砂漠に降る星の雨

十三番目

ほうき星


 人間の涙には、限りがあるのだと思う。


 一生で流せる量は決まっていて、それが雪の積もる山のように豊富な人もいれば、砂漠に降る雨のように僅かな人もいる。


 言い添えるなら、僕は──間違いなく後者だった。




 ◆ ◆ ◆ ◆




「何してるの」


「あ……」


 病院を囲むフェンスを、一人の少女がよじ登っていた。

 パジャマにも近い病院着を纏った少女は、僕と目が合うなり気まずそうな顔をしている。


「見逃してくれたり……しない?」


「別にいいけど、その先は川だよ」


 療養を主とした病院は、空気のいい山の麓に建てられている。フェンスを超えたところで、あるのは見渡す限りの緑か、透明な水の流れる川だけだ。


「せっかく隙をついて出てきたのに……」


「早く戻ったら?」


「そうする」


 不貞腐れた様子でフェンスから降りた少女は、手についた汚れを払うと、僕を見て揶揄うように口角を上げた。


「新入り?」


「……母さんの見舞いで来たんだ」


「ふーん。あなたも苦労してるんだね」


 僕を上から下まで観察すると、少女は病院に戻るため踵を返した。

 その後を、何となしについていく。


「ねえ、あなた名前は?」


扇田せんだ


「苗字じゃなくて、下の名前」


 聞かれた通り答えるも、振り向いた少女は不満そうに眉を上げている。


「……すい


「彗ね。いい名前」


「そういう君は、どんな名前なの?」


 響きを味わうように頷いていた少女は、自分を指してにこりと笑った。


「私はらんだよ。花の名前なんだ」


 蘭と名乗った少女は、とある病室の前で足を止めると、「じゃあまたね」と言いながらドアの先に消えていった。




 ◆ ◆ ◆ ◇




「具合はどうですか?」


「少しずつですが、良くなってると思いますよ。ここに居れば、いずれ治る日も来るはずです」


「そうですか」


 母の容体については、定期的に報告を受けていた。

 主治医との会話を終え、病院の廊下を歩く。


 片親で育った僕は、母の入院が決まってから、祖父のいる田舎へと引っ越してきた。都会よりも空気は綺麗だが、田舎の良いところなんてそれだけだ。

 見渡す限りの自然は、有り余る時間を潰してはくれない。


「あ、彗だ。今日もお見舞いにきたの?」


「まあね」


「そっかー。早く治るといいね」


 以前と同じ病院着の蘭が、声をかけてきた。

 入院患者であろう蘭に、ふと気になったことを問いかける。

 

「蘭は、いつからここに入院してるの?」


「え? うーん……どのくらいだろ」


 そう言って首を傾げる蘭は、大まかな期間さえ覚えていないようだった。


「自分のことなのに、分からないの?」


 呆れた様子の僕を見て、蘭がムッとした表情を浮かべる。


「彗に言われたくない」


 知り合ったばかりで、馴れ馴れしかっただろうか。

 僕が謝罪するよりも早く、何かに気づいた様子の蘭が大きく目を見開いた。


 視線を辿った先には、一人の男が立っている。

 髪に白髪の混じった初老の男は、こちらを凝視して固まっていた。


「……お父さん」


「え?」


 蘭がこぼした言葉に、思わず声を漏らす。

 男に背を向け走り出した蘭を追いかけるため、僕も慌ててその場から駆け出した。


 一瞬だけ振り返った時に見えたのは、こちらに手を伸ばす男の姿だった。




 病院の中庭で蹲る蘭に、どう接するべきか分からず立ち尽くす。

 黙って傍にいるだけの僕を、蘭が少し赤くなった目で見上げた。


「……ごめんね。いきなり走ったりして……」


「いや、まあ……うん。驚きはしたけど、それだけだから」


 口下手なのが、ほんの少し嫌になった。


「僕でいいなら、話……聞こうか?」


 蘭の瞳が揺れて、迷うように伏せられる。

 震える唇が、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「……私、都会に憧れてて……大学に受かったら、引っ越したいって話をしたの。でも、お父さんから猛反対されて……すごく、酷いことを言っちゃった」


