第五章 「空へと昇る涙」その1
——あの日、私は祈っていた。
一人、戦いに出ていってしまったヒノデのために、祈っていた。
それは、もしかしたら自己都合の願い。祈りではなく、単なる願いだったのかもしれない。
——もう一度、彼に会いたい。
……ひょっとしたら、私が彼を連れてきてしまったのかもしれない。ヒノデが死んだと知らされても、彼を諦められずにいた私の願い——それが、あの偽物を連れてきてしまったのかもしれない。
私は平原へと繋がる神域の入り口に立って、王都へと続く地平線に目を向ける。わずかな起伏が視界を遮っているのか、王都軍の姿はまだ見えない。
私は息を大きく吸って、それを鋭く吐いた。
——ヒノデは帰ってこない。ヒノデはもう、死んだのだ。
私にできることは、彼に託されたこの神域を守り続けること。彼のいない世界で、彼を想って働き続けること。
——これは、私の祈りだ。
そうして地平から、王都の軍勢が姿を現した。
*
現れた王都軍——約三百の軍勢の中に、女王ハリマの姿はなかった。代わりに指揮官として現れたのは、黒い仮面をつけた男——大臣ロウリュウ、神域の地下には鉱物資源が眠っているなどうそぶいた張本人だった。
「驚きました……、まさかあなたが前線に出てくるなんて。命を狙われている自覚に欠けているのでは……、いえ、そういうわけでもなさそうですね」
大臣は、そう言って少し感心したような表情を見せた。仮面の上からでも、それが作られた偽物の表情であることがわかり、私は少しイラッとした。
けれどそれをすぐに自重すると、私の左右にいる四人の戦士達を手で制し、馬に跨ったまま目の前にいる王都軍に向かって口を開いた。
「返事をするために来た! 私たちは神域の民! この地を愛し、守る者! 我々は、王都軍と戦う……‼︎」
そう宣言し、私は馬を神域の方へと——王都軍に背を向ける形で駆けさせた。左右にいた護衛の戦士達もそれに続く。
振り返りながら、私は魔獣の入った黒い檻の位置を確認した。檻は全部で四つ。部隊の後方、神域軍から一番離れた場所に並べて配置されている。想定通りの配置、作戦は続行だ。
視界に映った大臣は、私の言動に一切驚いた様子を見せず、ただただ不敵に笑っていた。
「わざわざ前線まで来て、すぐに逃げますか。見え透いた罠ですね……。ですが、見失ったら面倒なのも事実。ここは、子供の頑張りを見せてもらうことにしましょうか……」
前列にいた数十名の王都兵が、私を追って神域の内部に——ベールの中に侵入した。私たちは彼らを引きつけたまま森の中へと侵入し、あらかじめ設置しておいたトラップの地点まで誘導する。そうして、網が馬と兵士の自由を奪ったのを確認すると、そのまま迂回して元の平原付近まで戻った。
「ほう……。一応聞いておきましょうか、彼らはどうしましたか?」
再び姿を現した私たちに、大臣が尋ねてくる。
「さあ? 森の中で迷子にでもなっているんじゃないかしら」
「殺さなかったんですか。甘いですね……」
大臣の挑発的な笑みに釣られることなく、私は再度口を開いた。
「どうするの? そこでずっと待機しているつもり? 私を殺すにしても、クリスタルを破壊するにしても、そこからでは何もできないでしょ?」
