第12話|聖騎士団、正義の名の暴力

第12話|聖騎士団、正義の名の暴力

 石畳に落ちた水が、冬の朝の冷気で白く曇っていた。  踏みしめるたび、薄く張った氷が「ぱり」と微かな音を立てて砕け、靴底から刺すような冷えが這い上がってくる。


「異端調査だ! 全員、その場から動くな!」


 静寂を切り裂く怒号。甲冑が激しくぶつかり合う、耳障りな金属音。教会の紋章――燃える太陽を刻んだ白いマントが、寒風に翻るたびにパサパサと乾いた音を立てる。


 そこは、活気にあふれるはずの朝の市場だった。  無惨に蹴り飛ばされた野菜の籠から、土のついた根菜が石畳を転がっていく。鼻を突くのは、割れた瓶から漏れ出した酸っぱい酢の匂いと、踏みにじられたパンの白い粉の香り。そして何より、立ち込めるのは、逃げ場を失った人々が発する「恐怖」の匂いだ。


「わ、私たちは何も……不審なことなど!」 「祈りは毎日欠かさず……! お許しを!」


 震える声が裏返り、冷たい空気に溶けていく。だが、聖騎士団は言葉を返さない。答えの代わりに、抜き放たれた剣の柄が、無抵抗な男の鳩尾をえぐった。


 ――鈍い、肉の潰れる音。  空気が肺から一気に絞り出される、獣のような喘ぎ。  硬い石畳に膝をつく音が、やけに重く響いた。


「やめてください!」


 女の声が裂けるように響いた。小さな子どもを抱き込み、自分の背中を盾にして地面にひれ伏している。その頭上、聖騎士の重いブーツが、容赦なく振り上げられた。


 その瞬間、凍りついた市場の空気が、ふわりと揺れた。


「――そこまでです」


 低く、どこまでも澄んだ声。怒鳴っているわけではない。なのに、騒乱の真っ只中で、その一言だけが水の紋章のように広がっていく。


 シルヴィアは、群衆の前に立っていた。  白い内着に濃紺の外衣。その姿は、冬の夜明けの月のように静かだ。剣も、杖も、魔法の予兆すら見せない。ただ、自然体でそこに立っている。


 聖騎士団の隊長が、ゆっくりと首を巡らせた。深いバイザーの奥、冷えた鋼のような瞳がシルヴィアを射抜く。


「下がれ、娘。これは神の御業だ。汚れた芽を摘み取る、神聖な義務である」


「神の御業が、泣き叫ぶ子どもを殴るのですか」


 一瞬、周囲にざわめきが走った。隊長の口元が、バイザーの隙間から不快げに歪むのが見えた。


「異端は、芽のうちに摘む。それが民への慈悲だ」


「……慈悲、ですか」


 シルヴィアは視線を落とす。足元で倒れている老人の、節くれだった手。泥に汚れ、寒さと痛みで激しく震えている。吐き出される息には、鉄の匂い――血の味が混じっていた。


「それは、誰のための慈悲ですか。……少なくとも、いま傷ついている人たちのものではない」


 返事は、言葉ではなかった。隊長が無言で顎をしゃくる。一人の聖騎士が、重厚な甲冑を鳴らしながら一歩前に出た。


「排除せよ。神の道を妨げる者は、すべて等しく罪人なり」


 号令。白いマントの波が、一斉に押し寄せる。


「下がって!」


 シルヴィアが背後へ叫ぶ。群衆が潮が引くように後ずさる。転びそうになった少年の肩を、彼女は柔らかな、けれど鋼のように揺るぎない手で支え、自分の背後へと逃がした。


 ――来る。


 先陣を切った騎士が、無骨な長剣を振り上げた。光を反射する白銀の刃。それが頂点に達し、振り下ろされる直前の「一瞬」。シルヴィアは避けるのではなく、自らその懐へと滑り込んだ。


 最短距離。無駄のない踏み込み。彼女の肘が、鎧の合わせ目――脇の下のわずかな隙間へと吸い込まれる。


 ボッ、という、空気が破裂したような深い音。


 刃は落ちなかった。大柄な聖騎士の身体が、苦鳴を上げる暇すらなく、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。


