殻の向こう側

夜凪

殻の向う側

冷蔵庫を開けるたび、私は必ず一番奥を見てしまう。

それはもう癖のようなもので、牛乳や野菜を取るより先に、視線だけがそこへ吸い寄せられる。

透明なプラスチックのパック。

十個入りの卵の中で、なぜか最後まで残り続ける一つ。

白く、均一で、少しだけ殻が厚そうな卵。

朝食に目玉焼きを作る日も、

疲れて夕飯を簡単に済ませたい日も、

手は自然と別の卵を選び、その卵だけを残してきた。

理由は分からない。

ただ、「今日は使わない方がいい」と、どこかで思ってしまう。

それは、祖母の家から持ち帰った卵だった。

祖母は、町外れで小さな養鶏場を営んでいた。

商売というより、生活に近い。

鶏舎の掃除をし、卵を集め、名前を呼び、話しかける。

鶏たちは、まるで家族のように扱われていた。

子どもの頃、夏休みに祖母の家へ行くと、私は卵拾いを手伝わされた。

まだ温かい卵を籠に入れるときの、あの感触。

命と食べ物の境界に、初めて触れた気がした。

「卵はね」

祖母は、籠を抱えながらよく言っていた。

「まだ何者にもなっていないんだよ。

食べ物にもなれるし、命にもなれる。

割られるまでは、どれでもない」

その言葉の意味を、当時の私は理解していなかった。

卵は卵で、食べるものだと思っていた。

祖母が亡くなったのは、数年前の冬だった。

葬儀を終え、誰も住まなくなった家を片付ける最後の日。

電気を止める直前、冷蔵庫の中に卵が残っているのを見つけた。

もう使えないだろうと思いながら、

なぜか、その中の一つだけを鞄に入れて持ち帰った。

それが、この卵だった。

賞味期限は記載されていなかった。

パックが古く、印字が消えてしまったのかもしれない。

それでも、腐った匂いはしない。

割れもヒビもなく、ただ静かにそこにある。

忙しい日々の中で、私は卵の存在を忘れかけていた。

仕事は忙しく、やりたいことは後回しで、

「今は無理だ」という言葉を、何度も自分に言い聞かせていた。

それでも、冷蔵庫を開けるたび、

奥にあるその卵と、必ず目が合った。

まるで、

「まだだよ」

と、言われているような気がして。

ある夜、残業続きで心身ともに限界を迎えた日。

帰宅しても何もする気が起きず、

私は冷蔵庫の前に立ったまま、しばらく動けずにいた。

気づけば、卵を手に取っていた。

「……今日こそ、使おう」

そう呟きながらも、声には迷いが混じっていた。

ボウルを出し、台所に立つ。

殻は、いつもより少し重く感じた。

冷えているはずなのに、指先に、微かな温もりが残る。

コン、と軽く台に当てた瞬間だった。

――コツン。

確かに、内側から応える音がした。

「……え?」

気のせいだと思い、もう一度、少し強めに当てる。

――コツン。

今度は間違いなかった。

卵は、内側からノックしている。

鼓動のような振動が、はっきりと指先に伝わる。

冷蔵庫のモーター音も、外の車の音も、遠くに感じた。

祖母の言葉が、鮮明に蘇る。

「割られるまでは、どれでもない」

私は、手を止めた。

このまま割れば、卵は料理になる。

数分後には、栄養になり、空腹を満たし、忘れ去られる。

けれど、割らなければ。

この卵は、まだ可能性のままでいられる。

私は卵を皿に戻し、

割るのをやめた。

それから数日間、私は卵を見守った。

冷蔵庫から出し、室温に置き、

夜にはそっと布をかけた。

誰にも話せない、奇妙な行為。

それでも、不思議と心は落ち着いていた。

三日目の朝、殻に細い亀裂が入っているのを見つけた。

夕方には、その亀裂は確かに広がっていた。

夜、部屋を暗くして見つめていると、

殻の内側から、淡い光が漏れ出した。

そして、静かな音とともに、殻が割れた。

中から出てきたのは、ひよこではなかった。

小さく、光のような存在。

形は定まらず、揺らぎながら、そこに浮かんでいる。

言葉は発さない。

けれど、はっきりと伝わってきた。

――これから、何になる?

私は答えられなかった。

自分自身が、その問いから逃げ続けていたから。

「……まだ、決めてない」

正直に、そう答えた。

光は、ゆっくりと揺れた。

否定も肯定もせず、ただ受け入れるように。

次の瞬間、

光はふっと消え、

そこには、割れた殻だけが残っていた。

空っぽの殻。

私はそれを捨てず、棚の上に置いた。

殻は脆く、少し触れただけで欠けてしまう。

けれど、確かに何かがそこにあった。

そして、それは終わりではなく、始まりだった。

翌日から、私は少しずつ行動を変えた。

大きな決断ではない。

遠回りして帰る。

やりたかったことを、十分だけやってみる。

「無理だ」と決める前に、一度だけ考えてみる。

殻を割るのは、怖い。

でも、割らなければ、中身は外へ出られない。

冷蔵庫の奥に、もう卵はない。

その代わり、棚の上に、空っぽの殻がある。

それは、今も静かに問いかけている。

――次は、あなたが殻を破る番だよ。

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殻の向こう側 夜凪 @menma07

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