 まだ自分の名前を言える。大丈夫だ。


 ぼくのつけていた五年日記は、災害で流されてしまった。

 あれがあれば直前まで自分が何をしていたか、何を考えていたかわかるのに。


 上層部が治療の助けになるようにと、叔母を頼って送ってもらった資料の中には小中高のときの学年ノートがあった。

 こんなものを叔母が、まだしまっていたとは驚きだよ。

 それに、忘れたのは二十歳はたちからこっちの辺りで、小中高のことは覚えているんだけどなぁ。

 ぼくが覚えている叔母は、かなりの慌て者だった。ぼくが完全に記憶喪失にでもなったと思っている節がある。

 もう少ししたら画像通信システムでの通話が許可されるかな。

 ちゃんと説明したい。



 与流よるが寝台から起き上がると、その気配でハウスメイドロボットが作動した。

 丸っこいフォルムからアームを伸ばしてきて、車椅子に乗るのを補助してくれる。彼らは見かけより、ずいぶん力持ちだ。彼ら自身も重いので、そこは気をつけねば。


 車椅子がつけられるテーブル――自動で利用者の体格を推し量り、高さ調節してくる――には、すでに朝食がセットされていた。

 朝食はランチボックスの形態。

 森に点在する患者ペイシェントの病棟を、配食ロボットが配ってまわる。家の中へ繋がっているポストに入れたランチボックスを、室内のハウスメイドロボットがピックアップする仕組み。

 昼と夕方の食事は、リハビリテーション棟で集団で摂る。

 与流よるは独りきりの、この朝食の時間が気に入っている。


 今日のメニューは、コンソメスープ、ロールパン、オムレツ。スムージー。

 野菜と果物の味のするスムージーは、ほとんどの栄養素を含んでいる。それだけでいいほど。

 だけど、それでは味気ないという理由で食事らしい食事を提供するのも、この療養所サナトリウムの方針だと、誰が説明してくれたんだっけ。


 あの精神科訪問介護士だったかな。

「しなみ」

 与流よるは、その名を舌に乗せた。

 うん。忘れていない。


 同じような年頃に思えた。あの男に車椅子の自分は、どう見えたのだろう。

 フレンドリーな空気感を醸し出していたが、ちょっと苦手に思えた。

 元の自分もそうだったんじゃないだろうか。


 でも介護士が陰キャだったら、それはそれでいやだな。

 この療養所サナトリウムのスタッフは皆、やわらかな物腰をしている。

 目が合うと静かに微笑んでくれる。

 役立たずと責めたりしない。

 それで、少しばかり休んでいいんだと思えた。

 脚が治らない限りは働けないわけだし。有休もまったく消化できていなかったみたいだ。久しぶりの休暇なんだ。これは。


 ゆっくりするのも治療の内だと言われた。

 だからか、まどろんでいる時間が長い。

 自分が孵化する前の卵の中の雛のように思える。


 明日、目を覚まして、忘れていることがなければいいな。

 毎日、生まれたてのような状態は少し苦しい。

 でも、朝の光を見るのは好きだ。


「好きだ」


 忘れてしまったぼくは、何が好きだったんだろう。

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