其の星の名は
椎葉
其の星の名は
「また下界を見ているのか」
後ろからかかる声に振り向くことなく、水鏡から目を離さないでいる青年に、声をかけた男は苦笑する。
「人の世を飽きもせず……。とんだ物好きもいたものだ」
「……なら、そんな物好きの相手などせずにさっさと仕事に出かけたらどうだ」
「そう突っかかるな。咎めているわけではない」
それまでピクリとも動かなかった青年は顔を上げて紫の瞳を細めて男を睨むと、また水鏡に視線を戻した。男は浅く溜息をつき、くるりと青年に背を向ける。
「あまり人に入れ込むな、破軍よ」
「大きなお世話だ、巨門星。大方、貪狼にでも言われてきたのだろう」
「お前には隠し事は出来んな」
「踏み込むつもりはない。余計な詮索は無用だと伝えろ」
小さく笑って去っていく姿を目だけで追い、やがてまた水鏡を見て、青年は波紋一つないそれへゆっくりと手を伸ばした。触れた途端に水面が揺れて、映っていたものが歪みと共に消えてしまうと、伸ばした指を握り締め、言葉を紡ごうとした唇を固く閉ざした。
「破軍はまた水鏡の前か」
「ああ。毎日毎日、暇があればあそこだ。一体人の世の何を見ているのやら」
巨門は水鏡のある方向を見て苦笑した。隣では若草色の衣を纏った女性が翡翠の瞳を伏せ、ふうと溜息をつく。
「破軍ともあろうものが人に入れ込むとは……。おかしなこともあるものよ」
「そう言うな、禄存。何かを気にかけると言うのはそう悪いことではない。特に破軍にはな」
禄存と呼ばれた女性は伏せていた目を開けて巨門と同じ方向を見据える。
「しかし破軍は強いが脆い。悪いほうへ転がらなければ良いがな。本来、我らと人は深くは関われない。中途半端な干渉は傷を生む」
「だからこそ、導いてやらねばならん。我らとて、例外ではないのだからな」
「ああ。何故我らは、関わってしまうのだろうな。傷つくと分かっているのに」
「宿命には抗えぬ。と言ったところだろうか」
それまで険しい顔をしていた禄存はふっと表情を崩し、伏目がちに微笑んだ。
「星の巡り会わせか、厄介なものだな。天上を生きる我々さえ、覆すことが出来ぬ」
「だから面白いのではないか。そうでなければ、長く生きるには苦しい世界だ」
それもそうだな、と禄存は天を仰ぐ。何かを思い出すように目を閉じた彼女の化粧の施された頬に、微かに朱が注した。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
それまで一緒に働いていた上司に頭を下げる。従業員用出入り口の横にあるカウンターに置かれた台帳から穂波千秋、と自分の名前を見つけて横に入退店時間を記入し、外に出た。扉を開けると同時に感じる突くような寒さに、首を引っ込める亀のようにマフラーに顔を埋めた。早く帰って風呂で温まろうと、自然と足が速くなる。明るい大通りを抜けて外灯しか灯りのない住宅街へ入ると、冬の澄んだ夜空に瞬く星がたくさん見えた。日課となったある星座を眺めるべく、夜空を見上げてそれを探す。昨日と同じ位置で輝く星に、千秋はふっと微笑んだ。
「北斗星君……」
いつものように立ち止まって、空に浮かぶ北斗七星を眺めながら、千秋は六年前の出来事を思い浮かべた。
千秋は昔から体が弱く、病院と学校を往復する毎日だった。小学校中学年になったあたりから病院での生活が多くなり、四年生に上がると共に、ついに学校に行けなくなってしまった。他の子のように皆と遊ぶことも、勉強することも出来ず、ただただ、絶望の淵に立たされていた。なぜ自分だけ。そんな考えもいつしかなくなり、自分の残された時間も悟り、生への希望も何もかも失くした千秋は、中学一年の春、ついに瞼を持ち上げる力すらなくなろうとしていた。そんなある夜、ふっと眠りから覚めた千秋の枕元に、ふわりと、舞い散る桜の花びらのように人影が降り立った。
窓から差し込む月の光に照らされた艶のある黒髪。後ろで結ったそれが優雅に揺れて、長めの前髪から紫の瞳が覗く。端整な顔立ちなのに表情がないのが気になって、目が離せない。
「貴方は、誰?」
久しぶりに出した声はひどく枯れていて、それでも彼には届いたようで、少しだけ眉が動いた。
「見えるのか? 俺が」
