蝙蝠と人の娘

夜浩

蝙蝠と人の娘

夜は、私の居場所だった。

正確に言えば、私は夜に属していた。


長く生きすぎた私は、

人の世界に深く関わらないことを選んでいた。

近づけば、壊れる。

壊れると知っているから、距離を守る。

それが、夜に立つ者の流儀だった。



娘は、夜に迷い込んできた。


迷子ではなかった。

昼の世界で息ができなくなり、

静かな場所を探していただけだった。


彼女は、私を見ると少し驚き、

それから、ほっとしたように笑った。


恐れてはいなかった。

それが、最初の誤算だった。



彼女は歌った。


誰かに聞かせるための歌ではない。

言葉にすれば壊れてしまう感情を、

旋律の裏に隠した歌だった。


「置いていかないで」


その言葉は、歌詞にはなかった。

だが、すべての音に滲んでいた。


夜に立つ者は、

人の歌へ耳を傾けてはいけない。


それでも私は、聞いてしまった。



娘は、夜ごと現れた。

朝が来るまでの、短い時間。


多くは語らなかった。

沈黙が、会話の代わりになった。


彼女は、安心した顔をしていた。

私は、その顔が夜に馴染んでいくのを見ていた。


夜は、人を癒す。

だが、人間にとっては毒にもなる。


この距離は、美しいが、長くは続かない。



娘の歌は、次第に変わっていった。


旋律は柔らかいまま、

音の奥に、切実さが混じり始める。


それは、夜に溶かすつもりの叫びだった。

最後の、助けを求める声だった。


私は知っていた。

応えれば、彼女は救われたように感じる。

だがそれは、現実を引き寄せる行為だ。


夜の肯定は、

朝の重荷になる。


それでも私は――

応えてしまった。


「君は、独りではない」


その言葉を選んだ瞬間、

彼女は、長く息を止めていた人のように笑った。


安堵だった。

同時に、破滅の兆しでもあった。



翌朝、彼女は言った。

眠れた、と。


だが朝は残酷だった。

夜で肯定された感情は、

朝の光の中では、重すぎた。


身体が先に悲鳴を上げた。

心はまだ、夜にいたのに。


会えば戻ってしまう。

声を聞けば揺れてしまう。

目を見れば、答えを出してしまう。


それを、彼女は知っていた。


だから彼女は、来なかった。


冷めたからではない。

好きだったからだ。



私は動かなかった。

動けば、壊す。


夜に立つ者として、

最後に守れるのは、距離だけだった。



朝が来る。

人の世界が目を覚まし、

娘は、昼の側へ戻っていく。


私は夜に残る。

いつもの境界線で。


夜は、奪わなかった。


ただ、人が生きるには、

少し深すぎただけだ。

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蝙蝠と人の娘 夜浩 @yahiro_2025

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