第1章 先輩の声で、目が覚めた朝

 目を覚ました瞬間、まず違和感があった。

 天井が、やけに高い。


 ――あれ?


 寝返りを打とうとして、ベッドの軋む音に気づく。自分の部屋のそれより、少し低く、重たい音。カーテンの色も違う。淡いベージュじゃなくて、深い紺色。知らない部屋だ、と理解するより先に、胸の奥がざわついた。


 夢の続きだろうか。

 そう思って、目を閉じ、もう一度深呼吸を――しようとして、止まる。


 呼吸の感覚が、違う。


 胸が、重い。

 肺が広い。

 心臓の音が、低く、強く、はっきりと聞こえる。


 恐る恐る、布団から腕を出した。

 そこにあったのは、私の腕じゃなかった。


 骨ばっていて、指が長い。

 日焼けした、男の人の腕。


「……っ!」


 声を上げようとして、喉がひくりと震えた。

 出てきたのは、聞き慣れない、少し低めの声。


「……は?」


 その一言で、頭が真っ白になる。


 ベッドから転げ落ちるようにして立ち上がり、部屋の奥にある姿見の前へ駆け寄った。足が長くて、重心がいつもより高い。視界が、少しだけ上にある。


 鏡の中に映っていたのは――


「……朝比奈、先輩……?」


 学校で知らない人はいない。

 成績優秀、運動万能、顔もいい。

 女子の憧れを一身に集める、三年の先輩。


 その朝比奈蓮が、パジャマ姿で、呆然とした顔をしてこちらを見ていた。


 いや、違う。

 見ているのは、私だ。


「うそ……でしょ……」


 膝が笑って、鏡の前にへたり込む。

 心臓の音が、やけにうるさい。ドクン、ドクンと、胸の内側から響いてくる。


 昨日のことを思い出そうとする。


 放課後。

 雨。

 昇降口。


 濡れた床で滑りそうになった私の腕を、誰かが掴んだ。


『大丈夫?』


 振り返った先にいたのが、朝比奈先輩だった。

 近すぎる距離に、心臓が跳ねたのを覚えている。

 その直後、雷が鳴って、視界が白く――


「……そこから、覚えてない……」


 じゃあ、これは何。

 夢? 悪夢? それとも。


 震える指で、スマートフォンを探す。

 ロックを解除する指紋が、私のものじゃないのに、当たり前みたいに認証されて、また心臓が跳ねた。


 通知欄に、一件の未読メッセージ。


【結城さん】


 表示された名前に、息が止まる。


 結城澪。

 ――私の名前だ。


 恐る恐る、メッセージを開く。


『……起きてる?

 信じられないと思うけど、今すぐ電話出て』


 画面を見つめたまま、指が動かない。

 これは、夢じゃない。


 通話ボタンを押した瞬間、耳元で、聞き慣れた声がした。


『……澪?』


 それは、間違いなく、私の声だった。


「……せん、ぱい……?」


 朝比奈先輩の身体で、私の声が出る。

 その事実だけで、涙が滲む。


『……やっぱり。

 よかった、繋がった』


 電話の向こうで、ほっと息を吐く音。

 それが、妙に近く感じられて、胸が締めつけられた。


『落ち着いて聞いて。

 俺、多分……君と、入れ替わってる』


 頭では分かっていた。

 分かっていたはずなのに。


「……なんで……」


 震える声で、それだけを絞り出す。


『ごめん。

 原因は分からない。でも――』


 少し、間があった。


『君の身体で目が覚めたとき、

 一番に思ったのが……怖がってないかな、って』


 その言葉に、胸の奥が、きゅっと音を立てた。


 私の身体で。

 私の声で。

 そんなことを言われるなんて、思ってもみなかった。


「……怖い、です……」


 正直な気持ちが、零れ落ちる。


「……でも……」


 鏡の中の先輩――いや、私が、泣きそうな顔をしている。


「先輩の心臓、

 すごく、うるさいです……」


 一瞬の沈黙。

 それから、電話越しに、微かな笑い声。


『……それ、俺も同じ』


 胸の奥が、少しだけ、温かくなった。


 この日、私と先輩の時間は、

 他の誰にも分からない形で、静かに始まってしまった。


 ――元に戻れるかどうかも、分からないまま。

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