SCENE#177 最後の手紙が届く日 ―― 2025年、デンマーク郵便局の終焉 The Last Letter: Denmark’s Postal Farewell in 2025
最後の手紙が届く日 ―― 2025年、デンマーク郵便局の終焉 The Last Letter: Denmark’s Postal Farewell in 2025
SCENE#177 最後の手紙が届く日 ―― 2025年、デンマーク郵便局の終焉 The Last Letter: Denmark’s Postal Farewell in 2025
魚住 陸
最後の手紙が届く日 ―― 2025年、デンマーク郵便局の終焉 The Last Letter: Denmark’s Postal Farewell in 2025
第一章:コペンハーゲンの赤い夜明け ―― 最後の集荷
2025年12月30日。北緯55度、デンマークの首都コペンハーゲンの朝は、鋭く冷えた氷のような風とともに明けた。運河を縁取るカラフルな歴史的建造物たちが、まだ深い紺色の闇に沈んでいる頃、市街の中心部に建つ赤いレンガ造りの「デンマーク中央郵便局」の巨大な門が開いた。1624年の創設以来、数世紀にわたって国民の喜び、悲しみ、そして生活のすべてを運んできたこの建物にとって、今日という日は、その悠久の歴史に最後の一行を書き加える日だった。
デンマーク政府が進めてきた「完全デジタル移行計画」の最終段階。2026年1月1日をもって、物理的な「手紙」の定期配達サービスは完全に廃止される。公的な通知はすべて政府専用の暗号化アプリへ、私的な便りはSNSやメールへ。効率と環境保護の名の下に、デンマークから「郵便配達員」という職業が消滅する。
ベテラン配達員のラースは、使い込まれた真紅の配達用自転車のサドルを、愛おしむように布で拭った。彼のキャリアは今年で三十年。かつては肩が抜けるほど重かった配達カバンも、今朝はひどく軽い。中に入っているのは、わずか十数通の手紙と、小さな小包がいくつか。
「最後の日だな、ラース。泣いても笑っても、今日がラストランだ…」
守衛のヘンリックが、魔法瓶から注いだ熱いコーヒーを差し出した。ラースは、白い髭に霜をつけながら静かに頷き、その温もりを両手で受け止めた。
「ああ。デジタル庁の『電子ポスト』がすべてを飲み込んでしまった。確かに便利だよ。だがな、ヘンリック。この街の風景から、あの誇り高い赤いポストが消え、自転車のベルの音が聞こえなくなるのは、どうしても寂しいもんだよ…」
ラースはコーヒーを飲み干すと、慣れ親しんだサドルにまたがった。ペダルを踏み込むと、石畳を叩くタイヤの音が、静まり返った街に規則正しく響き渡る。彼にとってこの配達ルートは、地図がなくても目を閉じて走れるほど、自分の毛細血管のように体の一部になっていた。しかし、今日だけは、どの街角も、窓辺に飾られたヒュッゲ(Hygge)を象徴するキャンドルの灯火も、初めて見る景色のように切なく、そして愛おしく感じられた。
第二章:窓口の若き「遺品整理士」 ―― アーニャの当惑
午前九時。郵便局の受付窓口が開くと同時に、デジタル世代の職員であるアーニャは、事務的な手つきで端末を起動させた。彼女にとって、ここでの仕事は単なるキャリアの通過点に過ぎない。明日からは通信インフラを統括する新設の「データ保全局」への異動が決まっており、彼女の関心はすでに、物理的な紙の束ではなく、光ファイバーの中を駆け巡るパケットデータにあった。
「紙の手紙なんて、カーボンフットプリントを増大させるだけの、前時代の遺物ですよ…」
彼女は、かつて手紙を手作業で仕分けしていた、歴史の重みで黒ずんだ巨大な木製の棚を眺めながら、同僚に冷ややかに言い放った。しかし、そんな彼女の理論を揺るがす出来事が起きた。窓口に現れたのは、よれよれのオーバーコートを着た、一人の老人だった。彼は震える手で、古びた丁寧に手入れされた羊皮紙のような封筒を差し出した。
「これを、グリーンランドの最北端にある小さな村へ届けてほしいんだ。今日中に出せば、間に合うだろう?」
アーニャは画面を素早く叩き、感情を排した声で答えた。
「おじいさん、申し訳ありませんが、グリーンランドへの定期便はすでに今期の受付を終了しています。それに、私たちの配達サービスは本日十七時をもって終了します。明日からは、電子メールかビデオ通話をご利用ください。お手伝いしましょうか?」
老人は、困ったように、そして慈しむような微笑みを浮かべた。
「そうじゃないんだよ、お嬢さん。この手紙には、私と友人の五十年前の約束が、インクの匂いとともに閉じ込められているんだ。デジタルの文字には体温がない。この紙のざらつき、ペンが走った時の跡、そして私の指の脂……それらが合わさって初めて、届く言葉があるんだよ。若い君にはまだ、分からないかもしれないがね…」
