聖母の卵

宮永レン

聖母の卵

 教育実習生の瀬戸敦が、聖アルカアウィス女学園にある時計塔から転落死したのは、雨の降りしきる金曜の夕方だった。


 このことは全寮制の女子生徒たちに大きな衝撃を与えたが、警察から不慮の事故として処理されると、日々の落ち着きを取り戻していた――ただ一人の少女を除いては。


「急がなきゃ。アリス会長が戻ってくる前に……」

 一年生の小鳥遊つぐみは、三年生の九条院アリスの部屋にこっそりと身を滑り込ませると、部屋の中を見回した。


 優しいフローラル系の香りとバニラのような甘い香りが鼻腔をくすぐる。いつもアリスが身につけているヘアコロンの香りだ。


 きっちりと整頓された部屋は、生徒会長でもあるアリスの性格が見て取れるようだった。彼女は今、学園長と司祭と面会を行っている時間だ。週に一度行われている「告解と調律の儀」という、生徒たちの生活態度などを報告する時間があるのだ。


「何も……見つかるわけないわよね」

 不安に駆られながらも、疑わしいものがないのを確認して、少し安堵した時だった。


 机の抽斗を開けると、中のノートからはみ出ている複数の写真の端が目に留まった。


「なに、これ……」

 写真を抜き取ってみた彼女の心臓が、どくりと嫌な音を立てた。


 それは、つぐみが図書室でまどろむ横顔、教室で着替えをしている無防備な背中、おいしそうにデザートを食べている姿など、あきらかに隠し撮りと思われる写真ばかりだった。そしてその写真のすべてに、針や刃物で傷をつけたような痕が残っている。


 いったいどういうことなのだろう、なぜこんな写真がアリスの部屋にあるのか。


「何をしているの、つぐみ?」

 背中に浴びせられた冷たい声に、つぐみは慌てて写真を抽斗に突っ込んで閉めた。

 だが、部屋の入り口に立っているアリスの凛とした瞳に嘘はつけなかった。


「申し訳ありません、アリス会長。あなたを信じたかっただけなんです……」

 つぐみは祈るように両手を握り合わせる。


「どういうことかしら?」

 部屋の扉を閉め、アリスがゆっくりと近づいてきた。


「あの転落事故があった日、時計塔へ入っていく会長と瀬戸先生の姿を、校舎の二階の渡り廊下から見ていたんです」


「ふうん……でもあなたはそれを警察には言わなかったのよね?」


「だって、私の見間違いで、アリス会長にご迷惑をおかけするかもしれないと思ったら、すぐには言えなくて……」


 アリスは白磁の美貌と万象を支配するような完璧な頭脳を持ち、学園という檻の中に君臨する絶対的秩序のような存在だった。


 多くの女子生徒が彼女に憧れており、つぐみもまたその一人である。


 だから、そんな高潔な彼女が人を殺したとは思いたくなかった。瀬戸とは何の関係もない、それがわかればいいと思って部屋に忍び込んだ。

 思いのほかアリスが戻ってくるのが早いのは誤算だった。


「それなのに、私の部屋にこっそり入ったのはなぜ?」


「すみません……先生と、その、人には言えないような、関係があったのかなと思って……でも……」

 つぐみは抽斗に目を落とし、しどろもどろに語った。


 そんな後輩を見て、アリスがふわりと微笑む。


「あなたの見た通り、私はあの日、瀬戸先生と二人で会っていたわ。でもそれは、つぐみのためだったのよ」


「私の、ため……?」


「瀬戸先生は教師の卵なんかじゃない。孵化してはいけない腐った怪物だったの」

 アリスの瞳が冷たく暗い光を湛える。


「その写真は瀬戸先生が撮って、持っていたものよ。私はすべて捨ててとお願いした」

 二人きりになれる場所が時計塔だった。あそこは鍵が壊れていて、いつでもだれでも入れる状態だった。


「でも瀬戸先生は拒否したの。知られたからには黙って帰すわけにはいかないって、もみ合いになっているうちに、雨で濡れた床で先生が滑って姿が消えた、それだけ」


 それだけ、と淡々に話す彼女にうっすらと寒気を覚える。


「それが本当なら、どうして正直に警察に言わなかったんですか?」

 本当は事故ではなく、故意に突き落としたのではないか、そんな不安で胃の辺りが重くなっま。


「瀬戸先生のスマートフォンには、あなたの写真以外にも何人かの女の人たちの無惨な遺体の写真があったの。つまり、あなたは次の標的だったのよ。その写真は、彼が『次はどこを傷つけようか』と想像しながら切り刻んでいたもの、というわけ」


「そんな……」

 つぐみは吐き気を催して口元を押さえた。


「スマートフォンはデータの復元ができないように壊しておいたから、第三者があなたの写真を見ることはないわ」

 アリスはつぐみの頬を、冷たい指先で撫でた。


「この写真、頭にくるけど、とてもよく撮れているわ。あなたの雛鳥のような純粋無垢な魅力が、彼という怪物のフィルターを通して完璧に切り取られている。こんな姿を警察や他の人にまで見せるなんて、もったいないと思ったの」

 アリスは、抽斗を開けると、写真を撮りだして胸に抱いた。


「そんな理由で……?」

 つぐみは、自身の足が震えていることに気づく。


「怯えることはないわ。これからも私があなたを守ってあげるから、ずっとこうしていましょう?」

 清廉な百合の甘い芳香漂うアリスに抱き寄せられ、つぐみの背筋に甘美な戦慄が走った。


「いいわね、私のかわいい小鳥ちゃん」

 アリスの柔らかい唇が、つぐみの耳朶に触れる。


 この人は、卵を温める慈悲深い母鳥ではない、そう思うのに声が出ない。


 学園のカリスマであるアリスの秘密を、自分だけが知っている。


 それは何物にもかえがたい甘い毒のように、つぐみの脳を痺れさせていった。


-了-


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