深層海都

辛口カレー社長

深層海都

 目覚めると、海の中だった。視界を占めるのは、どこまでも透き通った、けれど重厚な重みを持った「青」だ。

 頭上からは、ひび割れたガラス越しのような、頼りない陽光が細い糸となって降り注いでいる。

「……っ」

 慌てて口を塞ごうとしたが、遅かった。肺の中の空気が、銀色の真珠のような気泡となって口から滑り出していく。

 ――溺れる。

 そう直感した。全身の細胞が恐怖に悲鳴を上げ、手足をばたつかせる。だが、おかしい。苦しくないのだ。

 鼻から吸い込んだのは冷たい海水のはずなのに、それは不思議と肺を焼くことはなく、むしろミントのように清涼な感覚が全身を駆け巡る。

 俺は水の中で、陸上にいるときよりもずっと深く、静かな呼吸を繰り返していた。


「あ、起きたんだ」

 不意に、頭上から声が降ってきた。見上げると、そこには一人の少女が浮かんでいた。

 少女はオーバーサイズのパーカーにショートパンツという、およそ海中には似つかわしくない格好をしていた。ただ、その足元は裸足で、長い黒髪が重力から解放された扇のようにゆらゆらと広がっている。

「ここ、は……?」

「喋れるよ。ここは『層』の間だから」

 少女は慣れた手つきで水を掻き、俺の目の前まで降りてきた。彼女の瞳は、深海のような濃い青色の光を帯びていた。

「君、新宿駅のホームから落ちたでしょ? 落ちた瞬間に、こっちに混ざっちゃったんだよ」

 ――新宿。

 その単語を聞いた瞬間、泥のように濁った記憶が蘇ってきた。そうだ。俺は深夜の残業帰りで、ひどく疲れていた。

 不快な湿気が充満した六月の空気。黄色い点字ブロック。近づいてくる電車の風圧。視界が回転し、足の裏から地面の感覚が消えた。


「死んだのか、俺」

「半分正解で、半分ハズレ。君の体は今、上の世界の病院で眠ってる。ここは街の記憶が沈殿してできた『深層海都しんそうかいと』なの。絶望とか未練とか、そういう重たい感情が飽和して、現実から零れ落ちた連中が行き着く場所だよ」

 少女は自分のことを「ミウ」と名乗った。彼女は俺の周りを一周すると、悪戯っぽく笑った。

「ようこそ、水底の新宿へ。案内してあげるよ。君が自分の『息の仕方』を思い出すまでね」


 彼女に導かれ、俺は海中を歩くことになった。いや、浮遊しているといった方が正しい。浮力に身を任せ、ビルの合間をすり抜けていく。

 そこには、見慣れたはずの新宿の景色があった。都庁のツインタワーは巨大な珊瑚の塔のようにそびえ立ち、壁面には色とりどりのイソギンチャクがへばりついている。大通りのアスファルトの上を、色鮮やかな熱帯魚の群れが、まるで渋滞中のタクシーのように整然と泳いでいた。

 電光掲示板は生きていた。ただし、映し出されているのは広告ではない。誰かの日記の一節や、名前も知らない誰かの泣き顔、あるいは「もう歩きたくない」という短い独白。それらが淡い光を放ちながら、水の揺らぎに溶けていく。

「綺麗でしょ? ここは嘘がつけない場所なんだ。街が飲み込んだ本音だけが、こうして形を持って漂ってる」

 ミウは錆びついた看板の角を器用に蹴って加速する。

「なぁ、ミウ。俺はいつまでここにいるんだ?」

「さぁね。君次第だよ。あっちの世界にいる君の体に、今の君を吸い上げる力が戻れば、自然と浮上できる。でも、今の君は……ほら、こんなに重い」

 彼女が指差した先。俺の足首には、黒い鎖のような影がまとわりついていた。それは地面に向かって長く伸び、海底の泥の中に深く根を張っているように見える。

「あれが君の重りだよ。足枷あしかせって言ってもいいかな。仕事のストレス、将来への不安、自分への失望。そういうのが結晶化したもの。それが外れない限り、君は二度と水面に顔を出せない」

 俺は自分の足首を見つめた。鎖は、脈打つように黒い光を放っている。

 思い返せば、ここ数か月の俺は、呼吸の仕方を忘れていたのかもしれない。満員電車で押し潰され、理不尽な怒号を浴び、コンビニの弁当を味も分からず咀嚼する日々。とにかく、溺れないように必死で水面を探し、空気を求めていただけだった。

「どうすれば……これを外せる?」

「簡単だよ。君の重りを作っている核を見つけて、壊せばいい」

 ミウはニヤリと笑い、巨大な地下街の入口を指差した。かつて地下鉄の入口だったそこからは、どろりとした墨のような液体が溢れ出していた。

「あの中に、君の一番見たくないものがあるよ。行こう、サラリーマンくん」


 地下街の中は、地上よりもずっと暗く、冷たかった。水は重く、肌を刺すような冷気を含んでいる。ミウが指先に灯した小さな光だけが、俺たちの行く道を照らしていた。

「見て、あれ」

 ミウが指差した先には、改札口があった。だが、その改札には無数の書類が張り付いていた。俺がこれまで作成し、そして上司に突き返された企画書。謝罪のメール。終わりのないタスクリスト。それらが湿った海草のように絡み合い、巨大な怪物の形を成していた。

