その翡翠き彷徨い【第86話 白き記憶】
七海ポルカ
第1話
ラムセスは広大な天宮の、中途半端な場所にある書庫を、勝手に自分の研究室として使っている。
天宮には膨大な書物があるが、実は大半ほっとかれている。
完全なる世界に生きる、完全な方々にとっては、
もはや現状ある技や術だけで、世界を切り拓くには十分らしい。
天宮はいわば、【天界セフィラ】の国務機関といった所だ。
魔術研究に従事する魔術師達が大勢いるが、
大体は静かに毎日を過ごしている感じだ。
もっと五月蠅い気配は天宮の更に奥、【始まりの塔】と呼ばれる王城からする。
地上でいう軍隊のような連中がいるのはそっちの方だ。
天宮の気配はもっと静かで、どちらかというと学院などの雰囲気に似ている。
静かに日々を過ごす魔術師達、
それから巫女なども普段はこちらにおり、神儀の際に【始まりの塔】や【天界セフィラ】の各方面に派遣されて仕事をしている。
神殿儀を行う巫女たちも、神格はとかく高いらしい。
巫女たちは生まれながらに選定される素質というものがあるらしく、才能で天宮に召喚されるので、学がない。そこはあまり重視されないとのこと。
だが巫女たちに学ばせるような、そういった講座のようなものはあるようだ。
しかし彼女達の使命はあくまでも、聖歌とと楽奏である。
書庫に入り浸って学を学ぶような者はまずいないため、天宮の書庫は基本どこも人気が無い。それこそ、生前勉学が好きだった魔術師がぽつぽつ待機時間に来る程度のことだ。
研究者はいるようだが【天使】たちから要求された武器防具、魔法道具の開発が目的だ。
ラムセスも最初はそういう役目を命じられたが、つまらなかったので離反し書庫に籠るようになった。
特に文句を言われることもないので、善しとされているのだろう。
こういうものは、やった者勝ちなのだ。
ラムセスは窓辺のゆったりとした縁に足を伸ばして腰掛けて、暢気な神殿儀の巫女たちが少し上階にある回廊で話している会話を聞いていた。
無論、最初はそこで魔術書を読んでいたのはラムセスが先だが、彼女達が休憩がてらやって来て、勝手に喋り始めたのだ。
神殿儀に現われた大天使イグディエルが非常に優しく声を掛けて来て怖かった、あれは近々大きな神殿儀が行われるに違いないという巫女たちの見立ては、本人たちの暢気さや軽薄さは差し引いても、興味深かった。
それから本城の演習に現われる兵達の武器が怖い、あれは不死者を屠る武器だとも話していた。
最近大量にそういう武器が天宮内に運び込まれているらしい。
小さく笑んで、天宮から見下ろせる美しい【天界セフィラ】のなだらかな大地を眺めながらそんな話を聞いていると、扉が鳴った。
「おはようございます、ラムセスさん。
あの、この前欲しいって言ってた薬草と魔石取ってきました」
「ああ。悪いな」
「いえ! こういうの、俺にはすごい勉強になるんで大歓迎です!」
立ち上がりエドアルト・サンクロワが担いで来た箱の蓋を開ける。
中には頼んだ何種類かの薬草と、何種類かの魔石が綺麗に揃えて入れられていて、
それよりもラムセスが気に入ったのは、恐らく、それを手に入れる途上で偶然手に入れた細々とした魔的な材料が、綺麗に拭かれて、揃えられて、別の小箱にまとめられていた所だった。
ラムセスがまずそっちの方を手に取って眺めているので、お茶の準備を始めていたエドアルトは、ああと頷いた。
「それは頼まれたもの探してる時に落ちてるの見つけたり、戦ったモンスターから集めたものです。と言っても、俺には価値があんまり分からないから、全然重要じゃないものの方がずっと多いと思うけど……」
そうは言ったが、このメリクの弟子その1は、自分が価値を判別出来ないものを、出来ないからと言って雑に扱ったり、いらんと捨てたりしないところは美徳だ。
残念ながら、彼は魔力を操る才が全くない。
