第一章 「勇者ヒノデ」その1

 風が吹いた。

 夕焼けに染まる空、赤く波立つ草原。どこか、かつて木が立っていた場所を思わせる緩やかな丘。あたりには建物一つなく、破壊された馬車の荷台の残骸がどこか物悲しい。

 地面に飛び散った赤い鮮血せんけつは、先程まで確かにここで起きていた惨劇と、木とその同乗者達がおちいっていた窮地きゅうちを静かに物語っている。

 ふいに、木の左手を、そばにいた男の子が不安げに握った。

 しかし、木はその子に視線を返さない。男の子も木を見ていない。おそらくその視線は木と同じように、丘の上に向けられているのだろう。


 木は、思い出していた。

 かつて自身の下で集まり、笑い、歌い、そして涙を流していたあの四人の少女のことを。

 その中の一人。あの、亜麻色あまいろの髪を持った少女のことを。


 ——風が吹き、亜麻色の長髪が夕焼けの空に舞った。

 左目を隠すように伸ばされた前髪の横では、かつてと変わらぬ胡桃色の瞳が輝き、あの時よりもずいぶん伸びた髪は、一房だけ青く染められている。

 それはまるで、死にゆく男が恋人へ遺したという勿忘草わすれなぐさの色。

 ——それはまるで、「彼を忘れない」と誓った少女の髪飾り。


 その瞳は大きく開かれ、言いようのない感情で揺れていた。


 間違えるはずもない。

 ——そこにいたのは、あの少女達の一人だった。


     *


 ——時は半日前に遡る。


 森の中で出会った親切な老人に別れを告げた木は、彼がくれたフード付きの大きな服を頭から被り、少女たちを探すために街へと歩き出した。

 たどり着いた場所にあったそれは、木にとって初めて見る光景だった。

 立ち並ぶ石造の建物。通りの多くは石で舗装されており、そこを大小様々な人々が行き交っている。彼らのまとう衣類は木のそれと違い、人の身体に合うように切ったり縫われたりしている。確か、あの子供達が「チュニック」と呼んでいたものだ。裾が膝の辺りまである、上半身用の衣服。腰のあたりは「ベルト」で止めるらしい。

 木は子供達の発言をもとに、子供達と同じ枠組みで世界を理解しようと試みる。

 ならばあれはレギンスだろうか。あれはブーツ? 女性の中には、さらに裾の長い服を着ている人もいる。確か、ワンピースと呼ばれるものだ。

 そんな風にして彼らを観察していると、彼らもまた木をチラチラと見ていることに気がついた。木は嬉しくなって近づこうとしたが、彼らは逃げるように去ってしまった。

 不思議だった。どうやら彼らは、急に近づかれることを嫌うらしい。

 ——ふと、遠くによく見知った建物が見えた。それは、かつて木がいた場所のすぐそばに建っていた大きな石のお城だった。

 木はひとまず、そこを目指すことにした。


 しばらく歩いてみて、木は様々なものを見た。

 木の建物、石の建物。馬を連れている人、羊を連れている人。光る物、透き通る物。カラフルな布に、あの少年の銅像。

 ふと木は空を見上げた。その空は、かつて木が見ていたものより少し曇っている気がした。

 思い返すと、先ほどお城とは反対側の空に黒い煙がいくつも上がっているのが見えた。それは、以前にはなかったものだ。あれはなんだか、嫌な感じがした。

 改めてあたりを見回してみると、街の人々の空気は両極端りょうきょくたんだ。嬉しそうな者、悲しそうな者。楽しそうな者、辛そうな者。血気溢れる元気な者、弱々しく今にもしおれてしまいそうな者。

 人間は、常に明るく元気にいられるわけじゃない。そんなことは知っている。

 けれど今、弱っている人や辛そうにしている人に目がいってしまうのはなぜだろう。楽しそうな人々に近づくよりも、悲しそうな人々のそばにいてあげたいと思うのはなぜだろう。

 ——もしかしたらそれは、あの子達の涙を思い出すからだろうか。

 そんなことを考えていると——


 ——グニュ。


 木の頭を、小さな足が踏みつけた。

 木はその衝撃で前方に手をついて倒れ、頭を覆っていたフードが外れる。

「——悪いな、急いでんだ!」

 声がした方を見ると、そこには小さなリスがいた。

 リスはこちらを振り返ることなく、建物の突起に飛び移りそのまま去ってしまった。

「あっちに逃げたぞ! 追え〜‼︎」

 リスが来た方から、男達が走ってくる。彼らは地面に膝をついたままの木を無視して、リスが去っていた方へと走っていった。

「……痛い」

「へ! マヌケな奴らめ。俺はこっちだっての」

 木が一人呟くと、頭の上で声がした。見ると、先ほど走り去ったはずのリスが屋根の上で座っていた。リスは得意げな顔で屋根から飛び降りると、そのまま木の方へ歩み寄って——