凛とした声だった。頷くと、しばらく千秋を見ていた青年は、おもむろに手を伸ばして千秋の額へと手をかざした。目を閉じると、何かが抜けるような、入り込んでくるような不思議な感覚に囚われる。しかし、何故だかそれが心地よくて、そのままにしていると、声が頭に響いてきた。
「もう一度この世で生きてみろ、人の子よ」
くるりと背を向けた青年に、千秋は再び目を開けて彼を見た。
「待って」
ゆっくりと顔だけがこちらに向けられて、もう一度紫の瞳と視線が重なる。
「名前、は……」
「名前?」
少し驚いた声に、綺麗な顔に浮かべられた戸惑いの表情。しばらく俯いて黙っていた青年は曖昧な声を出した後、小さい声で呟くように名乗った。
「北斗星君。そう呼ばれている」
「ほくと、せいくん」
告げられた名前を小さく繰り返すと、彼は横たわっている千秋の額に手を置いた。
「眠れ。在りたい自分を想いながら。次に目覚めた時どう生きるかは、お前次第だ」
眠れという言葉につられるように、開けていた千秋の瞼が閉じる。やがて聞こえ始めた寝息を確認し、青年も闇に溶けるように消えた。
その翌日から千秋の体調は良くなり始め、一年が終わる頃には中学にも通えるようになった。千秋はあの夜のことが忘れられず、親や医者にも話したが、幻を見たのだと信じてくれなかった。自分が見たものは幻だったのだろうか。ネットで北斗星君が道教思想によって北斗七星が神格化されたものだと知ったが、それでも千秋は信じて疑わなかった。あの夜、自分のもとに、確かにあの人は現れたのだと。しかし千秋は、彼が名前を問われた時に言い淀んでいたことが気になっていた。北斗星君と、確かに彼の口から聞いたが、本当にそれが彼の名前だったのだろうか。知りたい。彼のことを。もう一度、あの紫の瞳を見ながら彼と話がしてみたい。淡く輝く柄杓の星に微笑みかけて、もう一度会えますようにと願いを込めた。
星を通して水鏡で見るあの子の顔に、どうしようもなく胸が締め付けられる。
名前を聞かれたあの日から、なぜか気になって水鏡で様子を見て、気づいたら六年、彼を見ていた。様子を見るつもりがいつの間にか見守っていることに気づき、ただ過ぎていくだけの年月が、とても愛しいものだと気づいたのは最近のこと。気づいてしまったら、届かない距離が悲しくて、近づけない自分が恨めしい。しかし、心のどこかで自分が近づかなくて良かったと思っている自分もいて、その矛盾が破軍をいっそう苦しませた。どうしてあの時、名乗らなかったのだろう。もし名乗っていたならば、あの声で名前を呼んでくれたかもしれないのに。彼の顔は確かに破軍に見えていて、彼にも星は見えているのに、破軍が切なげに伸ばす指も、悲しげに愛しげに呟く名前も、彼には決して届かない。毎夜、彼が呼んでくれる総称にぎゅっと心が苦しくなる。許されるなら、今すぐにでも下界に降り立ちたい。面と向かって会えなくてもいいから、ただ側で彼を見ていたい。
「もしも、あの夜に戻ることが出来るなら」
今度はきちんと名乗りたい。総称ではなく、ひとつの星の名を。そうしたら、願わくば、その優しい声で自分の名前を呼んでほしい。北斗星君ではなく、破軍、と。
「破軍」
後ろから聞こえてきた声の方へ顔を向けると、青空を押し込めた色の髪を揺らしながら、青年がにこりと笑いかけてきた。馴染みの顔に破軍が無表情で水鏡へと視線を戻すと、何か反応してくれよ、と笑顔のままで破軍の横に座る。視界の端に彼の浅葱色の衣が映った。
「水鏡で何を見てるんだ?」
返事をしない破軍に、ふうと溜息をついた。
「あの時の少年か?」
破軍の肩がびくりと震えた。やっぱり、と青年が小さく笑う。
「廉貞……、お前知っていたのか」
「知ったのは最近だけどな。お前が仕事で下界に降りたあと、偶然水鏡の前を通ったら見覚えある顔が映ってたから。お前、あの子のところから帰ってきたときすごい珍しい顔してたから覚えてたんだよ」
「珍しい顔?」
破軍が廉貞を方へ顔を向ける。廉貞は破軍と視線を合わせにこりと笑い、なあ破軍、と切り出した。
「俺は人と関わることを、躊躇することと思えない」
「そうだとしても、俺はあの子にそう易々と近づくわけにはいかない。俺の力は強すぎるから、あの子の定めを捻じ曲げてしまうかもしれない」
破軍は、時として人の定めを変えることができるほど力の強い星である。その力が人の子の定めに不用意に影響を及ぼしてしまうことを破軍は恐れていた。
「俺はあの子に、綺麗なままの定めの中を生きてほしい」