しかし魔術に関する知識や魔術観には深く興味を持っていて、その世界に属するものに深い敬意を払っているのは感じられた。
魔術師の中でも、そういったものを軽視する者は山ほどいる。
「弟子その1、今暇か?」
「今ですか? お手伝い出来ますよ。なんか地上もバタバタしてて忙しそうなんですよね」
「メリクはどうした?」
どうぞ、とエドアルトはテーブルに座って自分がかき集めて来た細かいものの方を、布の上に取り出して見ているラムセスに紅茶を淹れてから頷いた。
「あ、この数日は【地の聖堂】で休んでるみたいです。最近ずっとメリクは【天界セフィラ】にいて、地上にいる【ウリエル】とは離れていたから、疲れが出たのかもしれないですね」
「弟子その1」
「エドアルトですけども。なんですか?」
「お前は破門な!」
にこ、と笑われて告げられたエドアルトは衝撃を受けた。
「ええええええええええええええなんで⁉」
「そんなことも分からん奴はメリクの弟子なんぞしないでいい。剣で薪でも斬ってろ」
「ななななななんで⁉ 俺なんかダメなこと言いました⁉」
確かに【ウリエル】に追従する魔術師が、彼女から離れて長い間過ごすことは良くないことだ。
魂の力が弱ければ弱いほど、耐え切れない。
だがここは【天界セフィラ】である。安定した魔力が供給される異界。
【天界セフィラ】にいる者が地上を移動している時より疲れる、などという原理は存在しない。
「そんなことはともかくだ。
そこの本棚あるだろ。一つ裏の壁際のやつ」
「はい。あの大きい辞典が入ってる奴ですよね」
「うん。暇なら中身ちょっと全部出しておいてくれないか」
「全部出すんですか? 出したやつ置く本棚ないですけど、どうしたらいいですか?」
「その辺に積み上げておけばいいよ」
「はい……。全然構いませんけど」
「じゃあ頼むな」
「全部カラにしちゃっていいんですか?」
「いいよ。――地上の連中は元気か?」
「はい。なんかもう全然実体化して地上にいるし、ウリエルと離れてても精神体にならないから、本当にあのまま生きて行けそうな感じします。どのくらいで精神体になるのか調べるためにいるのになってアミアさんなんか退屈してました」
「お前さ、こういうものを集めた時に随分律儀に箱にしまってるけど、性格細かいって言われないか?」
エドアルトが拾い集めたものは魔力の宿るものもあったが、単なる魔物の羽飾りや牙だったりもする。
普通の綺麗などんぐりが混じっているのに笑ってしまいながら、ラムセスは聞いた。
「いえ。全然。
どっちかというと大雑把って言われます。
あ、俺がそういうのちゃんと揃えたり拭いて綺麗にしたりするのは、俺の性格じゃないですよ。メリクがそういう風にする人なんです」
ラムセスは普通のどんぐりを指でぴんと弾いて床に捨てながら、すでに本棚の作業に移り始めたエドアルトの背を見た。
「生前旅してた時、メリクはお金基本的にいつもは持ち歩かない人なんですけど、街に入る前とかはすこし必要になるから、洞窟に入ってお金に替えられるものを取ってきたりしてたんですけど、いつもそうやって全部出して一つずつ綺麗に拭いたり乾かしたり洗ったりしてました。
俺が出来るのってそういう手伝いだけなので、よくやってたから、それだけはクセになったんですよ」
ラムセスは綺麗に整えられた箱の中をもう一度見た。
薬草は、葉の多いものは揃えられて重ねられて、
少ないものは紙にきちんと挟まれている。
魔石は色で区別されて、小さな小瓶に律儀に入れられていた。
大きなものは別の袋へ。
この弟子はメリクを尊敬しているので、それはさぞや忠実に再現しているのだろう。
ラムセスは一瞬、優しい表情で手に取った色とりどりの魔羽を見遣った。
あの緑の術師を思い浮かべる。
そうか。
彼はそういうことをする魔術師だったのか。