「げっ! 勇者ヒノデ⁈」

 ——驚愕の表情で叫んだ。

 リスの言葉に、今度は木が驚く。

「え……? 君、この子を知っているの?」

「なんでこんなところに……! というか、なんで? あんたは確か死んだはずじゃ——」

「——いたぞ! こっちだ‼︎」

 ちょうどそのタイミングで、リスを追いかけていた男達が戻ってきた。

 挟み撃ちによってリスは捕らえられ、固い金属製の檻に入れられしまう。

「出せ! 俺は大したもんは盗ってねぇ!」

「よし、捕獲完了。しかし油断するなよ。まだ何か危険な力を持っているかもしれん」

「聞けよ! 無視すんな! 何度も言ってるが、俺は『魔獣』なんかじゃ——」

「少し活きがよすぎるな……。おい、拘束用のイバラをもってこい」

「なっ⁈ おい、やめろ!」

 目の前で起きていることを、木はただ見つめていた。哀れなリスは大きな人間達に取り押さえられ、今、鋭いトゲで覆われたカゴに放り込まれようとしている。必死で抵抗しているが、それも長くは持たないだろう。

 これまで何度か思ったことがある。もしどちらかを助けることが許されるのなら、助けてあげたい。命のやりとりに、介入していいのなら介入したい。これまでは、したくてもできなかっただけだ。

 もし僕に、差し伸べられる手があったなら——

「あ……」

 木は立ち上がり、その『腕』で、男達からリスの入った檻を奪い取った。トゲが手に刺さり、いくらか血が流れた。けれど、木は構わなかった。

 檻は床に落ち、解放されたリスはどこかへ走り去っていった。

「おいアンタ! 何してくれてんだ!」

 ホッとリスを見送る木に、怒った男達が詰め寄ってきた。

「アンタも見てたろ! あれはリスじゃなくて魔獣——、……って、え?」

 すると、妙なことが起きた。木の顔を見た途端、男達が動きを止めたのだ。

「あなたは……。いやそんなまさか! ありえない! ……でも」

 男達は困惑し、激しく動揺しているようだった。けれど、木にはその理由がわからない。

 するとそこに、金属の鎧をつけた男がやってきて他の男達を鎮めた。

 男は木を見ると、その目に生まれた動揺を一瞬で制して、木に尋ねた。

「……あなたは、ヒノデ・ハリマですか?」

 木は答えに困った。だから、自分がかつて立っていた城の方を指差した。

「……あそこにいた。それ以外のことは、よくわからない」

 それを聞くと、男は何かを堪えるように目頭にシワを寄せ、唇を強くつぐんだ。

「そうですか……、わかりました。おい、急いで馬車を持ってこい! 女王陛下のもとへお連れする! 最優先だ‼︎」

 去り際、誰とも知れないその男達の目が、わずかに潤んでいるのが見えた。


「あの子だわ……。間違いない……‼︎」

 馬車で連れてこられた『王宮おうきゅう』——木が目指していた石のお城の中で、一際多くの布をまとった女性が涙ながらにそう言った。

 石で作られた大きな空間。壁の様々なところからは陽の光が差し込み、あたりにはキラキラと輝く調度品が配置されている。入り口から正面に進んでいくと、えらくカクカクした坂道があった。見上げた先には、大きな椅子と何やら長い棒を構えた男達が控えている。そしてその真ん中に、一人の女性が立っていた。

 栗色の髪と赤色のドレスが特徴的なその女性は、ゆっくりと坂道を下り、木のもとに歩み寄ってきた。こちらに伸ばされた腕は、わずかに震えている。

 その時、木はこの女性を思い出した。この女性は、この少年が小さい頃によく一緒にいた。まだ小さいこの子を抱いていた女性。——つまり、この少年のお母さんだ。

 この女性もまた、あの日、木の下に集まった大勢の人々と共に涙を流していた。あの少年がいなくなったことに、涙を流していたのだ。

 木が記憶を巡らせていると、女性はぎゅっと木を抱きしめた。

「おかえりなさい……」

 ——女性は、涙を流していた。なぜ泣いているのか、木にはわからなかった。

 けれど、その涙が喜びのものだと分かった。木にはそれがわかった。彼女が喜んでいることが、木は嬉しかった。

「……もうあなたは、『勇者ゆうしゃ』でいる必要なんかない。誰もあなたを縛りつけない。あなたは十分に働いた……。おかげで、この大陸の魔獣はもう増えない。だから、あとは私に任せて」

 彼女の声に涙が混じり、木を抱く腕の力が増した。

「私が、勇者なんか必要ない世界を作り上げてみせるから……」

 熱を帯びるその身体を、木はそっと抱き返した。

「——お待ちください、女王陛下。その者は、勇者ヒノデではありません」

 とその時、彼女の背後から、丈が足元まである紫のコートをまとった男が歩み出てきて言った。えんじ色の短い髪を後ろに流して固め、顔には目と鼻を覆う黒色の仮面をつけている。