「でも、お前は再び会うことを望んでいる。それは、あの子だって同じだろう」
「曲がってしまうよりは、会わないほうが良いんだ。あの子が星を見上げてくれるだけで十分だ」
「嘘をつけ。いつも未練たらしく名前を呟いているくせに」
かっと破軍の白い頬が赤くなる。その様子に廉貞は肩を震わせた。
「貴様、趣味が悪いぞ」
「俺に気づかないほど入れ込んでいる良い証拠じゃないか」
「貪狼に……言うのか?」
廉貞は穏やかに笑い破軍の肩にそっと手を置いた。
「破軍よ、俺たちの生は長い。その中で様々な人間と関わっていくだろう。それは俺だって巨門達だって、貪狼だって変わらない。誰にも決められないし、やめられないんだ。それならば、俺はひとつひとつの出会いを大切に、後悔をしないものにしたい。お前はどうだ?」
「俺は……」
破軍は水鏡へと視線を移した。水鏡に映った彼は、今日も夜空を見上げて総称を呟いている。
「名前を、名乗れなかったんだ」
ぽそりと、形の良い唇が動く。
「尋ねる声が優しくて、どうしたらいいか分からなかった。俺はただ気まぐれに、生を諦めた人間がもう一度生きたらどうなるかと、寿命を延ばしただけだったのに」
指を伸ばして、水鏡に映った姿を波紋で消した。
「きっと怖かったのだ。だからとっさに北斗星君と名乗ってしまった」
「まあ、間違ってはいないがな」
彼らは七つで北斗星君なのだ。総称とはいえ、破軍を指すことには変わりない。廉貞の言葉に小さく笑い、破軍は首をゆったりと左右に振る。
「ちゃんと名前を名乗りたいんだ」
「なら、名乗ってくれば良い」
「廉貞」
「本来、星と人とは深くは関われない。特別な定めがない限り、会えて一度か二度だろう。それでも、会うのと会わないのとでは全然違う。せっかく長い生なんだ、一度の再会でお前が満足できるのなら、会ってきたら良い」
俯いてしまった破軍の肩をぽんと叩き、廉貞は立ち上がった。
「星だ人だということも、己の力も考えなくて良い。どうしたら良いかは、お前がどうしたいかで決まるんだ」
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
台帳に時間を記入して店を出た。早足で大通りを通り過ぎ、住宅街で足を止める。いつものように空を見上げ、あの日教えてもらった名前を呟く。
「北斗星君、もう一度貴方に会いたい」
「寒空の下で何をしている」
ばっと振り向くと、紫の瞳とかちりと目が合う。もう一度、見たいと祈っていた瞳だ。
「身体を冷やすぞ」
「はは、本当に会えた」
千秋はゆっくりとした足取りで青年に近づいた。青年は戸惑いの表情を浮かべながらも動かないでいる。あの夜と比べると、随分と人らしい顔つきの青年がなんだかおかしくて、つい声を漏らして笑ってしまう。青年はそんなことには気づいてないようで、唇を開いたり閉じたりと、忙しない。
「あの日、君は北斗星君と名乗ったね」
きゅっと唇を引き結び、こくりと青年が頷いた。
「でもね、僕にはなんだかしっくりこなくて、北斗星君……北斗七星について少し調べたよ」
千秋の視線が、目の前の青年から空に浮かぶ七つの星に移る。
「それぞれの星に名前があるんだ。第一星はドゥーベ、天文志の名は天枢、天魁、仏説北斗七星延命経の名だと、貪狼。第二星はメラク、天文志は天璇、仏説北斗七星延命経は巨門。第三星はフェクダ、天文志は天璣、仏説北斗七星延命経は禄存。第四星はメグレズ、天文志は天権、仏説北斗七星延命経は文曲」
千秋が淡々と話すことを、青年はただ静かに聴いている。
「第五星はアリオト、天文志は天衝、仏説北斗七星延命経は廉貞星。第六星はミザール、天文志は開陽、仏説北斗七星延命経は武曲。そして第七星。星の名前はベネトナシュ、天文志は揺光、仏説北斗七星延命経では、破軍」
そこまで言うと、千秋は青年と目を合わせて微笑んだ。
「僕の名前は穂波千秋。貴方の名前を教えてください」
優しく笑う千秋につられるように微笑み、彼、破軍は穏やかな笑みを浮かべた。
「俺の名は……」
それは、強大すぎる力ゆえに最も人と離れ、しかし、最も人に近しい星の物語。
<了>
其の星の名は 椎葉 @shiiba_kaku
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