「確かにそうですね。……いいでしょう。第二から第四部隊までの兵士諸君、守護者ミゾレ・シオンを追って排除してください。第五から第七部隊までの兵士諸君、神域内部へ侵入し、クリスタルを破壊してください」
大臣の指示で、残っていた兵の約半分——百名以上の兵士が一気に神域に迫ってきた。
「っ……! いや、大丈夫……、作戦通り!」
実際に迫られると、想像以上の恐怖に思わずして立ちすくんでしまいそうになる。
私は恐怖を払いのけ、彼らを引きつけるように森の中へと侵入した。それとほぼ同時に、森の中に潜んでいた神域の戦士達が一斉に姿を現す。
「射てぇ〜‼︎」
野太い声と共に、戦士達の弓が一斉に放たれ、王都兵達とその馬を襲った。地面に転がる王都の兵士達。そこに、動きを封じる網が投げかけられる。
「っ……」
負傷した王都の兵達を見て、私は思わず一瞬目を逸らしてしまう。けれどすぐに気持ちを切り替えると、迫ってくる王都兵達を振り切るために、前を向いて走り出した。
「——半数近くが本陣から離れました。そろそろかと」
ふいに、左斜め後ろを走る神域の女戦士が私に言った。私は小さくうなずくと、マントについたフードを被り、後続の王都兵達との距離を確認、それから、あらかじめ決めておいたポイントへと進路をとった。
岩によって死角が多くなっているその地点に辿り着くと、私は急速に部隊から離脱し、待機していた影武者と入れ替わった。同じ白い馬に跨り、同じ服を纏った神域の戦士。王都の兵士たちが彼女を追っているのを確認したところで、私は待機していた別の部隊と合流し、平原の方へ向かった。
「おや? ずいぶん早いですね、おかしなことだ」
「彼らは今ごろ、私の偽物を追いかけているよ。クリスタル破壊に向かった兵士達も、仕掛けられた数々のトラップに足を取られて、クリスタルまではまず辿り着けない。——だから、あとはあなた達さえどうにかすればいい……‼︎」
その瞬間、警鐘が鳴り響き、王都軍の左右から馬に乗った神域の兵士たちが現れた。その数は六十。平原に残った王都兵の数には及ばないけれど、決して対抗できない数ではない。
「……なるほど。狙いは我々の魔獣ですか」
こちらの狙いに気づいた大臣が、魔獣の檻を守るように兵を展開する。すかさず私も駆け出し、まっすぐ王都軍の方へと突っ込んだ。
「——私が囮になる‼︎ その隙に、忌避用魔獣を解放して‼︎」
無謀にも少数で突っ込んでくる私(ターゲット)を見て、一部の王都兵が動きに迷いをみせる。その隙に、左右から回り込んだ神域の部隊が、檻へと迫った。
「——守護者は無視しなさい! 数で圧倒するのです!」
大臣の一言で、王都兵の意識が左右の部隊へ向かう。そしてついに、神域の部隊と王都の部隊が剣でぶつかり始めた。
「っ! 回り込んで‼︎ 馬を走らせて、手薄になったところから突破を狙うの! 人数を減らさないで‼︎」
大声で指示を出す私。もっとも、これは事前に伝えてあった指示と同じ内容。神域の戦士達は指示の通り動くが、王都兵の数に阻まれて、なかなか檻に近づくことができない。
するとその時、大臣が馬に乗った状態で目の前に現れ、私に剣を振りかざしてきた。
——キーンッ!