 膝を抱え縮こまる蘭は、涙を必死で堪える幼子のようにも見えた。


「お父さんは私の身体が弱いから、心配してくれてただけなの。それなのに……」


「……そんなに後悔してるなら、謝ってみたら? きっと蘭のお父さんも──」


「いいの。もう、合わせる顔もないから……」


 乾いた声で呟く蘭に、それ以上何も言えず黙り込む。

 走り去る蘭に手を伸ばしていた男は、悲痛そうな面持ちをしていた。

 本当は、お互いに関係の修復を望んでいるのではないか。


 そう思ったところで、とても伝えられる雰囲気ではなかった。




 ◆ ◆ ◆ ◇




 変わり映えのない日々に、深く息を吸って吐く。

 空気だけはいい田舎の景色を、することもなく眺めていた。


 病院を囲むフェンスの先には、青々とした葉が茂っている。

 いくら考えてみても、フェンスをよじ登っていた蘭が何をしたかったのか、答えに辿り着くことはなかった。


「やほー、彗じゃん。元気だった?」


 背後からかけられた声は、つい今し方考えていた人のものだ。

 以前の暗さはすっかり雲散したようで、初めて会った時と同じ明るい笑みを浮かべている。


「そこそこかな。そっちは?」


「んー、私もそこそこかな」


 隣に腰掛けた蘭が、僕の視線を追うように顔を動かす。

 何度見ても、ここの病院着はパジャマみたいだ。

 木製のベンチに並んで座りながら、ふとそんな事を思った。


「あのフェンスが気になるの?」


「フェンスがって言うより、なんで登ってたのかなって……」


「あー、彗ってば私のこと考えてたんだ」


 にやにや笑う蘭を、無感情な目で見つめる。

 冗談なのにと唇を尖らせた蘭は、ふと真面目な表情になると「星が見たかったの」と呟いた。


「星?」


「田舎の星って、都会よりも綺麗に見えるでしょ。だから、久しぶりに寝転がりながら、空いっぱいに広がる星を眺めてみたいなあって思ってたの」


 盲点だった。

 何もない田舎だと思っていたが、確かに都会よりも星はよく見える。

 とはいえ、まさか蘭が星を見るためだけにフェンスを越えようとしていたとは。答えに辿り着かないわけだ。


「別に、病院の庭からでも見れると思うけど」


「ムリムリ。夜は部屋から出れないし、窓とか開かないようになってるから、覗くこともできないんだよね」


「あー、なるほど」


 患者が夜遅くまで院内をうろつかないよう、定められた時間があるのだろう。窓もあるにはあるが、脱走防止のためか、鉄格子がつけられていた。

 