「なっ……!」


 後続の騎士たちが驚愕に目を見開く。剣は通っていない。血も流れていない。ただ、寸分の狂いもなく急所を突かれた神経が、身体の自由を奪ったのだ。


 次。巨大なカイトシールドを構えた騎士が、肉壁となって突進してくる。  シルヴィアは一歩も引かない。むしろ、吸い込まれるように盾の正面へと手を伸ばした。握りしめた拳ではない。掌の付け根――「底掌」を、盾の表面にそっと当てる。


 刹那、ドン、と腹の奥まで響く衝撃波が突き抜けた。盾越しに伝えられた振動が、騎士の胸板を揺さぶる。呼吸が完全に止まった男が、白目を剥いてその場に膝をついた。


「殺せ! 魔女だ、魔法を使っている! 殺せ!」


 誰かが絶叫した。群衆ではない。聖騎士団の一員だ。未知の力に対する、剥き出しの恐怖が叫ばせている。


「……殺しません」


 シルヴィアの声は、驚くほど平坦だった。息ひとつ乱れていない。丹田――腹の底が、波ひとつない湖面のように静かに動いている。


 背後から、風を切る鋭い音が迫る。彼女は振り向くことすらしない。流れるような円の動きで半身をかわすと、通り過ぎようとする騎士の足首を、自らの足を鎌のように使って引っ掛けた。


 重心が浮く。数百キロ近い甲冑と肉体の重量が、重力に従って地面へと叩きつけられる。ゴシャッ、という鈍い音が響き、石畳がかすかに震えた。


「なぜだ!」隊長が、もはや悲鳴に近い声を上げて吠える。「なぜ、殺さぬ!」


「それが、私の護身だからです」


「護身だと? 神の敵を、正義の執行人を前にして!」


「敵、ですか」


 彼女は、足元で呻く聖騎士を見下ろした。苦しそうに胸を押さえ、必死に酸素を探している男。


「この人は、誰かの命令に従っただけ。……あなたと同じ、ただの人間です」


 隊長の剣が、震えた。


「神の名を……軽々しく口にするな!」


「神の名を使って、自分の内の暴力を正当化しないでください」


 一歩。また一歩。シルヴィアが歩みを進めるたび、白銀の精鋭たちが、無意識に後退していく。


「神の名の下なら、何をしても、誰を傷つけても許される。……それは、信仰ではありません。ただの、卑怯な暴力です」


 沈黙が市場を支配した。冷たい風が、白いマントの裾を虚しく揺らす。


「……退け」


 隊長が、奥歯を噛み締めすぎて血の混じった声で命じる。聖騎士団が、屈辱に震えながら道を開けた。誰も剣を振るおうとはしない。振れば、自分の「正義」が木っ端微塵に砕かれることを、本能が察知していた。


 シルヴィアは、倒れた騎士たちの間を縫うように歩き、一人一人の様子を確認していく。脈を測り、呼吸を見る。よし、全員、生きている。


 彼女は最後に、呆然と立ち尽くす群衆へ向き直った。


「もう、終わりです。皆さん、怪我をした人を手伝って、家に帰ってください」


 人々は、弾かれたように動き出した。安堵の溜息。市場に、少しずつ日常の匂いが戻り始める。だが、歩き出したシルヴィアの背中は、ひどく重そうに見えた。


 誰も殺していない。望み通り、拳は握らなかった。それでも、他者の悪意に触れ、それを力でねじ伏せるたび、彼女の心は薄氷のように削り取られていく。


「……これが、正義か」


 誰かの小さな呟きが、冬の風に混じって消えた。シルヴィアは答えなかった。ただ、掌を開いたまま、薄暗い路地の先へと歩みを進める。握れば、簡単だ。でも、彼女は決して握らない。それが、彼女の戦いだった。


 その夜。


 教会の鐘が、いつもより長く、重く鳴り響いた。  誰もが祈りの時間だと思った。


 ――だが、シルヴィアだけは知っていた。  これは、次の“正義”が動き出した音だということを。


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