「これがあなたの作戦ですか? 甘い、あまりに甘い! これで人数を削ったつもりだったんですか? あまりに不十分だ! この戦力差の前では、あなた方が檻にたどり着くことなどできませんよ!」
再び振り下ろされる剣。私は自らの刃でそれに応え、歯を食いしばった。
確かに、確実に檻にたどり着くためには、相手の兵をもっと削る必要があった。しかし、神域内の足止めに必要な戦士の数と、檻への突撃に必要な戦士の数を考えた時、削れる兵はこの程度が限界だと判断した。
しかし、それは元々あった兵力差を埋めるには不十分。この人数差では、神域の戦士が檻へとたどり着くことは不可能に近かった。しかし——
「……そうね、この兵士達の壁を突破するのに、普通の戦士では歯が立たないでしょうね」
不敵に笑う私の姿に、大臣はようやく驚いた顔を見せた。
「——でも、手のひらサイズの戦士なら、どうなると思う?」
その瞬間、部隊後方の黒い檻から爆発音が聞こえた。続いて、それに吹き飛ばされる小さな黒い影が見えた。
「っ〜⁈ っぶねぇな! 殺す気か‼︎ こんな危険なもんなら、最初からそう言っとけよ‼︎」
爆風に飛ばされたカイザーを、馬に跨ったハナコが身体でキャッチする。ハナコは小さなリスを胸元に押し込むと、背後に背負ったリュックから次の亀爆石(きばくせき)を取り出した。
「あれは……」
「——小さくて可愛い神域の戦士。そして、神域の研究者が発見した、不思議な爆発する石よ」
昨晩、行方不明だったカイザーが集会所を訪れたとき、この作戦が思い浮かんだ。私も含む神域の戦士達、その全てを囮にして、カイザーに檻を壊してもらう——そんな作戦を。神域の人間ではないカイザーが、これを受け入れてくれるかは賭けだった。しかし彼は応じ、話し合いの結果ハナコとペアでそれを実行することになった。
「っし! 四つ全部の鍵に亀爆石をつけたぜ! 最後の一個なんかのミスですでに爆発しちまったけど、これで任務完了だよな⁈」
「ああ、上出来だ……。貴様にしてはな」
「……あんた、素直に褒めるとかできないわけ?」
次の瞬間、鍵が爆破された檻が、内部の魔獣によって勢いよくこじ開けられた。王都軍にどよめきが走り、中から巨大な魔獣が——ゴリラの魔獣が出てきた。
私はすかさず、その魔獣の方へと進路を変える。
神域の戦士達の火矢により、他三つの亀爆石も大きな音と共に爆ぜた。そうして、四つ全ての檻が破壊されることとなる。
「——これで、あなた達は忌避用魔獣を失った。降伏しなさい! 武器を捨て、大人しく牢に入るなら、これ以上危害を加えることはしない!」
私はそう言って、大臣に剣を突きつけた。
「……フフ」
その笑い声が、目の前で顔に手を当てた大臣から放たれたものだと気づくのに、少し時間が必要だった。
「フフ……、フハハハ……‼︎」
堪えきれないというように高笑いをする大臣。私は剣を突きつけ、大臣に睨みつけた。
「何がおかしいの? 敗北を悟ったなら、早く全兵に降伏の指示を——」
「——あなたは何もわかっていない。そして、とても愚かだ」
次の瞬間、数百メートル先にいるゴリラの魔獣が、近くにいた神域の戦士達を叩き潰した。
「……へ?」
あまりに想定外の出来事に、私は感情が伴わない声を漏らす。
ゴリラの魔獣がいるのは私の数百メートル先——私の『勇者の力』が及ぶ範囲内。本来であれば、あの魔獣は何よりも優先してこの場を離れるはず。逃げ出さない、ましてや攻撃を行うなんて、考えられないことだった。——ただ一つの可能性を除いては。
「まさか、上位魔獣……⁈ 勇者の力が及ばない、超上位魔獣だとでも言うの⁈」
「——いいえ違います。あれは上位魔獣ではありません。ただ、私に『使役』されているのです。この言葉は、かの勇者ヒノデも知らないでしょうね……。あの魔獣は、私の命令によって動くように契約されているのです。私が命令を取り下げるか、契約を解除するか、もしくは私が死ぬまで、——神域を制圧するために破壊行動を繰り返す。そこに、『勇者の力』による忌避効果は作用しない……、フフフ」
大臣はそう言うと、歪んだ笑みを残し、王都兵の中へと消えていった。
私は立ち尽くしたまま、大臣の言葉を呟くように反芻する。