「そういえば、お見舞いはいいの?」


「もう終わった。医者も毎回同じようなことしか言わないし、母さんが退院できる日なんて、本当は二度と来ないのかもしれないなって……」


 口に出してから、ハッとした。

 たとえ事実であっても、患者である蘭にとっては不謹慎な話になりかねない。

 無言になった僕を見つめ、蘭がぱちりと目を瞬かせた。


「なんだ。少しは自覚があったんだね」


 前に会った時、呆れ半分で叩いた軽口のことを、実はまだ気にしていたのだろうか。

 蘭の中で僕は、デリカシー皆無な失礼男とでも思われていたのかもしれない。


「……僕だって、少しは気にしてるよ」


「ふーん。まあでも、いつかは退院できるよ。私も、諦めてないからね」


 前向きな声だった。

 蘭の無垢な笑顔が眩しくて、反射的に目を細める。


 あどけない笑みにふと既視感を覚えるも、面会時間の終わりを知らせる鐘の音に、自然とかき消されていった。




 ◆ ◆ ◇ ◇




 定期的な報告会を終え、病院の廊下を歩く。

 母の容体に変化はなく、主治医もいつかは退院できるはずといった、曖昧な回答ばかりを繰り返している。


「今回も同じか」


 停滞した日々のどこに、希望を見出せばいいのだろう。

 ぽつりと呟いた言葉には、無意識のうちに諦めがこもっていた。


 いつまでも変わらない母さん。

 母を諦めるべきか、待ち続けるべきか。

 こんなことを考えている時点で、僕は冷たい人間なのだろう。


 涙なんて、とうの昔に出なくなった。

 そのうち、体温さえも失くなっていくのかもしれない。

 諦めてないと笑った蘭の前向きさが、僕には眩しすぎて──いまだに目の奥で、光がチラついているような気がした。


「っ、君!」


「……僕のことですか?」


 廊下中に響いた声に思わず振り返るも、声の主であろう男以外は見当たらない。

 男と目が合ったことで、どうやら僕のことらしいと察することができた。


「何かご用でしょうか?」


「その……私は鈴星すずぼしと言う。ここには何度か訪れていたが、直接話そうにも機会に恵まれなくてな。少し……話を聞くことはできないだろうか?」


 僕を窺うように見る鈴星は、前に蘭が“お父さん”と呼んでいた男だ。

 顔を見ただけで逃げてしまう娘が相手では、なかなか機会にも恵まれないだろう。


「少しならいいですよ。何が聞きたいんですか?」


「……様子を、知りたくてな。ここではどうしているかとか、退院したらやってみたいこととか……。もっと些細なことでもいい。何だって、いいんだ……」


 徐々に声が小さくなっていく鈴星に、じっと耳を傾ける。


「僕が言うのも何ですが、悪くはないと思いますよ。たまに笑ったりもするし、退院に関しても……前向きに捉えてる気がします」


「そっ、そうか……! それなら良かった。本当に……良かった……」


 ──何だ、愛されてるではないか。


 涙声で喜ぶ鈴星の姿は、我が子を心から思う父親のそれだった。

 ストンと落ちた安堵が、徐々に内側で広がっていく。


「……退院したら、一緒に暮らしたいと思ってるんだ。ただ、どうにも嫌われているような気がしてな……」


 蘭が鈴星を見る目には、罪悪感と悲しみをないまぜにしたような感情が宿っていた。

 親子の問題に部外者の僕が関わるのもどうかとは思ったが、蘭のために少しだけ手を貸すことにした。


「嫌っているのではなく、どうしたらいいか分からないだけだと思います」


 はっきりした気持ちは、蘭から聞けばいいことだ。

 不器用な二人に僕が出来るのは、せいぜいこのくらいのお節介だろう。


 くしゃりと顔を歪めた鈴星は、「そうか……」と囁くように呟いた。

 泣き笑いのような顔が印象的で、何となく、蘭にも見せてあげたかったなと思った。




 ◆ ◆ ◇ ◇




 八月も半ばを超えたが、蒸し暑い日々が続いている。

 病院の庭のベンチは、太陽の熱によって温められ、僕以外に座ろうとする者はいなかった。


「暑くないの?」


「暑いよ。でも、暑さには強い方だから」


 電気代を節約するため、昔は夏でもクーラーを付けないようにしていた。

 熱中症で倒れて母に叱られてからは、きちんと付けるようになったのだが。


「あのさ、彗。星を見に行かない?」


「……急にどうしたの?」


「もうすぐ、彗ともお別れかなって思ったから」


 微笑む蘭が、まるでこれから散っていく花のように儚くて──咄嗟に腕を掴んでいた。


「退院するの……?」


「んー、どうだろ。まあ、するんじゃないかな」


 曖昧な返事だが、声には確信めいたものが感じられた。


「今ね、ペルセウス座流星群が見られる時期なんだよ。だから、思い出作りにでも行かない?」

 