ラムセスの中でメリクの印象は当初より、今、刻一刻と変化している。
最初は穏やかで大らかな印象しかなかったが、
今もそういう面はありながら、本質は、生真面目で頑なで感受性豊かだと思っている。
その印象と、この整理整頓されていて、色鮮やかな箱の中身の印象がまさに合致したので楽しく思えた。
「メリク、魔石はともかく宝石の価値とかも分かるんですよね。それで自分で鑑定して、高額で取引できるものと大体1000アール未満のものとかは別にして、そういうのは俺にポイってくれちゃうんですよ。好きに使っていいよーって。
魔術師ってみんな宝石の価値とかも分かるんですか? いてっ」
頭にどんぐりが当たった。
「どんぐりを集め過ぎだ。お前さすがにどんぐりと魔術的なものくらいは見分けをつけろ」
「だ、だってそういうの捨てちゃってなんか、でも魔力が宿ってたらあとで嫌じゃないですか! 聖なるどんぐりとかだったら一生後悔するでしょ」
「聖なるどんぐりなんてない」
「いいじゃないですか! バットが食べるかもしれないでしょ!」
「エドアルト」
「うわ!」
聖なるどんぐり発言を我ながらバカだったと赤面して、エドアルトは急いで本を出していたので、突然呼ばれて驚き、梯子から落ちそうになった。
ラムセスは何回言ってもエドアルトを「メリクの弟子その1」としか呼ばなかったので、名前をいきなり呼ばれたのも驚いた。
それと数秒前までテーブルに座って優雅に紅茶を飲んでいたと思ったのに、今はそこに立って本棚に凭れかかっている。
エドアルトは慌てたが、ラムセスはそんな様子は無視して、尋ねて来る。
「丁度良かった。お前に聞きたいことがあったんだ」
「おれに……? な、なんでしょうか」
賢者が自分に何を聞きたいと言うのか。緊張してしまう。
この人とメリクは随分普通に喋っている印象だが、エドアルトはまだ全然慣れない。
この人とあんな風に普通の友人みたいに喋れるメリクはやっぱりすごい魔術師なんだなと心底エドアルトは思う。
「お前、生前メリクと旅をしていたと言ってただろ。
その時のことを聞きたい」
ラムセスは穏やかな表情をしていたが、エドアルトは分厚い本を抱えた姿で、首を傾げる。
「旅のですか? えっと、どういうことを話せば……」
「何でもいいよ。話せば勝手に俺が意図を拾っていく。
お前の母親たちが話していたが、メリクとは旅の途中偶然会ったんだって?」
ああ、そういうことでいいのかとエドアルトは安心した。
経緯くらいは自分でも話せると思ったのだ。
「はい。旅の途中で不死者と遭遇して苦戦してる所をたまたま通りかかって助けてもらって。
俺の母親は、アミアカルバ王妃の学生時代からの友人で、メリクがサンゴール王国に連れて来られた時に少しの間だけど彼の守り役をしていたみたいです。
でも、メリクの方もその時は全く俺が母の子供だってこと知らなかったみたいで。
後で知ってすごくその時驚いてました」
ラムセスは本棚の側面に立ったまま頬杖をつき、寄り掛かって聞いている。
「おれ、母親は神官戦士ですけど、俺が生まれた時はもっぱら教会の管理者として日々の神儀や誰でも理解出来る礼拝とかをこなす感じだったので、実は初めてだったんです。ああいうメリクみたいに生粋の、がっつり魔術を習得している魔術師の人と出会うのが。
神官や神殿の人とは旅の途中とかでも親しくしたり話したりしましたけど、……なんか全然、違うんですね。
俺は正直、神官と魔術師の違いもそんなよく分かってなかったくらい無知だったから……なんていうか、会って少し話しただけでも、すごく驚きました。
メリクの生き方とか、考え方とか、物の捉え方とか……
それで、弟子になりたい! 旅について行きたい! って思って。
追いかけて頼み込んだら、すんごい嫌がられました」
思い出しながらエドアルトは苦笑する。
