仕方ない
紙魚。
仕方ない
放課後になると、
彼女はよく神社に立ち寄っていた。
学校から家へ帰る途中にある、小さな神社だ。
鳥居の朱色はところどころ剥げていて、境内はいつも静かだった。
参道は短く、夕方になると人影はほとんどない。
拝殿の横に、ひときわ大きな木が一本だけ立っている。
彼女は決まって、その近くに腰を下ろした。
石段でも、縁側でもない。
何度も試した末に、そこに落ち着いたように見えた。
「今日さ、ほんと最悪だったんだけど」
初めて聞いたのは、そんな言葉だったと思う。
誰かを探す様子もなく、スマホを見るでもなく、
彼女はただ、そこに座って話し始めた。
クラスのこと。
部活のこと。
家のこと。
話の内容は、特別なものじゃない。
どこにでもある、ありふれた愚痴だった。
「数学の小テスト、意味わかんなくない?」
「部活さ、また顧問が機嫌悪くて」
「家に帰るとさ、なんか疲れるんだよね」
途中で言葉に詰まることはあっても、
話すのをやめることはなかった。
沈黙ができると、少しだけ困った顔をして、
また別の話題を探す。
「それは、きついな」
そう言ったつもりだった。
実際に声に出たかどうかは、よく分からない。
それでも、会話は続いているように思えた。
彼女は頷くことも、返事を待つこともなく、
自分のペースで話を進めていく。
「ねえ、聞いてる?」
そう言われた気がして、少し考えた。
聞いている、という言い方が正しいのかどうかは分からない。
ただ、声ははっきり届いていた。
「聞いてるよ」
そう返すつもりで、頭の中で言葉を整えた。
けれど、何をどう返せばいいのかを考えているうちに、
彼女は次の話題に移ってしまう。
何か言おうとすると、いつも少し遅れる。
彼女は、人の言葉を待つタイプじゃない。
そういうふうに見えただけかもしれない。
でも、こちらの反応を確かめるようなことは、ほとんどなかった。
彼女は話す。
こちらは、聞く。
それだけで、成立しているように感じられた。
何日か通ううちに、
彼女の話には少しずつ癖があることに気づいた。
話し始めは、決まって学校のこと。
次に部活の愚痴。
最後に、家の話。
順番が違うことは、ほとんどない。
同じ話を、少しだけ言い換えて繰り返すこともあった。
「この前も言ったっけ?」
そう言いながら、結局、最初から最後まで話してしまう。
それを止める理由はなかった。
止めたところで、どうなるわけでもない。
放課後の神社は、
いつも同じ匂いがした。
湿った土と、古い木の匂い。
風が吹くと、葉が擦れる音がする。
それ以外には、ほとんど何も聞こえない。
彼女は、その静けさを気に入っているようだった。
「ここ、落ち着くよね」
そう言われたことがある。
誰に向けた言葉なのかは、分からない。
日が短くなり始めた頃から、
少し気になることが増えた。
夕方になると、
暗くなるのが前より早い。
時計を見る習慣はなかったけれど、
気づくと、境内の影が長く伸びている。
もう帰った方がいいんじゃないか。
そう思うことが、何度もあった。
暗いから気をつけた方がいい。
そう思った。
「暗いから、気をつけて」
何度か、そう言ったつもりになった。
実際に伝わったかどうかは、分からない。
彼女は、なかなか帰らなかった。
話が一区切りつくたびに、
立ち上がる気配はあるのに、
また腰を下ろして、続きを話す。
「もうちょっとだけ」
誰に向けた言葉なのかは、分からない。
でも、
彼女は聞く耳を持たない。
少なくとも、その時のぼくには、そう見えた。
その日は、風が冷たかった。
昼間はまだ秋の名残があったのに、
夕方になると、急に気温が下がった気がした。
境内に入ると、空気がひんやりとしている。
彼女は、いつも通りの時間に現れた。
制服の上にカーディガンを羽織り、
鞄を肩にかけている。
「寒くなってきたね」
そう言いながら腰を下ろす。
声は少しだけ弾んでいた。
今日も、話の順番は変わらない。
学校のこと。
部活のこと。
家のこと。
「最近さ、帰るの遅いって言われるんだよね」
それが誰に、なのかは言わない。
でも、表情を見れば、
あまり嬉しい話じゃないことは分かった。
「別にいいじゃん、って思うんだけど」
そう言って、彼女は笑った。
いつもの、無理をした笑い方だった。
日が沈むのは早かった。
話の途中で、
境内の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。
