卵を信じて

#zen(悠木全)

卵を信じて

 小さい頃は、勘違いをしていることがあった。

 スーパーで売られているパックの卵。それを温めさえすれば、雛鳥ひよこが孵ると思っていた。良く言えば純粋、悪く言えば無知というやつである。

 大人になった今では、もうそんなこと思わないんだけれど。

 私はふと小さい頃を思い出して苦笑する。目の前には卵のパックがある。朝食に目玉焼きでも作ろうかと思って、出したところでなぜか感傷的になってしまった。無知でも許されたあの頃。私が冷蔵庫の卵を温めても、結局は何も生まれなかったけれど、あの頃は希望に満ち溢れていて、孵らない卵をワクワクしながら見守っているだけでも幸せだった。きっと、あの卵は希望の象徴だったのだ。


 そんなことを思いながら、私は四つ卵を割ってフライパンに滑らせる。とろとろの黄身にしたいから蓋はしない。トーストにサラダと一緒に乗せてしまう方が、食べるのが楽だから。パルメザンチーズをかけたらもっと美味しいだろう。野菜がごろごろ入ったミネストローネを合わせて出すと、夫や子供たちは嬉しそうに食べてくれた。幸せな食卓。なのに、どうしてこんなに切ない気持ちになるのだろうか。

 卵が孵るのを待って胸を躍らせていた私は、そこにはいなかった。代わりにいたのは、責任と忍耐というスパイスを散りばめた、日常に追われるただのパート主婦。幸せだと思うけれど、何かが足りないような気がした。あの頃と比べても、子供時代に戻ることはできないけれど、だからといって、諦めたくないような気もして。

 私は珍しくオシャレをして街へ繰り出す。仕事も休みだし、子供たちは保育園に預けて、たまには自分を見つめ直す時間が欲しかった。そうして入ったのはショッピングモール。冬物のセールが始まっていたので、子供服を見ていた。そして夫の下着と子供服を数点買ったところで気づいた。今の私は、自分が楽しむためのショッピングをしていないことに。

 せっかくのお出かけが、なんとなくつまらないものに思えてきた私は、ショッピングモールの椅子でお茶をする。昔はオシャレなカフェに惜しげもなく足を運んでいたけれど、いつからだろう。値段ばかり気にして、楽しみを削るようになったのは。思えば今日は、昔の自分と今の自分ばかり比べている。それはきっと、私自身があの頃に戻りたいと願っているからだろう。だったら、一度何もかも忘れてあの頃に戻ってみようか。

 私は買い物をひと通り終えると、食品売り場で一パック五百円の卵を買った。とても高い卵。たしか、私が子供の頃に孵ると思って温めた卵と同じものだった。そして保育園に姉妹を迎えにいった後、ダイニングテーブルに卵を置いてこう告げた。


「これが孵ったら、もっとたくさん卵が食べられるかも」


 私が突拍子もないことを言うと、家にいた夫がぎょっとした顔でソファから頭を覗かせる。でも、なんだか面白そうな顔をしてなりゆきを見守っていた。また四才と五才の姉妹は、顔を見合わせた後、満面の笑みで手を叩いた。


「卵がニワトリになるの?」


「卵いっぱい食べられるの?」


 顔を輝かせた姉妹は、部屋にあるクッションを持ってきて、卵を温め始めた。まるで昔の自分を見ているようだった。こうやって私も両親に騙されたのである。そして幸せそうに夢を見る姉妹を見ていると、羨ましくも思う。私も無知になりたかった。何も知らず、ただ幸せな願いだけを思って生きていられたら、どれだけ良いだろう。ソファでは夫がゲラゲラ笑っている。無知を馬鹿にした笑いだった。けれど、私は笑い者にするために彼女たちに卵を与えたわけじゃない。私と同じ感動を与えたかっただけなのだ。たとえ最後に、辛い現実が待っていても、希望を持つことには価値がある。私はそう思っているのだ。たとえ幸せな時間が長く続かなくても、その一瞬だけは確かに幸せなのだから。


 そして翌日。また私は卵焼きを作ることにする。ダイニングテーブルにはクッションに沈んだ卵があるけれど、それは使わない。新しいパックの卵を割って、きれいに溶いたら卵焼き用のフライパンに流し込む。箸で少しつつきながらフライパンの上で丸めた卵焼きは、きれいな四角い卵焼きになった。甘いくぎ煮と納豆、そしてナスの味噌汁。卵焼きも並べると、夫も姉妹も幸せそうな顔で座る。視線は卵にある。食卓の中心には、クッションに乗せた卵。相変わらずバカにしたような笑みを浮かべる夫は無視をして、食事を始めようとした——その時だった。


「ママ! 卵が!」


 卵の殻にヒビが入った。

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