『婚約破棄ですか? 結構です。――元少林寺師範、拳一つで異世界(ギルド)をのし上がる』
春秋花壇
第1話 断罪の夜、演武は始まる
第1話 断罪の夜、演武は始まる
王城の舞踏会場は、甘ったるい百合の香水と、燃え尽きかけの燭台が放つ煤の匂いで満ちていた。高い天井に反響する貴族たちの囁き声は、まるで獲物を囲むハイエナの鳴き声のように、シルヴィア・フォン・アステリアの鼓膜をちりちりと刺激する。
「――シルヴィア・フォン・アステリア。君との婚約は、今この時をもって破棄する!」
カイル皇太子の声が、シャンデリアを震わせた。 彼の隣には、今にも泣き出しそうな表情で彼の腕にすがりつく男爵令嬢。 シルヴィアは、ただ静かに立っていた。
(……ああ、ようやくこの日が来たか)
胸の奥で、前世の記憶が鮮やかに疼く。 かつて日本という国で、道着の擦れる音と、突き抜けるような気合の中で生きていた記憶。 少林寺拳法六段、師範。数多の門下生を導いたその拳は、今、この華奢な少女の体内に静かに眠っている。
「何か言い残すことはあるか? 嫉妬に狂い、彼女を害そうとした罪、万死に値するぞ!」
シルヴィアは、ふっと口角を上げた。それは嘲笑ではなく、重荷を下ろした者の清々しい微笑だった。
「……承知いたしましたわ、殿下。私のような『魔力なき無能』は、高貴な貴族社会には相応しくございませんもの」
彼女は深く、優雅に一礼した。だが、頭を上げた時の瞳は、もはや令嬢のそれではない。鋭く、冷たく、練り上げられた武人の「眼光」だった。
「ですが、一つだけ訂正させていただけます? 嫉妬などという感情、私には贅沢すぎますわ」
その瞬間、シルヴィアの指先が、自身のドレスの胸元に掛かった。 ブツン、と真珠の留め具が弾け飛ぶ音。 シルヴィアが肩をすくめると、重厚な絹のドレスが、生き物のように彼女の足元へ滑り落ちた。
会場が凍りつく。 現れたのは、漆黒の伸縮性に富んだタイツ。そして腰回りを固めた、動きを一切妨げない簡素な装い。彼女がこの日のために夜な夜な自作し、ドレスの下に忍ばせていた「道着」だ。
「な、何を……! 衛兵、捕らえろ!」
カイルの声が上ずるより早く、六人の衛兵が一斉に動いた。 先頭の男が剣を振り下ろす。空気が裂ける音がした。
シルヴィアは引かない。逆に、死地へと踏み込む。 その刹那、ミシリ、と床の石材が鳴った。 わずか一歩。体重移動だけで、彼女の体は加速する。
「はぁッ!」
短い吐気とともに、左腕が内側から円を描いて跳ね上がった。
――内受突(うちうけづき)。
金属音ではない。肉と骨が噛み合うような鈍い音が響き、衛兵の剣先が虚空へと逸れた。体勢を崩した男の鳩尾に、シルヴィアの右拳が吸い込まれる。 ねじり込むような一撃。男は呼吸を忘れた魚のように口をパクつかせ、膝から崩れ落ちた。
「殺せ! 構わん、殺してしまえ!」
カイルの絶叫に、残りの五人が抜剣する。四方からの同時攻撃。 シルヴィアは凪いだ水面のように静かだった。
「来なさい。――理(ことわり)を教えて差し上げますわ」
右から迫る刃に対し、彼女は円の動きで懐に潜り込む。 ――上受(うわうけ)。 剣を跳ね上げると同時に、相手の腕を取り、その力を利用して背負うように投げ飛ばす。
背後から迫る二人。シルヴィアは振り返りもせず、軸足を固定したまま最小限の回転でその間を抜けた。すれ違いざま、二人の手首に彼女の手が触れる。
――龍華拳(りゅうかけん)、寄抜(よせぬき)。
一瞬、床の石が「ビシッ」と鳴った。 極められた関節の痛みに、男たちはまるで自分の意志で転がったかのように、床に叩きつけられた。
「ま、魔法か……!? 呪文も詠唱もなしに、なぜ!」
最後の一人が、恐怖に耐えかねて大上段から剣を振り回す。 シルヴィアは、スッとその懐、死角へと滑り込んだ。相手の顎の下に、そっと掌を添える。
「――力に頼るから、見えなくなるのです」
――首〆投(くびしめなげ)。 指先にわずかな力を込めるだけで、大男の巨体が木の葉のように舞い、床に沈んだ。
静寂。倒れ伏した六人の衛兵。 シルヴィアは、乱れた髪を指先で整えると、静かに呼吸を吐き出した。
「殿下。ご安心くださいませ。私が行ったのは、卑俗な暴力ではございません。――正しい理に基づく、護身ですわ」
誰も、動けなかった。 彼女は再び一礼し、ドレスを拾い上げることもなく、出口へと背を向けた。
「逃げる? いいえ、殿下。私は、自由になりに行くのです」
扉が開かれ、夜の冷たい風が彼女の頬を撫でた。 この夜、王城で初めて知れ渡った。 **「魔法より速く、剣より静かな力」**の存在が。
第1話 完
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