「最初の頃は、ほんと……俺もずけずけとついてっちゃって、魔術のことも知らない癖に、しつこかったと思うんですけどね。
メリクは弟子も同行者も必要ないから、ついて来ないでほしいって。
あまりにしつこいからついて来ていいよと言われたことがあるんですが、それからは同行しては撒かれるというのを繰り返していました。
なんで置いて行くんですかっ! って涙目で訴えても、ついて来るのを勝手にすればって許可しただけとか言われて。
でもメリクって変なんです。
俺なんて単にうるさい追っかけみたいな奴だったんだから、適当に撒いて置いて行けばいいと思うのに、メリクが俺を置いて行く時って安全な街の側とかなんですよ。
しかも金目のものとか寒さを凌げるものとか、回復薬とか、魔石とか、全部俺に置いて行くんです。
普通同行者がある夜突然消えてたとかなるとこっちの持ち物が減ってるものだと思うんですけど、メリクだけだと思います。相手の持ち物増やして、去っていく人は……」
楽しそうに話すエドアルト。
彼は置いて行かれたのはきつかったが、自分がそのことで苦労をしないように、計算されて置いて行かれたことをきちんと理解しているようだ。
だから今も、これだけあの魔術師を慕っているのだと思う。
「そういうところも不思議な人でした。
俺にとっては、ほんと、初めて会う印象の人で……。
あっ!」
当時を回想していたエドアルトが突然大きな声を出した。
彼はこっちを見ているラムセスを、梯子の上から見て来た。
「ラムセスさんって誰かに似てるなーって前から思ってたんですけど、今分かりました。
メリクに似てたんだ。
特に、会って間もない頃のメリクに……。
なに考えてるのか全然分かんないんだけど、不思議とついて行きたくなる、
そういう不思議な感じのひとだった頃の……」
そんな風に言われたラムセスは一瞬目を瞬かせてみせたが、すぐにフッと笑った。
「そうなんです。メリクもよく俺の言ったことにそうやって不思議な笑い返して来てた」
「不思議な感じの人だった、ってお前は言うけど、今はメリクがどんな人間か、お前は噛み砕けるようにはなったのか?」
「うーん……まあ完璧じゃないですけど……。
……でも、どんな人かは分かって来たつもりです。
俺なりに、ですけど」
ラムセスが手を招くように動かして「言ってみろ」と催促する。
「……。優しいひとですよ。
でもメリクはそういう優しさを、あんまり進んで人に見せようとしないんです。
むしろ彼は人から自分は付き合いにくい奴だと敬遠された方がいいとさえ思ってるように見えることがある。
そういうことメリクに聞くと、面倒臭いからっていつも言うんですけど、多分メリクが人に対してそうするのは面倒臭いからとかじゃない。むしろあの人は多くの人が例え面倒臭がってやりたくないと言うようなことでも、誰もやらないなら自分がと思うような人なんです。
でも、単純な正義感とかじゃない……。
いや、そうなのかもしれないけど……。
俺メリクはすごく正義感とか、責任感とか、強い人のような気がするんです。
本来は。
けどメリク自身は一生懸命そうじゃないものに、なろうとしてる感じがする。
でもそう出来なくて、隠しきれないメリクが本来持ってる、彼の……なんていうか、光……みたいな……光の本質みたいなのが、滲み出ちゃって来る時がある。
そういうのを俺は多分感じ取って、慕ってるんだなあと」
「エドアルト」
「ああっ! すいません! 俺一人でべらべら喋りすぎ……」
「破門は撤回だ」
「えっ⁉」
ラムセスが歩き出して、元居たテーブルの椅子に座り、
ブーツごとテーブルの上に足をあげた。
「……あの、ラムセスさん?」
「ん?」
「メリクがどうかしたんですか?」
「どうかって?」
「あ、いえ……。……あの、メリクにはこのこと、言わないでもらっていいですか?