「いや、そもそもどうやって行くわけ……まさか」


 蘭の視線の先には、病院を囲っているフェンスがある。


「でも、夜は抜け出せないって……」


「今から抜け出すから大丈夫!」


「本気で言ってる?」


 正気を疑うような発言に、驚きよりも困惑が勝る。


「万が一悪化でもしたら、退院できなくなるかもよ?」


「それも大丈夫。むしろ、治療になるから!」


「看護師が気づいて、探しに来たら?」


「点呼は夜だから、早めに戻ればなんとかなる!」


 その自信は、いったいどこから来るんだろう。


 蘭の意志は固いようで、何を言っても無駄なのだと分かった。

 挙げ句の果てに、ため息をつく僕を見て「幸せが逃げるよ」なんて言ってくる始末だ。


「分かった。行くよ。ただし、病院側には蘭が心配で付き添ったってことにするからね」


「んふふ。いいよ、それで」


 含みのある笑顔に嫌な予感がするも、嬉しそうな蘭を見ていると、これ以上何かを言う気にはなれなかった。


「じゃあ早速、しゅっぱーつ!」


 蘭に背中を押され、仕方なくフェンスをよじ登る。

 まさか、自分もこのフェンスを登ることになるとは思わなかった。

 あの時の僕が見たら、驚きのあまり目をむくはずだ。


「で、どこに行けばいいの?」


「ここを下ると川に着くから、そこからは上流に向けて真っ直ぐ進めばいいよ」


「詳しいんだね」


「そりゃあ、生まれ故郷だからね」


 前に、蘭は都会へ引っ越したかったと話していた。

 確かにこんなど田舎では、都会に憧れる気持ちも分からなくはない。

 実際、僕も引っ越してきた当初は退屈でたまらなかった。


 だけど、蘭の生まれ故郷だと知った途端──少しだけ、この場所を好きになれたような気がした。




 ◆ ◆ ◇ ◇




 蘭の案内で着いた場所は、山の中腹くらいにある平地だった。

 割と時間がかかってしまい、空はもう夕暮れになっている。


「終わったね。説教どころでは済まないよ」


「それはまあ、追々考えるとして……。今は、目の前の光景を楽しもうよ」


 蘭と地面に寝転がりながら、暗くなっていく空と、無数に輝く星々を眺める。


「きれい……」


 そう呟いた蘭の目は、涙によって潤んでいた。

 母さんが倒れた時でさえ、僕は涙一つ流れなかった。

 砂漠のように乾いた僕の心とは違い、きっと蘭の心は、湧き水の溢れる山のように豊かなのだろう。


 蘭ならきっと、父親とも上手くやっていけるはずだ。

 僕が名前を呼ぶと、蘭は寝転んだまま、顔だけをこちらに向けてきた。


「蘭のお父さん、一緒に暮らしたいって言ってたよ。それに……凄く後悔してるみたいだった」


 目は合わせられなかった。

 蘭がどんな表情をしているのか、知るのが怖かったのだ。


「余計なことかもしれないけど、これだけは言わせて。──蘭は、ちゃんと愛されてるよ」


 後悔と罪の意識で泣いていた蘭は、父親がどれだけ自分を思っているか目にすることはなかった。

 所詮、僕は他人だ。

 だけど、二人のことは……どうにも放っておけなかった。

 僕の枯れた心に雨を降らせた二人の絆が、とても美しく思えると同時に、ほんの少し──羨ましく思えた。


「ふっ、あはは! 親子揃って似た物同士って、ほんと笑えるよね」