アーニャは言葉に詰まった。老人の指先には、万年筆による青いインクの染みが深く刻まれていた。それは、彼女がどれだけ高速でキーボードを叩いても、決して指先に宿ることのない「物理的な時間」の証拠だった。彼女は、マニュアルにはない衝動に突き動かされ、その手紙を「特別便」のファイルに収めた。
第三章:待つ人の孤独 ―― ソレンと空のポスト
コペンハーゲンの北端、バルト海に面した古いアパートの一室。八十歳のソレンは、窓辺の安楽椅子に深く腰掛け、灰色に濁った海を見つめていた。彼の家の玄関にある郵便受けは、もう何週間も空のままだ。彼はかつて、デンマークの外交官として世界中を飛び回り、最愛の妻イングリッドと数千通の手紙を交わした。イングリッドが世を去って十年。彼にとっての郵便受けは、もはや単なる鉄の箱ではなく、唯一「外の世界」と繋がる血の通った回路そのものだった。
「今日が、その日なのだな……」
ソレンは、古い真空管ラジオから流れるニュースに耳を傾けていた。アナウンサーは、デジタル化がいかに国家の競争力を高めるかを誇らしげに語っている。人々はその恩恵を謳歌しているが、ソレンにとっては、それは自分のような「紙とペンで世界を理解してきた人間」が、社会から完全に切り捨てられる残酷な宣告に等しかった。
彼は、机の上にイングリッドとの最後の手紙を広げていた。
『ソレン、もし私が先に行っても、手紙は書き続けてね。たとえ返事がなくても、ポストに投函した瞬間に、私の魂に届くから』
ソレンは、その約束を守り続けてきた。毎日、彼女宛てに近況を綴った手紙を書いた。しかし、その手紙を出す場所を、彼は明日から失うのだ。ソレンは重い腰を上げ、クローゼットから一番上等なツイードのコートを取り出した。杖を突き、震える足取りで、近所にある最後の一本の「赤いポスト」へと歩き出した。そこには、彼と同じように、何かを残したいと願う、静かな、覚悟を決めたような人々の列が、雪の中に伸びていた。
第四章:届かない声の重み ―― エレーナの懺悔
その列の中に、一人の若い女性がいた。エレーナ。
彼女は、北欧でも指折りのIT企業のチーフデザイナーであり、皮肉にも、郵便サービスを無用の長物へと追い込んだデジタル化を推進する旗振り役の一人だった。彼女の手には、少し黄ばみ、角が擦り切れた一通の手紙があった。それは、十数年前に亡くなった母親が、当時反抗期だった彼女に宛てて残していた、遺言のような手紙だった。
エレーナは仕事に追われ、画面の中の数字とコードを追いかける日々に忙殺されていた。その手紙を読まずに引き出しの奥にしまい込んでいたのは、「いつでも読める」という傲慢な確信があったからだ。
しかし、デジタルですべてが即座に同期され、バックアップが取られ、永遠に消えないはずの世界に生きるうちに、彼女は逆に「形あるものの重み」を恐れるようになっていた。
郵便局が完全に閉鎖されるというニュースを耳にしたとき、彼女はなぜか、その手紙を「もう一度、自分宛てに出さなければならない」という強烈なほどの強迫観念に近い衝動に駆られた。
十年前の母の筆跡を、2025年の最新のセキュリティを備えたマンションの自分の住所へ。
今日、この消印を押してもらい、ラースのような配達員の手を経て届けられなければ、母の魂は永遠にデジタルの広大な海の藻屑となって消えてしまう。エレーナは、自分の仕事が奪ってきたものの正体に、ようやく気づき始めていた。
「お願いします。今日中に、これを私のアパートへ届けてください。代金はいくらでも払いますから!」
窓口で、彼女はアーニャに懇願した。アーニャは、先ほどの老人の時とは違い、同世代であるエレーナの瞳にある、計り知れない恐怖と後悔を見逃さなかった。
「……分かりました。ラースさんに、速達で届けるよう無線を入れます。今日が、本当の、本当の最後ですから…」
第五章:自転車と石畳のバラード ―― ラースの決意
午後三時。冬の太陽はすでに傾き始め、コペンハーゲンの街は幻想的な薄紫色のトワイライトに包まれていた。ラースのバッグには、先ほどアーニャから緊急で託されたエレーナの手紙と、ソレンがポストに投函した数通の封筒が入っていた。気温はマイナス五度まで下がり、自転車のチェーンが冷気で悲鳴を上げている。
「これが、俺の人生の最後の仕事だ。……いや、郵便配達員の、最後の使命だ…」
ラースは冷たい空気を深く肺に吸い込み、節くれ立った指でハンドルを握り直した。彼は、政府から支給された最新のGPSを搭載したスマートウォッチなど見ていなかった。どの家にも気難しいシェパードがいて、どの家のポストの蓋も少しガタついているか、どの家の老婆も手紙を渡すときに必ずクッキーをくれるか。彼の体は、地図には載っていない「街の記憶」をすべて覚えていた。
彼はエレーナの住む高級マンションへ向かった。オートロックの無機質な入り口。彼は、かつて自分が配達を始めたばかりの頃の、重くて温かい、命の重みさえ感じられた「鞄の感触」を思い出していた。あの頃、手紙はただの情報伝達手段ではなく、人々の生活と感情を繋ぐ、一本の細い、しかし強靭な糸だった。