「暗いね」
彼女はそう言って、周囲を見回す。
けれど立ち上がる気配はない。
暗いから気をつけた方がいい。
そう思った。
「暗いから、気をつけて」
何度目かの、その言葉を、
また頭の中で繰り返す。
彼女は、聞いていないようだった。
少なくとも、
こちらの言葉を待つような間はなかった。
しばらくして、
ようやく話が一区切りついた。
「じゃあ、帰る」
そう言って、立ち上がる。
鞄を持ち直し、
一度だけ、こちらを見る。
見られた、
という感覚だけが残った。
彼女は鳥居を抜け、
参道の先へと歩いていく。
街灯は少なく、
すぐに背中が闇に溶けた。
そのあとで、
二つの影が動いたことに気づいた。
参道の外、
街灯の届かない場所だ。
人影が寄り添うようにして進んでいく。
楽しそうに話しているようにも見えるし、
ただ笑っているだけのようにも見える。
何か言うべきだったのかもしれない。
でも、その考えはすぐに引っ込んだ。
何を言っても、
彼女はきっと聞かなかった。
そう思う方が、楽だった。
それは、
ぼくがどうこうできることじゃない。
そう思う方が、自然だった。
しばらくして、
声のようなものが聞こえた。
悲鳴だったのかどうかは、分からない。
風に混じった音にも、
遠くで何かが軋んだ音にも聞こえた。
境内は、すぐに静かになった。
しばらく待った。
時間の感覚は、曖昧だった。
やがて、
二人組が参道を戻ってきた。
何事もなかったように歩き、
笑いながら通り過ぎていく。
こちらを気にする様子はない。
それから、
彼女が戻ってきた。
制服は乱れていて、
足取りは覚束なかった。
視線は合わない。
そのまま、
境内を横切り、
鳥居の外へ出ていく。
引き止める理由は、見つからなかった。
その日から、
彼女は神社に来なくなった。
放課後になると、
境内は静かだった。
風の音と、
遠くを走る車の音だけが聞こえる。
同じ時間に、
同じ場所を見てしまう。
今日は来るだろうか。
そんなことを考えるのは、
いつの間にかやめていた。
来ない日が続くと、
それが当たり前になる。
秋が終わり、
冬が来た。
境内に落ちる葉の色が変わり、
足元が乾いた音を立てる。
誰も座らない場所を、
何度も見た。
やがて春が来て、
桜が散って、
また夏が近づく。
それでも、
彼女は来なかった。
来ないことに、
慣れていった。
仕方ない。
そう思う回数が、
少しずつ増えていった。
暑くなった頃、
久しぶりに彼女が神社に来た。
放課後の時間帯だった。
蝉の声が、境内の外から聞こえてくる。
制服ではなかった。
私服姿で、長袖を着ている。
季節に合わない服装だと思った。
けれど、それを口にする理由は見つからなかった。
彼女は、まっすぐこちらに近づいてきた。
迷う様子はない。
何も言わずに、
いつもの場所に腰を下ろす。
一瞬、
以前と同じように話し始めるのかと思った。
でも、彼女は黙ったままだった。
しばらくして、
鞄から紐のようなものを取り出す。
細くて、
強そうな紐だった。
結び目を確かめる手つきは、
慣れているように見えた。
何度も、
同じことを繰り返してきた人の動きだった。
止めた方がいい。
そう思った。
「やめた方がいい」
そう言ったつもりだった。
言葉は、
頭の中でははっきりしていた。
でも、
彼女の表情は変わらない。
彼女は、
すぐ隣で、
紐を結び直し始めた。
位置を少し変え、
張り具合を確かめる。
一つひとつの動作が、
丁寧だった。
止めなければならない。
今度こそ。
そう思った。
今度こそ。
でも、その考えも、
途中で終わった。
彼女は、
すぐ隣で、
体重を預けるようにして、
動かなくなった。
時間が、
どれくらい経ったのかは分からない。
風が吹いて、
葉が擦れる音がした。
遠くで、
誰かの声がした気もする。
何も変わらない。
境内は、
いつも通りだった。
気づいた時には、
空が明るくなっていた。
朝の光が、
境内を照らす。
鳥居の向こうで、
人の気配がした。
誰かが、
何かを見つけて、
声を上げた。
その声が、
こちらに近づいてくる。
それでも、
何もできなかった。
それは、
今回に限った話じゃない。
これまでも、
そうだった。
これからも、
きっと。
仕方ないと、
そう思えることにも、
もう慣れていた。
仕方ない 紙魚。 @shimi_
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