 怪物の中心に、一人の男が座っていた。俺だった。ただし、それは今の俺ではない。

 疲れ果て、生気を失い、汚く濁った瞳でパソコンの画面を見つめ続けている、かつての俺の残像だ。

『……まだ、終わってない』

 残像の俺が、泡を吐き出しながら呟く。

『明日の会議までに……これを……。じゃないと……俺の居場所がなくなる……。誰も……俺を見てくれなくなる……。もっと頑張らなきゃ……もっと、もっと……』

 その声は、重い振動となって俺の鼓膜を震わせた。

 俺の足首の鎖が、ぎりりと音を立てて締まる。体が、地下街の床へと引きずり込まれていく。

「ダメだよ、逃げちゃ!」

 ミウの声が、遠くで響いた。

「あれは君が切り捨てた、君自身の悲鳴なんだから!」

 俺は必死に地面を蹴り、残像の自分へと近づいた。近づくほどに、体が重くなる。水圧が肋骨を締め付け、内臓を押し潰そうとする。

『……君も、俺だろう?』

 残像の俺が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、底なしの深い絶望が溜まっていた。

『外の世界に戻って、何がある? またあの狭いデスクに縛り付けられるだけだ。誰からも必要とされず、ただ消費されるだけの歯車。そんな場所に戻る価値があるのか? ここにいろよ。ここは静かだ。誰も怒らない。誰も期待しない。ただ、青い闇に溶けていればいいんだ……』

 その言葉は、甘い毒のように俺の心に浸透していった。

 確かにそうだ。戻ったところで、何も変わらないかもしれない。あの地獄の日々が、また繰り返されるだけかもしれない。だったら、このまま眠ってしまった方が、楽になれる……。


 視界が暗くなる。俺はゆっくりと目を閉じようとした。

 その時、冷たい指先が俺の頬を叩いた。

「馬鹿! そんな顔、似合わないよ!」

 ミウだった。彼女は俺の胸ぐらを掴み、強引に俺の視線を自分へと向けさせた。

「いい? 確かに外の世界はクソだよ。息もできないくらい苦しいかもしれない。でもね、君はまだ美味しいものを食べてない。君がまだ見てない綺麗な景色も、読んでない本も山ほどある。出会ってない人も、たくさんいるんだ。それを全部捨てて、こんなゴミ溜めみたいな記憶と一緒に沈むつもり? それで終わっちゃっていいわけ?」

「でも、俺はもう、疲れたんだ……」

「疲れたなら休めばいいじゃない! でも、死ぬのと休むのは違う。海の中にいるのは、次に高く跳ぶための準備期間でいいんだよ!」

 彼女の手から、温かい熱が伝わってくる。水の中にいるはずなのに、その熱は確かに俺の心を震わせた。

 俺はもう一度、残像の自分を見つめた。それは怪物なんかじゃない。ただ、誰かに「お疲れ様」と言って欲しかっただけの、幼い子供のような俺自身だ。

 俺は、その残像の肩に手を置いた。

 水圧に抗い、声を絞り出す。

「ごめんな……。ずっと、無視してて」

 その瞬間、俺の足首の鎖がパキン、と乾いた音を立てて砕け散った。砕けた鎖の破片は、光る魚の群れとなって、暗い地下街を鮮やかに彩った。

 俺を飲み込もうとしていた残像の自分は、静かに微笑むと、細かい泡となって消えていく。

「終わった……のか?」

「うん。合格。君の重りはもうないよ」

 ミウが俺の手を引く。

 俺の体は、先ほどまでの重苦しさが嘘のように軽くなっていた。何もしなくても、体が自然と上へ、上へと昇っていく。

「ミウ、君は……」

「私は、この街の忘れ物係みたいなもの。君みたいな迷い子が、ちゃんと上に帰れるように背中を押すのが仕事なんだ」

 俺たちは地下街を抜け、再び新宿の海中へと飛び出した。

 太陽の光が、先ほどよりもずっと明るく、黄金色に輝いている。見上げると、遥か頭上に、銀色に輝く境界線が見えた。

 あれが現実の世界。

 ――水面だ。

「そろそろお別れだね、サラリーマンくん。あ、名前聞いてなかった」

「……わたる。航海の航で、わたる」

「いい名前じゃん。ここにぴったりだね」

 ミウは俺の手を離し、優雅に一回転して見せた。

「航。あっちに戻ったら、たまには空を見上げなよ? 青いのは、海だけじゃないから。あと、深呼吸を忘れないこと」

「ああ。ありがとう、ミウ」


「じゃあね!」


 視界が真っ白な光に包まれる。

 急激な浮遊感。耳の奥で、激しい潮騒の音が響いた。


「――っ! はぁ……はぁ……」


 激しく咳き込みながら、俺は目を見開いた。

 白い天井。規則的な機械音。鼻をつく消毒液の匂い。そこは、病院のベッドの上だった。

「気がついた!? 先生! 患者さんが意識を取り戻しました!」

 誰かの叫び声が聞こえる。体が重い。点滴の針が痛い。喉が焼けるように乾いている。でも、俺の肺は、確かに現実の空気を力強く吸い込んでいた。

 俺は震える手を持ち上げ、窓の外を見た。そこには、梅雨の晴れ間の、抜けるような青空が広がっていた。

 ――あ。

 その青さの中に、一瞬だけ、悪戯っぽく笑う少女の幻影を見た気がした。

 俺はゆっくりと、深く、深く、深呼吸をした。

 もう、溺れることはない。


 アスファルトの下に眠る潮騒を思い出しながら、俺は新しい一日を始めるために、ゆっくりと体を起こした。


(了)

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深層海都 辛口カレー社長 @karakuchikarei-shachou

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