第11話|英雄の帰還、檻の招待状
第11話|英雄の帰還、檻の招待状
冬の陽光は、暖かさを忘れたかのように白かった。
ギルド二階の執務室を、ただ冷ややかに照らしている。
机の上に並んだ三つの封蝋。王家の金、教会の白、学院の深い藍。
それらはまるで、シルヴィアを狙い澄ます三つの「目」だった。
部屋には、古い羊皮紙が放つ甘い脂の匂い。
吸い取り紙に染み込んだインクの、鉄臭い香り。
薪ストーブの中で爆ぜた薪が「ぱちり」と硬い音を立て、沈黙に小さな割れ目を作った。
「……同時、ってのが気持ち悪いですね」
マリアが言い、指先で金色の封蝋を弾く。
金属製の留め具が、ちいさく、鋭く鳴った。
「狙ってます。完全に」
「狙い、ですか」
シルヴィアの唇の端に、紙一枚ほどの薄い線が刻まれた。
微笑みではない。戦場に立つ直前の武人が見せる、極限の集中。
彼女はゆっくり息を吐く。胸ではなく、腹の底から空気を押し出す。
前世で幾度となく繰り返した、演武前の「調息」だった。
封蝋を割る。指先に伝わる蝋の感触は、思いのほか柔らかく、粘りつく。
まず王国の手紙。
鼻の奥を刺すのは、これ見よがしに焚き染められた薔薇と樹脂の香。
上等すぎて、かえって喉の奥がむかつく。
『王都へ至急参集されたし。
王国はそなたの力を正式に評価し、相応の地位を用意する。
以後、治安維持に協力せよ。』
「命令文、ですね」
余白の多さは、書き手の傲慢さそのものだ。
――「拒否」という概念すらない世界から届いた、一方的な通告。
次に教会の白。
紙は石のように硬く、清冽な祈祷の香油が染み込んでいる。
『神より与えられし力は、神の秩序に捧げられるべきである。
汝、王都大聖堂にて証明を受けよ。
異端の疑いを晴らす機会を与える。』
「機会?」
マリアが吐き捨てるように言った。
「……脅しの間違いでしょうに」
最後に学院の藍。理性を象徴する色。
だが行間から、学究徒の歪んだ情熱が生々しい熱を帯びて立ち上がる。
『君の戦闘は“理”に基づく新体系だ。研究協力を要請する。
拒否する場合、危険性評価に基づき、君を“管理対象”とする。』
「管理対象って……なにそれ」
マリアの眉が吊り上がる。
「人を変な魔道具みたいに」
苛立たしげに舌打ちし、ブーツの踵で床を小突く。
その小さな振動が、机の上の封蝋の粉を揺らした。
シルヴィアは三通の紙を揃え、丁寧に重ねる。
指先に残った封蝋の粉が、赤い砂のようにハラハラと落ちた。
呼吸は乱れない。
だが、胃の奥が、氷を飲み込んだ時のようにひやりとする。
――“殺さない”という選択は、称賛の裏でいつも誤解される。
優しさだ。甘さだ。
あるいは、底の見えない不気味な恐怖だ、と。
「招待、という名の檻ですね」
「……行くんですか?」
マリアの声が、低く沈んだ。
いつもの受付嬢としての明るさが消え、剥き出しの現実だけが残っている。
窓の外、通りを駆けていく子どもたちの笑い声が、遠い異世界の出来事みたいに聞こえた。
シルヴィアは静かに立ち上がる。
古い床板が「きしり」と悲鳴を上げた。
ただ立っただけ。
なのに部屋の空気が一変する。
場の気配がピンと張り詰め、温度が一段階下がったような錯覚。
「行きます」
彼女は言い切った。
「檻がどんな形をしているか、確かめないと。……鍵がどこにあるかも」
マリアが息を呑む音が、密室に大きく響いた。
「……シルヴィアさん。怖くないんですか」
「怖いですよ」
シルヴィアは、不思議そうに首を傾げた。
「人間の“正しさ”というものが、この世で一番怖い」
冗談でも、自分を卑下する言葉でもない。
前世で何度も見てきた、正義の面を被った暴力。
善意の仮面を被った支配。
だからこそ――自分には「理」が必要だった。
*
翌日。
王都の応接室は、過剰なまでの装飾に彩られていた。
高い天井の金縁が眩い光を跳ね返し、分厚い絨毯が音もなく靴底を沈める。
活けられた花々はむせ返るほど香り、喉の奥に甘い毒みたいに絡みついた。
シルヴィアは用意されたドレスを拒み、いつもの旅装で現れた。
道着に近い白い内着に、濃紺の外衣。装飾はひとつもない。
それでも、背筋の通り方だけで分かる。
――この人は、倒すためではなく、崩れないために立っている。
案内する兵士の視線が、あからさまに彼女の全身を走る。
剣はない。杖もない。
なのに、王都の誰よりも危険だと、身体が先に理解してしまう。
兵士の喉が緊張でこわばった。
「お入りなさい。英雄殿」
絹のように滑らかな声。
扉の向こうに、三つの影が揃っていた。
王国の宰相代理。教会の司教。学院の学長補佐。
「さあ、楽に。君の功績は王国の宝だ」
「神は慈悲深い。正しく捧げるなら疑いは霧散する」
「研究協力の同意書です。未知の技術は共有されるべきだ」
シルヴィアは椅子に座らなかった。
高級な香水、蜜蝋、磨き上げられた古木――人工的な匂いばかりで、土の匂いがどこにもない。
ここは戦場ではない。
