第5話 会社より危険な場所

朝七時。

目覚ましが鳴る前に、遠藤は目を覚ましていた。


「……あれ?」


身体が、軽い。


昨日あれだけ走って、転んで、死にかけたというのに。

筋肉痛はある。疲労もある。

だが、動けないほどじゃない。


――いつもなら、もっと死んでる時間帯やぞ。


ベッドから起き上がり、シャワーを浴びる。

熱い湯が肩に当たっても、思ったほど痛くない。


【社畜適応:発動中】


脳裏に、あの文字が浮かぶ。


「……仕事前から発動すなや」


苦笑しつつ、スーツに袖を通す。


---


会社に着くと、いつも通りの空気が待っていた。


「遠藤くん、昨日どうしたの?」


同僚の視線。

心配より、探る色が濃い。


「ちょっと、私用で」


「ふーん……」


それ以上は聞かれない。

聞かれないが、見られている。


席に着くや否や、上司が近づいてきた。


「昨日の件だけどさ」


来た。


「チームに迷惑かけた自覚、ある?」


「……申し訳ありません」


反射的に頭を下げそうになり、寸前で止めた。


――あかん。癖や。


「まあいいや。

 その分、今日は頑張ってもらうから」


いつも通りの理屈。

帳尻合わせという名の、追加残業。


だが。


――なんやろ。


胸の奥が、ざわついた。


前なら、ここで胃が縮んでいた。

今日は、違う。


「……了解しました」


声は、落ち着いていた。


上司は満足そうに去っていく。


――会社の方が、よっぽどモンスターちゃうか。


そんな考えが、頭をよぎる。


---


昼休み。

スマホを開き、探索者アプリを見る。


【初心者ダンジョン:再入場可能】

【推奨:複数人】


「……ソロ、あかんのか」


だが、昨日のことを思い出す。


誰かを助ける余裕はなかった。

助けてもらう保証も、なかった。


――会社と一緒や。


チーム言うて、責任だけ押し付けられる。


「……一人で行こ」


小さく呟き、申請を出す。


---


その日の夜。


また、地下。


昨日よりも、足が前に出る。


怖い。

それは、間違いない。


だが、恐怖で固まることはなかった。


「……あっち、危ないな」


通路の先、気配が濃い。

自然と、別ルートを選ぶ。


戦わない。

無理しない。


会社で生き残るために覚えた、

最重要スキルだ。


ゴブリンを一体、遠くからやり過ごす。

別の探索者が戦っている音が聞こえる。


――巻き込まれんようにしよ。


冷たい判断。

だが、正しい。


その時、背後から怒鳴り声。


「おい! ちょっと手貸せよ!」


若い男の声。

焦りと苛立ち。


振り返ると、探索者二人がゴブリンに追われていた。


――また、これか。


会社で何度もあった光景。


「今忙しいから」

「ちょっと代わりにやっといて」


断れば、悪者。

引き受ければ、責任だけ背負う。


遠藤の中で、何かが――

じわりと熱を持つ。


――なんでや。


なんで、いつも俺なんや。


足が、止まった。


ゴブリンが迫る。

若い探索者が転ぶ。


その瞬間。


胸の奥の熱が、はっきりとした。


【感情変換:条件達成】


【怒り】


「……ふざけんな」


遠藤は、落ちていた鉄パイプを拾った。


頭が、妙に冷えている。


逃げる?

今なら、逃げられる。


でも。


――逃げたら、また一緒や。


「一回だけやぞ」


自分に言い聞かせるように呟き、前に出た。


ゴブリンの注意が、こちらに向く。


心臓は速い。

怖い。


それでも、足は止まらない。


――会社より、危険や。


――でも、会社より、正直や。


ここでは、

戦えば、結果が出る。


遠藤は、鉄パイプを強く握り締めた。


---


遠藤紘一は、まだ気づいていない。


この瞬間に芽生えた感情が、

後に彼を――

探索者として覚醒させる引き金になることを。

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