最終話 爆誕、イクラ本能寺!
ペチッ、ヌチャッ……
月影の指がスマホを叩くたびに、生筋子の粘液による不快な粘着音が響く。
時刻は午前4時。北関東の夜明け前。
月影の目は虚ろになり、半ばトランス状態に入っていた。
画面の中で繰り広げられるのは、もはや歴史小説ではない。狂気と魚卵が支配する、前衛的グルメファンタジーだ。
「……書けた。これで、いいんだろう」
月影が魂の抜けた声で呟き、スマートホンを強く(ヌルッと)押した。
タイトル:『本能寺の変 ~敵はイクラにあり~』
あらすじ: 天正10年6月2日。明智光秀の謀反により、本能寺は炎に包まれた。
死を覚悟した織田信長は、最後に南蛮渡来の珍味を所望する。
しかし、蘭丸が持ってきたのは、手違いで北海から届いた大量の「イクラ」だった。
燃え盛る炎の熱気で、イクラは次々と弾け飛ぶ!
信長は舞う。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢イクラのごとくなり」と!
そして熱々のご飯にイクラをぶっかけ、最期の晩餐としてかきこむのだ!
◇
「完璧なんだホッ!!」
トリさんが翼を広げて絶叫した。
「この熱量! この不条理! そして圧倒的シズル感! これぞWeb小説の醍醐味だホッ!」
トリさんは満足げに何度も頷くと、月影の肩をバシバシと叩いた。
「よくやったんだホッ、月影。これで『シャケ武将』のノルマは達成されたホッ。ボクは満足して帰るホッ!」
「……もう、二度と来るなよ。俺は心臓が弱いんだ」
「それは来年の『お題』次第なんだホッ! あばよ! メリー・シャケマス!」
言い捨てると、トリさんは再び空間を歪ませ、窓の外へと飛び去っていった。
後には、嵐が過ぎ去ったような静寂と、部屋中に散らばった筋子の残骸、そして虚脱した中年男と二匹の猫が残された。
◇◇◇
「……腹が、減ったな」
月影がポツリと漏らした。
極限の集中とストレスは、猛烈な空腹を招く。
月影はスマートホンと周りの筋子を拭き取ると、残された大量の生筋子と、冷蔵庫の卵を見比べた。
「……サファイア、さくら。飯にするか」
月影の「料理人」としてのスイッチが入る。
たとえ理不尽な状況で残された食材でも、粗末にはしない。それが職人の矜持だ。
それに、これだけ大量の高級筋子、スーパーで買えばいくらになるか。貧乏性の月影には捨てるという選択肢はない。
月影は手早く筋子をほぐし、薄皮を取り除いていく。
醤油、酒、みりんを合わせた特製ダレに数分漬け込む「即席イクラ醤油漬け」を作る。
そして、丼にご飯をよそい、その上にふわとろに仕上げた半熟のスクランブルエッグを敷き詰める。
最後に、タレの染みた赤い宝石――イクラを、親の仇のようにたっぷりと乗せた。
「完成だ。『特製・イクラと卵の他人丼』」
黄色い卵の海に、赤いイクラが輝く。色彩の暴力的なまでの美しさ。
月影は丼を三つ(人間用と猫用二つ)並べた。
「食うぞ」
月影、サファイア、さくら。一人と二匹は、無言で丼に顔を埋めた。
ガツガツ、ハフハフ……
口の中で、濃厚な卵の甘みと、プチッと弾けるイクラの塩気が混ざり合う。
熱々のご飯がそれらを包み込み、えも言われぬ幸福感が脳髄を駆け巡る。
「……うまい」
月影の目から、自然と涙がこぼれた。悔しさなのか、達成感なのか、単に美味すぎるのか、自分でも分からない。
『……フン』
サファイアが、口の周りにイクラを一粒つけたまま顔を上げた。
『アンタの書いた小説は、歴史への冒涜であり、文学へのテロリズムだったよ。……でも、この丼だけは調和が取れている。悔しいけど、絶品だね』
(お兄ちゃん! ぷちぷちしておいしい! お口の中がお祭りだよ!)
さくらも夢中で舐めている。
月影は箸を置き、大きく息を吐いた。
「……これで、よかったんだろうか」
『さあね』
サファイアはニヤリと笑った。
『でも、少なくとも「殻」は破れたんじゃないかい? ……まっ、面白かったよ、月影』
◇◇◇
年が明け、3月……カクヨムコンテストの『中間選考結果』発表の日……
月影は、震える指でスマホの画面をスクロールしていた。
あの『本能寺の変 ~敵はイクラにあり~』は、公開直後からコメント欄が荒れに荒れた。
「作者は乱心したのか?」
「深夜に見てしまって腹が減って死にそう」
「信長がイクラ丼食ってる絵面が頭から離れない」
「歴史? 知らん、美味そうだからヨシ!」
賛否両論の嵐。しかし、PV(閲覧数)は、月影の作家人生で見たこともない数字を叩き出していた。
そして、……
【カクヨムコン11 中間選考通過作品一覧】
月影の指が止まる。
そこには、しっかりと彼のペンネームがあった。
『本能寺の変 ~敵はイクラにあり~ / 月影』
「……つ、通過、してる……?」
月影は呆然と呟いた。
今までどんなに真面目な時代小説を書いても一次選考すら通らなかったのに。
イクラをぶちまけただけのカオス小説が、数千作品の中から選ばれたのだ。
「も、もしかして……これ、本当に『奨励賞』あるんじゃないか!
アマギフ、もらえるんじゃないか!?」
月影の顔がほころぶ。
大賞だなんて贅沢は言わない。ただ、この結果だけで、向こう一年分の酒の肴にはなる。
『おめでとう、と言っておくべきかねぇ』
いつの間にか、サファイアが肩に乗っていた。
『まっ、あれだけ読者の情緒を破壊すれば、印象には残るさ。「腐った卵」かと思ったけど、どうやらアンタは……とんでもない「
「……珍味、か」
月影は苦笑いした。
目指していた「格調高い時代小説家」の道とは、随分と違う方向に逸れてしまった気がする。
だが、スマホの画面に映る「🌟」の数と、読者からの熱い(空腹の)コメントを見ていると、悪い気はしなかった。
「よし……この調子で、次は長編の方の賞にも挑戦だ! さすがにもう、トリさんも来ないだろうしな」
『……そうかねぇ~』
サファイアが意味ありげに月影の耳元で囁く。
『噂じゃ、次の創作フェスのお題は……「猫」らしいよ?』
「えっ !?」
(にゃーん! ぼくの出番だー! お兄ちゃん、ぼくを主役にしてね!)
さくらが足元で期待に満ちた瞳を輝かせている。
そして窓の外では、またしても何かの気配が……?
月影の執筆生活に、平穏が訪れる日は当分来そうになかった。
「……もう、勘弁してくれぇぇぇ!」
月影のささやかな悲鳴が、北関東の空にこだました。
── 完 ──
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