2.沈黙する神に利はあるか
穀倉地帯の風は、いつも焼きたてのパンの匂いがした。
黄金色に揺れる麦穂の海。
それが、エルミナ・クレストの世界のすべてだった。
十七歳。
乳白色の肌に、亜麻色の髪。
誰もが彼女を「村の宝」と呼び、その微笑み一つで、どんな屈強な男でも顔を赤らめた。
だが、その日、風は血と鉄の匂いを運んできた。
地平線の彼方が、血をぶちまけたように赤く染まり、黒い点の大群が砂塵を巻き上げながら迫ってくる。
歪んだ鋼の鎧、獣の骨で飾られた兜、そして掲げられた旗には、捩れた角を持つ魔王の紋章が禍々しく描かれていた 。
〝剛撃〟のグラディオスが率いる、破壊と略奪だけを信奉する軍団だった 。
「ヒャハハハ! 殺せ! 犯せ! 喰らえ!」
先頭を駆ける巨大なリザードマンの戦士が、村の貧相な木の柵を、まるで小枝でも折るように薙ぎ払う。
平和な村は、一瞬で屠殺場に変わった。
エルミナの父親が、震える手で猟銃を構える。
「エルミナ! 母さんと一緒に、裏の納屋へ逃げろ! 早く!」
「いや! お父さんも!」
「言うことを聞け!」
父親の怒声に背中を押され、母親に手を引かれて走り出す。
背後で、猟銃の発砲音と、骨が砕ける湿った音、そして父親の短い絶叫が聞こえた。
振り返ることは、許されなかった。
納屋に駆け込み、乾いた藁の匂いの中で息を殺す。
すぐ外で、聞き覚えのある村の娘の悲鳴が上がった。
甲高い絶叫。
助けを求める声。
そして、衣類の引き裂かれる生々しい音と、複数の兵士たちの獣のような喘ぎ声。
エルミナは耳を塞ぐが、その音は脳に直接焼き付いて離れなかった。
ドォン! と、納屋の扉が蹴破られる。
そこに立っていたのは、返り血で鎧をまだらに濡らした、豚顔のオークだった。
その濁った眼が、暗闇の中で怯えるエルミナと母親の姿を捉え、ねばつく欲望の色にギラついた。
「ヒヒッ……こいつは極上だ。親子丼といくかァ……」
「エルミナ……私の後ろに……!」
母親が、農具の鍬を構えて娘の前に立ちはだかる。
オークは、その哀れな抵抗を嘲笑い、巨大な戦斧を振り上げた。
「――汚い手で、母さんに触らないで」
エルミナの声だった。
恐怖に染まっていたはずの瞳から、一切の感情が消えていた。
オークがその異様な雰囲気に一瞬怯む。
その隙を突き、母親が絶叫と共に鍬を振り下ろす。
だが、戦斧の一閃が、母親の華奢な体を、まるで熟れた果実のように両断した。
生暖かい血飛沫が、エルミナの白い頬を赤く染めた。
彼女の目の前で、母親だったものが、二つの肉塊となって崩れ落ちる。
「……あ……」
時間が、止まった。
オークが、血振るいをした戦斧を肩に担ぎ、下卑た笑みを浮かべる。
「さて、と。お次は、お前だ、小娘」
だが、エルミナはもはやオークを見ていなかった。
彼女の視線は、母親の亡骸の、その先にあったものに釘付けになっていた。
焼け落ちた家の残骸。
その中で、一袋だけが奇跡的に焼け残っている。
それは、父親が長年かけて品種改良していた、特別な麦の種だった 。
魔素の汚染に強い、「耐呪麦」の種 。
(……まだ、終わってない)
絶望の底で、声が聞こえた。
(種がある。ここから、始められる)
彼女はゆっくりと立ち上がった。
血に汚れた頬、虚ろな瞳。
だが、そのたたずまいは、背後に炎を背負った、一枚の聖画のようだった。
オークは、その異常な雰囲気に、本能的な恐怖を感じた。
「な、なんだ、その目は……」
エルミナは何も答えず、ただ静かに、燃え盛る故郷と、天に昇る黒い煙を見つめていた。
◆ ◆ ◆
「……で? 北の穀倉地帯が魔王軍に焼かれた、と。それがどうした?」
大陸最大の商業ギルド「金獅子」の長、バルトロメオ・ガッツォの執務室は、欲望を煮詰めて固めたような場所だった 。
革張りの椅子にふんぞり返る彼の隣では、絹のドレスから豊満な乳房を惜しげもなく晒した女が、ただ黙って彼のグラスに酒を注いでいる。