「何を言う、大臣。この子は間違えなく私の子、親が子を間違えるはずがないでしょう?」

「いいえ陛下、勇者ヒノデはもういないのです。あなたは騙されている」

 毅然とした態度で続ける仮面の男に、周囲の男達が「無礼だぞ!」と叫ぶ。

 女王と呼ばれていた彼女はそれを片手で制すると、ゆっくりと仮面の男の方へと近づいた。

「……大臣、あなたは聡明そうめいで思慮深く、判断力に長ける人。あなたの力に、私も随分と助けられています。——けれど、あなたは私とあの子の何を知っているの? あの子が去ってからここに来たあなたが、どうして私の判断を否定できるの?」

 柔らかいトーンで発せられた圧力の宿るその言葉に、けれど男は怯んだ様子を見せず口を開いた。

「……わかりました。無礼はお詫びします。——しかし、判断は慎重に行うべきです。少なくとも、このことは公表しない方がいいかと。もし公表すれば、『神域しんいき』の開拓に反抗している『守護者しゅごしゃ』達の勢力に勢いをつけることになりかねません」

 仮面の男が発した言葉で、女王の顔がわずかに曇る。

「お分かりでしょう、陛下。大陸から魔獣が消え去ろうとしている今、他国との領土争いに勝たなくてはならない。そのためには、国力増強に繋がる技術躍進と兵力増強、そして、『神域』の下に眠る地下資源が欠かせないのです!」

「……わかっているわ。けれど、だからこそ私はあの子達に伝える道もあるのではないかと思う。この子の帰還を伝えれば、あの子達も立場を変えるかも知れない……。だって、あの子達が守護者になったのは、ヒノデがいなくなってからなんですから……」

 わずかに目を伏せる女王。けれど、仮面の男は引かない。再度、彼女に何か進言をしているようだった。

 ——木は、イヤな感覚を覚えた。この男には、何か影のようなものがつきまとっている。

 女王と呼ばれているこの女性は、かつて木の下に来たことがある女性だ。あの少年の母親だ。特別大好きだったわけではないが、それでも木にとって大切な人間であることに間違いはない。

 ——彼女を守らなければ。

 次の瞬間、木は走っていた。そしてそのまま、仮面の男に体当たりした。

「大臣‼︎」「陛下! 危険です下がって!」「止まってください! 勇者ヒノデ!」

 一斉に動き出す周囲の男達。けれど、木の意識は変わらず仮面の男に向いていた。

 彼はまだ後ろによろけた程度。もっと彼女と距離を作らなくては。

「——うあぁぁぁ‼︎」

 木は男達を振り払い、男達の腰に差してあった凶器を抜き取った。

 子供達は木の下で、よくこんな風にして遊んでいた。多くの哺乳類と同じように、それが戦闘の訓練を兼ねているものであると、木は理解していた。

 木は光沢を放つ重い棒を手に、仮面の男を睨みつける。

「勇者ヒノデ‼︎」

「やめて! 正気に戻ってヒノデ!」

 騒然とする空間、その中で唯一、仮面の男はおののいていなかった。弱者のフリをして、武器を持った木を前に余裕を保っていた。

 ——やはり、この男は危険だ。

 木は確信した。地面を力強く踏み込み、重い剣を振りかぶる。

 ——この男は、ここで倒す。

 そして、剣が振り下ろされた。

「キャ〜ッ‼︎」

 女王が悲鳴をあげた。周囲の男達も、動きを止め顔を青くした。


 ——木の『腕』が、地面に落ちた。


 混乱の最中、木が宙に弾いた剣がその腕を切り落としたのだ。

「うがぁぁぁっ‼︎」

 生まれて初めて感じる激痛に木は叫んだ。

 その声に、周囲の男たちも我を取り戻したように動き出す。

「大変だ! 勇者ヒノデ! 今すぐ手当を——、……って、え?」

 男達が木の手当に向かおうとした瞬間、奇妙なことが起きた。

 ——木の傷口から、植物の根が伸びていた。

 切れた腕から『木の根』のようなものが伸びて、地面に落ちた腕と繋がった。

 そしてそれは瞬く間に一体化し、木の『腕』は元通りに回復した。

「——ひっ!」

 女王が、声を漏らした。

「——化け物だ!」「魔獣です!」「陛下をお守りしろ‼︎」

 次の瞬間、男達が先ほどとは比べ物にならない力で木を地面に押さえつけた。

 顔を歪める女王に、仮面の男が歩み寄る。

 木は、彼女を守ろうと必死に手を伸ばした。

 そんな木を見て、女王はおぞましいものを見る目つきで言った。


「——お前は、あの子じゃない」


 その瞬間、木は身体から力が抜けていくような感覚を知った。先ほどまであれほど喜んでいた彼女が、化け物を見るような目でこちらを見ている。先ほどまで喜びに満ちていた彼女が、今は痛みに満ちている。

 そのことが悲しくて、木は抵抗をやめた。


 ——ガシャーン‼︎


 するとその時、甲高い音と共に透明な壁が砕け、外から何かが飛び込んできた。

 『何か』はそのまま木の方へ向かい、木を押さえつける男達を蹴り飛ばした。

「——逃げるぜ! 立って走れ!」

 顔の前で、小さなリスが言った。木は、言われるがままに走った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る