言葉と法という名の、粘りつく処刑場だ。
「単刀直入に言おう。君には“所属”が必要だ」
「信仰なき力は、必ず災いとなる」
「拒むなら監視体制を敷く。君の自由は制限される」
見えない鎖が首筋に触れた気がした。
笑顔の形をした首輪が、すぐそこまで迫っている。
シルヴィアの胸の奥に、静かな火が点る。
怒りではない。恐怖でもない。
――確信だ。ここで一歩引けば、いつか命令で拳を振るわされる。
彼女は、ゆっくりと一礼した。
完璧なまでの令嬢の礼。
その品位が高潔であるほど、次の言葉は刃のように響く。
「ご厚意、痛み入ります。――ですが」
目を上げる。
「私は誰の武器にもなりません」
宰相代理の笑みが固まった。
「武器? 誤解だ。我々は君を守ろうとしている」
「守る、とは。檻に入れて、監視することですか」
「言葉を慎みなさい!」
司教が震える指で彼女を指す。
「神の前で不遜な!」
「神の前でも、人の前でも」
シルヴィアの声は穏やかだった。
「私の答えは変わりません」
そして、少しだけ首を傾げる。
「私は“不殺”を誓っています。
それが、あなた方にとって何より都合が悪いのでしょう?」
学長補佐が絶句したように目を見開く。
「不殺など理想論だ。現実は血と鉄で――」
「現実を、血と鉄で作っているのは、あなた方の制度です」
シルヴィアが同意書を、指先で軽く叩いた。
「トン」と鳴った音が、耳元で鳴らされたみたいに大きい。
「この紙は、“私”を扱いやすくするためのもの。
命令ひとつで、誰かを壊しに行ける“便利な拳”を作る契約書」
宰相代理の目が蛇のように細まった。
「……君は反逆を口にしているのか」
その一言が、抜刀よりも早く部屋を切り裂いた。
扉の外の気配が濃くなる。金属が擦れる微かな音。
殺気が、湿り気を帯びた匂いになって立ち込める。
シルヴィアは、微笑んだ。
「反逆ではありません。護身です」
「ならば証明しろ! その力が秩序を壊さぬと!」
「証明なら、とっくに済んでいます」
シルヴィアは、ゆっくり両手を前に出す。掌は開いている。
攻撃の形ではない。
――それでも三人が、椅子ごと僅かに身じろぎした。
「私は誰も殺していません。
魔神のときも。暗殺者のときも。大会のときも。
……それが、あなた方の望む“秩序”ではないのですか」
沈黙。
豪奢な応接室が、巨大な冷たい檻のように静まり返る。
「……君は、何を望む」
宰相代理が絞り出すように問うた。
シルヴィアは深く息を吸う。花の匂いが肺を汚し、少し苦い。
それでも声は澄んでいた。
「私が望むのは、ひとつ」
「私の拳を、誰かの命令のために使わせないこと。それだけです」
沈黙が、重い幕のように降りた。
シルヴィアはもう一度、完璧な礼をした。
拒絶でも服従でもない。武人としての礼。
そして、背を向け、出口に向かって歩き出す。
扉の前で、若い兵士が無意識に道を塞ごうとした。
指が剣の柄にかかる。
シルヴィアは足を止め、兵士をまっすぐ見た。
冷や汗の匂い。錆びた鉄の匂い。若い恐怖の匂い。
「……通して」
その声は、春の陽だまりみたいに優しかった。
だからこそ、抗えない。
兵士は弾かれたように道を開けた。
扉が閉まる。
廊下の冷たい空気が、シルヴィアの頬を撫でた。
「……私は、誰の武器にもならない」
胸の奥に言葉を刻み、歩き出そうとした――そのとき。
石造りの廊下に、不規則な足音が響いた。
マリアが青い顔で小走りに追いついてくる。肩が激しく上下し、吐く息が真っ白に固まっている。
「シルヴィアさん! ギルドから……緊急の伝言が!」
「マリア? どうしたのです、そんなに慌てて」
シルヴィアの歩みが止まる。
「……ルークが、連れて行かれました」
一瞬、世界から音が消えた。
薪の匂いも、花の匂いも、さっきまでの殺気も、すべてが遠ざかる。
「どこへ」
「“学院の保護”だそうです」
マリアは唇を噛んだ。
「あなたの教え子が未知の技術を継承している可能性があるから、安全のために隔離・調査すると……」
言葉を吐くたび、悔しさが混じる。
「……保護って言い方が、もう、嫌ですよね」
シルヴィアの指先が空中で止まった。
握らない。握れない。
不殺を誓った拳。
けれど震えは、静かに、確実に、怒りの輪郭へ変わっていく。
「……私の弟子に、手を出したのね。彼らは」
「シルヴィアさん……」
「行きます」
シルヴィアは、静かに言った。
「マリア、案内を」
「行くって……どこへ? 相手は学院の警備魔導師たちですよ」
マリアが声を絞る。
「今度は、なにをするんですか」
シルヴィアは、凍てつく冬の空気をゆっくり吸った。
腹の底に落として、言う。
「“護身”をします」
その声は、あまりに優しく、慈愛に満ちていた。
だからこそマリアは、生まれて初めて、シルヴィアの背中に――言いようのない寒気を感じた。
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