「使役……? 勇者の力が及ばない……? 何よそれ……」
次の瞬間、神域の戦士の悲鳴が聞こえ、私は意識を取り戻した。
見ると、檻から解放された他三体の魔獣も、王都軍に加勢するように神域軍への攻撃を開始していた。
「魔獣と人間が、共闘……? そんな、こんなのって……」
ふと、ゴリラの魔獣がこちらを振り向いた。その目ははっきりと私を捉えており、その巨体がゆっくりとこちらへ向かって歩み始めた。
「——っ‼︎ しっかりしろ……! 私は、神域の守護者だっ‼︎」
闇に飲み込まれそうになる意識を叩き起こし、私は馬を走らせた。王都軍の周りを周回するように、混乱する神域の戦士達に向かって叫ぶ。
「——撤退しろ‼︎ 私が魔獣を引きつける‼︎ お前達は神域まで後退し、王都兵の侵攻を阻んでくれ‼︎」
「っ、しかしミゾレ様! それではミゾレ様がっ‼︎」
「信じろ! 私はこの神域の守護者だ‼︎ 魔獣は私が引き受ける!」
私が駆け抜けると、指示を聞いた戦士達が神域の方へと馬を走らせ始めた。続けて、私の指示が彼らの声によって何度も復唱される。
私は四体の魔獣全ての前を通過し、その意識をひきつけた。何を考えているのか分からないが、大臣は四体全ての魔獣に、私を優先的に追うように指示しているようだった。
私は、神域の外周を沿うように走り出した。
背後で始まってしまった白兵戦、倒れゆく人々、そして、すでに命を奪われてしまった戦士達の亡骸を背に、私は走った。
「っ……‼︎」
私はつい、下唇を噛んでしまった。それは乗馬の衝撃によって噛み裂かれ、鈍い鉄の味が口いっぱいに広がった。
* * *
地平から太陽が顔を出し、東の平原に光の波が押し寄せた。
それは、命の光。草木は声をあげて、朝の訪れを喜び祝った。
——その光はやがて、『木』の上にも降り注いだ。
人としての生命機能が停止したツミキの肉体——ドラゴンに引き裂かれバラバラになったその肉体は、日の出を待つ間に木片へと変化し、そんな木片となった『木』に陽の光が届く。
木は、芽を出した。
芽は陽の光を浴び、急速に成長していく。ぐんぐんグングンとその高さを増し、葉をつけ、陽の光から得るエネルギーによって大きく大きく成長していった。
木片から芽を出したいくつもの茎は、やがて寄り合い、溶け合うようにして、太い幹と広大な枝葉を持つ一本の大木へと変わった。
——ふと木は、意識を取り戻した。しかし、それは夢の中にいるような覚醒だった。
『…………』
木は、そっと目を閉じた。そして、植物としての自分という存在に意識を委ねた。
……たい。
ふと誰かの声が聞こえて、木は再び目を覚ました。
見ると、木の周囲にたくさんの光が舞っていた。それは、蝶の形をした光のカケラ——空間に解き放たれた、生物達の想い、そして願いだった。
木はその一つ一つを、愛でるようにその枝葉の中に迎え入れた。
——その時、一匹の蝶が木の幹にとまった。
『……会いたい』
それは、一人の少女の願いだった。
『もう一度、彼と会いたい……』
木は、その願いの持ち主を——その声の持ち主を知っていた。
……ミゾレ?
『お願いです。どうか、どうか! 彼が無事に、帰って来ることができますように……』
その言葉は、木の中に一つの光景を思い浮かばせた。
——ある日、亜麻色の髪の少女が木の根元にやってきた。少女は木の前で両膝をついて、握り合わせた両手と額を木に擦り付けるようにして、この言葉を口にしたのだ。
次の日も、少女はやってきた。次の日も、また次の日も……。
そして少女は、涙を残して姿を消した。
——そうだ。僕にはまだ、やらなければいけないことがある……‼︎
蝶が、そっと木の幹を離れた。
その瞬間、大木がワサワサと音を立てて揺れ始めた。その葉はみるみるうちに枯れ落ち、枝も幹も、一瞬で数百年が経過したように崩れ落ちた。
——大木が朽ちた跡に、一人の少年が立っていた。
少年は葉とツルによって身をまとう衣服を創造すると、太陽に手をかざし、それからクルリと踵を返した。
蝶はもう、見えなかった。だから
木は少年として、足で大地を駆け出した。
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