 突然笑い始めた蘭は、目から涙をこぼしながら腹を抱えている。

 呆然とする僕に、蘭が「あのね」と優しく囁いた。


「──私も彗のこと、ちゃんと愛してるよ」


「……え?」


 猛烈な既視感が襲った。

 にこりと笑った蘭の顔が、誰かの顔と重なる。


「かあ、さん……?」


 蘭。らん。花の名前。


 母の名前も、確か花の名前だった。


 どんな時も凛としていて、品があって、明るくて。

 笑った顔は、少女のようにあどけなかった母さん。

 顔も知らない父さんが亡くなって、ずっと女手一つで僕を育ててくれた母さん。

 田舎に移る案も出ていたのに、受験を控えた僕に不便がないようにと、昼夜を問わず懸命に働いてくれていた──母さん。


 疲労を滲ませ、今にも倒れそうな様子で帰ってくる母さんを見て、毎日大粒の涙を流していた子供は、ある時を境にぴたりと泣かなくなった。


 母さんは心配していたが、その子供には理由が分かっていた。

 自分は既に、一生分の涙を流し尽くしてしまったのだ、と。


 母さんのために、家のことは積極的に手伝った。

 帰ってきた母さんの肩を揉んでみたり、自分も働くと提案してみたり。

 だけど、母さんは僕が働くことに関してだけは、決して首を縦に振らなかった。


 そして──その日は、突然やってきた。


 母さんの誕生日に、貯めていたお小遣いで花束とケーキを買った。

 いつもより奮発した手料理を並べながら、母さんの帰りを待っていた時、部屋に電話の音が鳴り響いた。


 警察だと名乗った人物は、信じられない話をしてきた。


 母さんが死んだ。

 信号無視をした車に轢かれ、即死だったらしい。


 意味が分からなかった。

 そんなこと、あるはずがない。

 昨日の夜、母さんは僕とくだらない話をしながら笑っていた。

 今日の朝だって、いってらっしゃいと手を振って送り出してくれた。


 たった一日で、母さんが消えるわけがない。

 嘘だ。

 嘘に決まってる。


 これは何かの夢だ……!



 その後の記憶は、ぐちゃぐちゃに塗り潰された絵のように荒れている。


 僕の祖父だと名乗る人物が、会いにきたこと。

 母が死んだという言葉に、僕がパニックを起こすようになったこと。

 祖父の家の近くにある田舎の精神病院で、療養することになったこと。


 断片的だが、少しずつ記憶が戻ってくる。


 蘭は、母の名前だ。

 扇田は父の苗字で、母の旧姓は鈴星だった。


 これまでの蘭との会話が、脳をぐるぐると駆け巡っていく。

 蘭の入っていった病室。あそこは、僕の病室だ。

 そう、そうだった。

 病院に入院しているのは、母ではない。


 初めから、僕の方だったのだ──。



「若気の至りで家を飛び出して、都会で結婚までしたのに、夫には急逝されて独りぼっち。もう駄目だーって時に、たまたまほうき星が見られるって知って、ほとんどヤケクソでこの場所に来たの」


 ぽつぽつと話し出した蘭の声が、少しずつ大人びていく。


「いざ目にしたら、涙が溢れて止まらなかった。もう一度見たいと思ったけど、次は何十年も先って知って、なら生きるしかないなって思えた。そしたらね、その一週間後に、子供を授かっていることが分かったの」