エレーナのポストに手紙を滑り込ませたとき、カタン、という乾いた音がした。その音は、彼がこれまでに何十万回、何百万回と聞いてきたはずのものだったが、今日ばかりは、大聖堂の鐘の音のように厳かに、何かの終わりを告げるレクイエムのように響いた。ラースは、少しだけポストの金属の冷たさに手を当て、心の中でそっと別れを告げた。
「お疲れ様、相棒…」
第六章:午後五時の最終選別 ―― 郵便局の「消灯」
郵便局の閉鎖時刻、午後五時。中央ホールの巨大な時計の長針が、垂直に重なった。その瞬間、局内の照明が半分、落とされた。アーニャは、すべての窓口業務を終え、最後の一台の端末のシャットダウンボタンを押した。
いつもなら一日の終わりを告げる心地よい解放感があるはずが、今夜は違った。自分の指先ひとつで、何世紀も続いてきた人の営みのスイッチを切ってしまったような、得体の知れない喪失感と罪悪感が、彼女の細い肩にのしかかっていた。そこへ、雪にまみれたラースが、最後の一回りを終えて戻ってきた。
「全部、届け終えたよ。……いや、最後の一つを除いてね…」
ラースが凍えた手でバッグから取り出したのは、差出人の名前がない、一通の小さな白い封筒だった。宛先には、少し震えた文字でこう書かれていた。
『デンマーク郵便局、最後の一日を支える人々へ』
アーニャが震える手でそれを開封した。中には、子供のような拙い、しかし力強い筆跡でこう綴られていた。
『今まで、おじいちゃんからの手紙を運んでくれてありがとう。おじいちゃんはもういないけど、郵便屋さんが届けてくれた手紙は、私の宝物です。郵便局がなくなっても、皆さんが運んでくれた笑顔を、私たちは一生忘れません』
それは、かつてこの郵便局に救われた、名もなき誰かからの感謝状だった。アーニャの瞳から、こらえきれなかった涙が溢れ出した。
「ラースさん……私たち、ただの配達員じゃなかったんですね。データを運んでいたんじゃない、私たちは……」
「ああ。僕たちは、人の想いを、その重みを運んでいたんだよ…」
二人は、什器が片付けられ、がらんとした広大な仕分け場で、最後の一杯のコーヒーを分け合った。外では、コペンハーゲンの冬の雪が、街角に立つ赤いポストを、優しく、そして冷たく、白銀の世界へと埋めていこうとしていた。
第七章:明けない夜はないが、届かない手紙はある
―― 2026年への夜明け。2025年12月31日、午前零時。
「デンマーク郵便公社」の公式Webサイトから、手紙配達の予約ボタンが静かに消えた。サーバーの中では、膨大なパケットデータが秒速で駆け巡り、世界はより便利に、より効率的に、そしてより清潔に更新されていく。2026年が始まる。
ソレンの家の郵便受けには、結局、返事は届かなかった。しかし、彼は昨夜、自分の手で書いた最後の手紙を、雪に濡れたポストに入れた瞬間の「指先の冷たさと、心臓の鼓動」を、今も鮮明に覚えていた。その感触こそが、彼が生きている証だった。
エレーナは、自分のポストに届いた母の手紙を、初めて開封した。そこには、デジタルでは決して再現できない、十年前の母が使っていた古い香水の匂いが、微かに、しかし確かに残っていた。彼女はその紙の匂いを深く吸い込み、初めて「お母さん、ごめんなさい…」と声を上げて泣いた。
新年の朝、ラースはもう赤い自転車には乗らなかった。彼は、散歩の途中で、赤い看板が剥がされた郵便局の跡地を眺めた。そこには、かつて誇り高く掲げられていた王室の紋章の代わりに、真新しい灰色のプレートが貼られていた。
『デジタル・ゲートウェイ・センター・コペンハーゲン』
しかし、ラースは悲しんでいなかった。彼は知っていた。どれほど技術が進歩し、すべてが空気中を飛び交う不可視のビットに置き換わったとしても、人間は、誰かのために筆を執り、重みのある何かを届けたい、そして誰かの手から直接何かを受け取りたいという原始的な欲望を、決して捨て去ることはできないのだと。
「最後の手紙が届く日は、新しい想いが始まる日でもあるんだな…」
ラースは、凍った運河の向こう側に昇る、2026年の最初の太陽を見つめながら独り言を言った。街から赤い色は消え、ベルの音は止んだ。しかし、人々の心の中にある「届けるべき言葉」は、今も静かに、力強く、次の宛先を探して、デジタルの闇の中でも鼓動し続けていた。形を変え、方法を変えても、想いを運ぶ旅に終わりはないのだから…
SCENE#177 最後の手紙が届く日 ―― 2025年、デンマーク郵便局の終焉 The Last Letter: Denmark’s Postal Farewell in 2025 魚住 陸 @mako1122
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