心配させるのは嫌なんで。
あの人、そういうとこ全然気にしてないように見えても、すごく周囲の人に気を遣う人なんですよ。
いや、これは俺が思うというより、ミルグレンがそう言ってるんですけど」
「弟子その2が?」
「はい……。なんか、最近メリクの様子が前と違うってミルグレンは言ってて……。
サンゴール王国を出奔した頃の雰囲気に似てるってあいつ言うんです。
聞くところによると、色々メリクってサンゴール王国で毎日苦労してたみたいなんだけど、出奔前って妙に、あいつには平和に感じられたらしい……。
あいつの周囲もですけど、メリクの周囲も変に平和で穏やかだったって。
でもメリクが消えた後、分かったことだけど、実はミルグレンの分からない所でたくさんの悪い出来事は起きていて、あの平穏はメリクが必死に見せないようにしてたからなんだって。
最近バラキエル戦が終わってから、妙に平穏でしょ。
なのにメリクが結構いなくなるのが気になるみたいです。
正直俺はそこまでのこと全然思わないんですけど、
でも……ミルグレンの勘ってすごいんですよ。
でもあいつの勘ってメリクに関してだけしか働かないんです。
けどメリクに関してあいつが何か感じ取ったら、それは大概合ってたりするからなあ」
「――おまえ、『伝播』って分かるか?」
「デンパ?」
「万物には魔力が宿ることは知ってるだろ。
一見魔力なんか全然持ってないお前や弟子2も、厳密に言えば魔力の所有者だ。
俺やメリクとは比べ物にならんくらい、あるかないかだが。
だがどんな人間も、魔力は持っている。
魔術師とは魔力の持ち主のことを指すのではなく、
魔力を魔術に昇華する技術を持った人間のことだ。
魔力を持つ者と、行使する者が全く違うのは、バカでも分かることだよな?」
エドアルトが慌てて首を縦に振る。
「つまりその、万物に宿る魔力というものは、必ず近くにいると影響を及ぼし合う。
影響は反発したり、融合したり、その時それぞれだ。
環境にもよるし、色んな要因が理由を選ぶ。
その一つが『伝播』だ。
魔術師は魔力を日常的に行使する。
そのことで周囲の人間に、感性が伝播することがある。
魔力じゃなくて、感性だ。
魔力も伝播はしているから全くしないわけではないが、
特に、魔術の心得の無い者でも、魔術師の側にいると感性が触発される。
魔力を行使出来るようになったりする奴はいるから、
魔力が伝播したように誤解されることもあるが、
あくまでも感性が伝播すると言った方がより正しい。
魔術師の師弟というものが、お遊びじゃ済まされないのはそこだ。
どんなアホだろうと、側にいるだけで影響は受ける。必ず」
それまで難しい話を聞かされているような必死な顔をしていたエドアルトが、ある所で「あ」という顔をした。
ラムセスはテーブルから足を下ろして、顎を動かした。
「そうだ。今のが『伝播』だよ。
弟子2がメリクに関して働かせるものも、サンゴール時代にはなかったものだ。
メリクの側で共に過ごしたことで、魔術を行使するものとしての感性が磨かれる」
「……あの、そのことか分からないけど、俺今、思い出したことがあって……」
「北嶺アフレイムでのことを話したくなって来ただろ」
エドアルトは驚いた。
「どうしてそれ……」
彼は心底驚いたのだが、ラムセスは何でもないことのように笑った。
当たり前のことだと言うように。
それが、あまりにもかつてメリクに対して感じていたものと同じに思えて、エドアルトは他人には一度も話したことのない、その話を始めた。
魔術師とは、そうでないものが見えない世界を見る者。
「メリクが……俺とミルグレンと離れて、単独で北嶺を目指して……。
俺とミルグレンも遅れて、彼のあとを追うように北上を始めたんですけど、アフレイムで戦ってる時にこれが……」
エドアルトは胸元にいつも下げている古めかしいペンダントを外した。
「これ、元々メリクがずっとつけてたものらしいんです。国を出てから。
俺がメリクと別れる時になんか欲しいって無理言ってもらったんですけど、アフレイムで戦ってる時にこれが体にまとわりつく瘴気を払ってくれてた。もしかしてこれも……」
ラムセスは受け取って、ペンダントを手の中に置いた。
「ああ。人に伝播するように、物にも魔力的な因果は伝播する。
まぁ感性じゃないが、性質自体を変えたりすることもあるから感性と言えんこともない。
魔力が宿れば、万物に対して影響は及ぼせる。
そして万物に魔力は宿るものなんだ。
唯一の例外が死体と言えるかもな。
魔力から見放されて行く、特別な時。
しかし俺たちの例に漏れず不思議なことに死は、完全に近づくほど魔術的な因果も強くなって行く」
う。難しい話。
エドアルトはまた必死な顔になった。
ラムセスは笑う。
「つまりな、人が死んで行く。魔力が失われて行く。
魂と魔力が失われる瞬間が来る、その瞬間だけが完全なる死だ。
その境界線を越えると、戦乙女のような者に干渉される領域に魂と魔力は移行し、触れられるものになるというわけだ。
俺達のように、魂も魔力もまた満ちて行くこともある」
今のは何となく分かった、とエドアルトは思った。
「魔力が宿らない死体の状態でいられるのは、ほんの一瞬……ってことですか?」
「ああ。不死者は死体を越えた領域に存在するだろう?」
「はい」
「死体の時期を越えると、そこにはまた、命はなくとも魔力に満ちた世界が存在するということだ」
エドアルトが側の椅子を持って来て、テーブルの向かい側に座った。
「メリクに言われたことがあります。人の死体も、失われた瞬間に魔力がすぐ失われるわけじゃないって。だからそれが完全に失われるまでは、魔力がある限り、何か影響を及ぼすことは出来るって」
ラムセスは吹き出した。
「あいつ、そんな危険思想を持っているのか?」
「あ! いえ! 違います! 全然そんなことない!