 柔らかい声色は、まるで砂漠に降る雨のようだ。

 乾いた砂の地に、水の跡が増えていく。


「独りじゃないんだって思ったら、俄然やる気が湧いてきた。これはきっと、あの日見たほうき星からの贈り物に違いないって思ったわ。だから、彗って名前にしたのよ」


 頬に触れた手の温もりは、偽物だ。

 それなのに、どうしようもないほど温かくて、優しくて。

 頬を濡らした何かが涙だと気づくまで、ほんの少し時間がかかった。


「母さんはね、彗から沢山のものを貰ったわ。それも、充分すぎるくらいに。だからもういいの。もう、自分を許してあげていいのよ」


「……母さん……っ、僕は……!」


 抱きしめた身体が、砂のように消えていく。

 枯れたはずの涙が、次から次へと溢れてきた。


「お父さんも私も不器用だったけど、彗なら絶対に大丈夫。だって私は、いつだって彗に正直でいられたもの」


 そんなこと分かってる。

 母の言葉は、どれも本心だった。

 心の底から、僕のことを愛してくれていた。

 だからこそ、母のいない日々は奈落の底にいるかのように苦しくて、僕は現実から逃げ出したのだ。


「大好きよ、彗。どうか……幸せになってね」


 愛されていたのは、僕も同じだった。


 ぽっかりと空いた隣を見つめ、服の袖で濡れた頬を拭う。

 本当に、何度見てもパジャマのような病院着だ。


 遠くから、大人たちの呼ぶ声が聞こえた。

 身体の砂を払い、ゆっくりと立ち上がる。


 夜空に浮かぶ流星群が、まるで雨のように降り注いで見えた。




 ◆ ◇ ◇ ◇




「調子はどうですか?」


「いい感じです。頭がはっきりしてますし、ここ最近の記憶もしっかり残ってます」


「それは良かった」


 追加でいくつか質問を終えると、主治医である先生は満足げに頷いている。


「もうすぐ、扇田さんのお母様の四十九日だそうですね。それまでには退院できるよう、手配しておくつもりです。それと、お祖父様が面会にいらしてるので、この後会っていかれてください」


「分かりました」


 母の話題を出す時、先生は少しだけ警戒した目になる。

 以前の僕であれば、母の死に関する話題を耳にしただけで、パニックを起こしていただろう。


 落ち着いた態度の僕を見て、先生は目元を和らげていた。



 面会者用の個室に入ると、椅子に腰掛けていた鈴星が、緊張した様子で立ち上がった。


「医師が何と言っていたか、聞いても……?」


「母さんの四十九日に間に合うよう、退院の手続きを進めてくれるそうです」


「そっ、そうか……!」


 嬉しそうに顔を上げた鈴星は、僕と視線が合うと、静かに椅子へ座り直している。


「……私が誰か、分かるだろうか?」


「母さんの父親であり、僕にとっての祖父です」


「ああ、その通りだ」


 退院するにはある程度の症状の安定と、共に暮らす家族の意思が重要だ。

 鈴星は僕の祖父として、先生に僕を退院させて欲しいと、何度か話をしていたようだった。


「……私は、娘に何もしてやれなかった愚かな父親だ。それでも、娘の忘れ形見である君のためなら、どんな手助けだってしてやりたいと思っている」


 僅かに震える声は、鈴星の緊張を表していた。


「せめて……君が成人して、一人で世の中を歩けるようになるまででいい。どうか、老いぼれのお節介を許してもらえないだろうか……」


 差し出された手に、そっと自分の手を重ねる。

 目を潤ませる鈴星の姿を見て、確かに母さんの父親だと思った。


「いつか、僕が一人で歩けるようになったら……その時は、恩返しします。母さんの分まで……孫として」


 泣き崩れる祖父の手は、とても温かかった。



 そうして僕は、鈴星 彗になった。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 病院でのことは、ぼんやりと記憶に残っている。


 先生は蘭という存在を、僕が創り出した幻影だと言った。

 心を守るために生まれた、イマジナリーフレンドのような存在だと。


 蘭が何だったのかは、僕自身もよく分かっていない。

 先生の言う通り幻しだったのかもしれないし、それとは違う何かだったのかもしれない。

 結局のところ、真実などどうでもいいのだ。


 蘭は僕の乾いた心に、沢山の雨を降らせていった。

 この先しばらくは、どれだけ泣こうと尽きることはないほどの量だ。

 おかげで、今の僕は随分と涙脆くなった。


 夜空に星が流れる。


 あの日、病院の外で見上げた流星群のように、美しい光の筋が空を横切った。


「母さん、知ってる? 次にほうき星が見られるのは、二十年後なんだって」


 言葉にしてみると、二十年という長さに少し笑えてくる。

 その頃には、僕もおじさんの仲間入りを果たしているはずだ。


「でも……うん。この目でほうき星を見るまでは、ひとまず生きてみようと思うよ」


 呟いた言葉は無数の星のように輝き、心を照らす明かりとなって降り注ぐ。

 部屋のベランダから見上げる空は、あの日と変わらず綺麗で──。


 頬を伝った雫が、流れ星のような煌めきを放っていた。


 

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