第1章「見知らぬメール」

 桜井美咲は、いつものように朝のホームルームに向かって廊下を歩いていた。制服の紺色のブレザーに、ほんのり日差しが反射して光る。誰もが当たり前に過ぎていく日常――美咲自身も、特に変わったことは何もないと思っていた。


 しかし、その日の放課後、スマートフォンの画面が彼女の平穏を微かに揺さぶった。見慣れないアドレスから一通のメールが届いていたのだ。


「差出人不明」――その文字を見た瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。

『誰…?』


 好奇心と不安が交錯する。思わず指先が震えながら画面をタップする。メールの内容は、たった一行だった。


 


 美咲は目を丸くした。昨日? 帰り道? 誰かに心配されるようなことなんて、なかったはず…。頭の中で昨日の記憶を必死にたどる。しかし、思い当たることは何もない。


「……誰?」


 小さく呟いた声が、静まり返った部屋に響いた。胸の奥には、妙なざわつきが広がる。恐怖と不安だけではない。どこか、心がそわそわと高鳴る感覚――それは、知らない誰かに見つめられているような、奇妙な感情だった。


 美咲は何度もメール画面を見つめた。差出人の名前も、写真も、何もない。数字と英字が並ぶアドレスだけが表示されている。その無機質な文字列に、なぜか心を惹かれる自分に気づく。


「……返事、してみようかな」


 頭の中で何度も考えた末、指先が画面の返信欄に触れる。けれど、指は止まった。

“本当に送っていいの?”

 不安が渦巻く。間違えていたら? 迷惑だったら? そんな小さな恐怖心が、心を締め付ける。


 しかし、同時にもう一つの気持ちも芽生えていた。

 会話をしたい。もっと知りたい。


 その夜、美咲は布団にくるまりながらスマートフォンを握りしめた。何度も指が画面に触れるが、文章はなかなかまとまらない。

「昨日…大丈夫でしたか、って…」

 意味もなく繰り返す言葉。頭の中で、その一文が何度も反響する。胸がぎゅっと締め付けられるような、甘く苦い感覚――美咲は自分の心臓の音を意識した。


 結局、返信は翌朝に持ち越すことにした。布団の中で、目を閉じる。

 だが、眠れない。メールの存在が、日常にひそやかな影を落とす。知らない誰かの文字に、心が揺さぶられる――その予感が、彼女の胸を不思議な熱で満たした。


 翌日、教室の窓際で美咲は友人の佐々木未来に相談した。

「ねぇ、変なメールが来たんだ…知らない人から」


 未来は眉をひそめる。「え、誰から? 変な人じゃないの?」


「分からないの…ただ、昨日の帰り道、大丈夫でしたか? ってだけで…」


 美咲の言葉に、未来は少し笑いをこらえながら、「それって…誰かが心配してくれてるってことじゃない?」と言った。


 その瞬間、美咲の胸がわずかに跳ねた。心配? 自分を心配してくれる人? そんな気持ちを抱くのは、初めてのことだった。


 しかし、同時に不安も押し寄せる。

 誰なんだろう。私のこと、知ってるの…?


 授業中も、彼女の頭の中はメールでいっぱいだった。机の上でスマートフォンを握りしめる手は、自然と汗ばんでいる。画面を何度も開くが、返事はまだ届いていない。


 昼休み、美咲は一人で校庭を歩きながら、心のざわつきを抑えようとした。冷たい風が頬を撫でるたびに、胸の中の期待と不安がせめぎ合う。知らない誰かと交わす、一行の文字が、これほど心を揺さぶるとは思わなかった。


 その夜、再びスマートフォンに目を落とすと、新たなメールが届いていた。


 


 美咲の頬に、熱いものが走った。自然と笑みがこぼれる。心の奥底に、何か小さな火が灯ったような気がした。

 誰だろう、この人は。

 その正体はまだ分からない。だが、心のどこかで、彼女は思わず期待してしまう自分に気づいていた。


 ――知らないメールに、恋をしてしまいそうな自分を。

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