「はっ。いえ、これにより、王都の食料価格は最低でも三倍に高騰するものと……」
「だろうな。俺が事前に小麦を買い占めておいたからだ」
バルトロメオは報告に来た部下を鼻で笑った。
「嘆きは一銅にもならんが、需要は黄金を生む。世界の真理だ。覚えておけ」
金がなくて、病の妹を救えなかったあの日から、彼の信じる神は、金だけだ 。
「報告はそれだけか?隣のレディとの時間を邪魔するな。彼女の唇は、お前の報告書よりよほど有益な情報をくれるんでな」
彼はそう言うと、女の顎を掴んで引き寄せ、見せつけるように舌を絡めた。
女は慣れた様子でそれを受け入れ、媚びるような吐息を漏らす。
「い、いえ。もう一つ……。その壊滅した村から、奇跡的に生き延びた者がいる、と」
「ほう?」
「まだ十七の、ただの村娘だそうで。ですが、奇妙な噂が……。その娘が避難民を集め、新たな共同体を作ろうとしている、と。焼け跡から見つけ出した一袋の種を手に、『ここから始めましょう』と、そう言ったそうです」
その言葉を聞いた瞬間、バルトロメオの動きが、止まった。
彼の脳裏に、遠い過去の光景が、陽炎のように揺らめく。
病にやつれながらも、春になったら、お庭に花を植えようねと笑った、あの顔。
「……その娘の名は?」
「はぁ……確か……エルミナ、と」
「……青臭い。反吐が出るほど、青臭い戯言だ」
彼はそう吐き捨てると、残っていた酒を、まるで苦い薬でも呷るかのように、一気に飲み干した。
◆ ◆ ◆
「――っと、危ねぇ!」
ゼフィルスは、背後から振り下ろされた錆びたナイフを、紙一重で避けた。
王都の裏路地。
汚水と安酒の匂いが混じり合う、世界の吹き溜まり。
「待てや、コラァ! てめぇ、俺の妹に何しやがった!」
「人聞きの悪い!俺はただ、彼女の美しい瞳に相応しい未来を、ほんの少しだけコンサルティングしてやっただけさ!」
口からでまかせを並べながら、ゼフィルスはひらりひらりと追手をかわす。
彼は生まれつきスキルを持たなかった。
無能者の烙印を押され、家を追われた過去を持つ詐欺師だ 。
信じられる武器は、この舌先三寸と、そこそこの身軽さだけ。
彼は近くの酒場の扉を蹴破って中に転がり込んだ。
「ママ! 助けてくれ! 野暮な旦那に追われてるんだ!」
「あら、ゼフちゃん。また面倒ごとかい?」
カウンターの向こうで、酒樽のように豊満な女主人、ローザが呆れたように笑う。
ゼフィルスは彼女の背後に隠れると、追ってきた男たちに向かってウィンクした。
「残念だったな。こっちの淑女は、君らの妹君よりよっぽどグラマーで、話が分かる」
ローザの鉄拳と罵声によって男たちが追い払われた後、ゼフィルスは礼とばかりに彼女の腰を抱いた。
「いやぁ、助かったよ、俺の女神様。今夜あたり、このご恩をベッドの上でゆっくりと……」
「おやめ。アンタみたいな口先だけの甲斐性なしは、お呼びじゃないよ」
ローザはそう言いながらも、満更でもない顔で彼の頬をつねる。
「……アンタ、いつもそうやって、誰のことも本気で抱かないね」
「本気? そんなもんで腹が膨れるかい?」
ゼフィルスは肩をすくめると、ローザの唇を盗む代わりに、カウンターに置かれた銀貨を数枚、音もなく抜き取った。
「じゃあな、ローザ。愛してるぜ、あんたの財布の中身だけはな!」
彼は悪党らしい笑みを残して、夜の闇へと消えていく。
その背中にある奇妙なアザが、月光に一瞬だけ、星のように煌めいた気がした。
絶望から立ち上がろうとする聖女。
絶望を金に換えようとする現実主義者。
そして、世界の混乱に乗じて、虚ろな生を謳歌する詐欺師。
勇者が生まれなかった世界で、名もなき者たちの、奇妙で歪な物語が、今、静かに幕を開けた。
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勇者は生まれなかった @Kakinei
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