あの……、ちょっと込み入った話になってもいいですか?
俺たち、旅の途中でガルドウーム王国に立ち寄ったことがあって、そこで変な宗教団体みたいな連中に、捕まったことがあるんですよ。捕まったのは俺とミルグレンだけど、メリクが助けに来てくれて。
そいつらはなんか、死人を生き返らすみたいな実験を繰り返してる連中で……、殺した人間の肉体に、魔力的な何かを施して、不死者みたいなやつを作り出してたんです」
「へぇ……ガルドウーム……。
あそこは俺の生きた時代、アリステア同様武国系だった気がするが……。
……ああ、だがアリステアの張った国を覆う結界壁も、あれは筋金入りのものだった。
魔統に属さない国にとって、魔に脅かされると、血より、魔力そのものに対しての対抗術を取ろうとするのかもしれないな。
魔統でないものを魔統にするには、莫大な時間が掛かる。
だが対抗術を生み出す研究はたかだか何百年の世界だ。
どっちが容易いかは言うまでもない。
そういうものなのかな」
「?」
「いや。今のは独り言。
なるほど。そういう連中に出会った時にメリクが、魔力を帯びてるものには、例えだろうと万物には影響が及ぼせると言ったんだな」
「危険思想じゃないですよ」
「分かってるって」
「俺が、生前メリクとの旅で、教えてもらった事とか忘れないことはたくさんあるけど……。やっぱり、あれが一番心に残ってます。
俺は信じられなかったから。
死んだ人の墓を暴くのすら信じられないのに、遺体を道具や研究材料みたいに扱う奴がいるなんて、ホント信じられなかった。
人間が全ていいものとは、思ってなかったけど……。
……でも人間のやることが怖いと思ったのは、あの時は本当に初めてです。
けどそうしたらメリクが……」
ラムセスはエドアルトの方を見た。
「メリクが、言ってくれて。
俺が人間はどこまで狂って、悪になってしまえるのかなって聞いたら、
メリクは……悪いものといいものとかじゃないって。
ただ、そう見える因果の内側に人がいるって言ってた。
あそこにいた連中にはあの所業が正しいことで、信じられる光で、
だから迷わず、悪いことをする奴がこの世にいる。
俺はあいつらの犠牲になる人をもう作りたくなかった。
だから戦ったけど、そうすることが人として正しいはずだと思って戦ったけど、
そういう俺はあいつらにとっては、
あいつらの世界から見れば俺の存在だって『怖いこと』で、『悪』になるんだよって。
不死者もそうだって言ってました。
不死者はどうして悪い人よりいい人を襲うことが多いのかなって聞いたら、
悪人は魂が死んでしまっているから、世界としては生きている人間よりも不死者に近い。
不死者にとって平和に生きる人間より、
悪人の方が自分たちに近いから、同族なんだって。
同じものだから、共感があるから襲わないんだって言ってました。
俺、本当にそうだと思ったんです。
彼らにとっては光の方が遥かに暗闇より疎ましいんだって。
だから生きている人間が不死者に関わってはいけない。
出来るだけ、遠ざかっているべきだと」
エドアルトの言葉を聞くと、生前メリクが彼をどう思い、どういう言葉を与えようとして、また与えようとしなかったかもラムセスには分かった。
エドアルトが理解出来ることと、出来ないこと。
それを分かった上で、彼が正しい方へ学んでいくように、そういう言葉を選んでいる。
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