第2章 近すぎる距離、文化祭
文化祭の準備期間は、校内の空気を一変させる。
廊下には色とりどりの画用紙が貼られ、どこからともなく段ボールを切る音や、ペンキの匂いが漂ってくる。普段は静かな放課後も、この時期だけはざわざわと落ち着かない。
――本来なら、私にはあまり関係のない時間だった。
クラスの中心にいるタイプじゃないし、準備で仕切る役も、盛り上げ役も、全部苦手。できることといえば、言われた作業を黙々とこなすくらいで。
でも。
「……朝比奈先輩、こちら手伝ってもらえますか?」
「はいはい、了解」
明るい声で返事をしながら、私は内心で何度目か分からない溜め息をついた。
――私、今、朝比奈先輩の身体なんだよね。
視線が、集まる。
クラスの女子たちの、期待と好奇心が混じった目線。
「やっぱ先輩がいると安心感あるよね〜」
「顔がいいだけじゃなくて動けるし」
笑顔で相槌を打ちながら、内心は必死だった。
先輩ならこう言うだろう、こう動くだろう、と、頭の中でシミュレーションを繰り返す。
……正直、疲れる。
『無理しなくていい』
昨夜、メッセージでそう送ってくれたのは、私の身体に入っている朝比奈先輩だった。
『できないことは、できないって言って』
でも、それができたら苦労しない。
朝比奈先輩としてここに立っている以上、
「できません」は許されない気がしてしまう。
だから私は、今日も笑う。
――朝比奈蓮の顔で。
*
一方その頃。
私のクラスでは、別の意味でざわつきが起きていた。
「……澪、今日どうしたの?」
親友の桐谷ひなが、怪訝そうな顔でこちらを見る。
私は――正確には、私の身体に入った朝比奈先輩は、少し困ったように視線を逸らした。
「どう、って?」
「なんかさ。
澪って、もっと……こう、引っ込んでるじゃん」
ひなの言葉は、容赦がない。
「今日は目、ちゃんと見て話すし。
声もはっきりしてるし」
先輩は、一瞬だけ言葉に詰まった。
――ばれたかもしれない。
「……文化祭だから、かな」
苦笑いで誤魔化すと、ひなはじっと顔を覗き込んできた。
「ふーん……」
納得していない顔。
でも、それ以上は踏み込んでこなかった。
それが、少しだけ救いだった。
*
昼休み。
校舎裏の自販機前で、私たちは落ち合った。
周囲には人がいない。
準備でみんな忙しく、ここは不思議なくらい静かだ。
「……大丈夫?」
私の身体の先輩が、小さな声で聞いてくる。
「……なんとか」
そう答えたものの、本音を言えば、余裕なんてなかった。
「みんなの視線が、すごくて……」
「だよね。
俺も、澪のクラスで浮いてる」
苦笑する先輩。
その表情が、あまりにも“素”で、胸がきゅっとした。
入れ替わってから気づいたことがある。
朝比奈先輩は、完璧なんかじゃない。
周囲の期待に応えるために、
ずっと気を張って生きてきた人だ。
「……先輩」
「ん?」
「無理、しないでください」
言った瞬間、自分でも驚いた。
いつもなら、こんなこと、絶対に言えない。
先輩は、少し目を見開いてから、ふっと笑った。
「それ、俺の台詞」
視線が絡む。
近い。
近すぎて、相手の呼吸のリズムまで分かってしまう。
――先輩の心臓の音が、聞こえる。
ドクン。
ドクン。
昨日より、少し早い。
「……」
無意識に、胸元を押さえてしまう。
「澪?」
「……いえ」
ごまかすように首を振る。
だめだ。
これ以上近づいたら、何かが壊れてしまう。
*
文化祭当日。
校内は、想像以上の熱気に包まれていた。
私のクラスは、喫茶店。
先輩のクラスは、展示とステージ企画。
忙しさに追われるうちに、
入れ替わっていることを忘れそうになる瞬間が、何度もあった。
「朝比奈先輩、写真いいですか?」
「……はい」
カメラを向けられるたび、心臓が跳ねる。
――これは、私じゃない。
分かっているのに、
向けられる好意が、胸に刺さる。
夕方。
片付けの時間になり、控室で一息ついたときだった。
「……澪」
低い声で名前を呼ばれる。
振り返ると、私の身体の先輩が、そこに立っていた。
疲れた表情。
でも、目だけは真っ直ぐで。
「……今日さ」
少し、言い淀んでから。
「楽しかった」
その一言が、胸に落ちる。
「……私も、です」
自然と、笑っていた。
その瞬間。
外から、誰かの声が聞こえた。
「朝比奈先輩?
中にいますか?」
現実が、割り込んでくる。
私たちは、はっとして距離を取った。
――そうだ。
この時間は、永遠じゃない。
文化祭は、終わる。
この入れ替わりも、いつか終わる。
その事実が、
胸の奥で、静かに、でも確かに重くなっていく。
私はその重さから、目を逸らすように、
もう一度、朝比奈先輩の顔で笑った。
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