密室の一滴

不思議乃九

密室の一滴

第一部:虚妄の回廊


午後三時。冬の低い太陽が、世界の輪郭を剥き出しにする時刻。


高層ビルの最上階、社長室という名の密室の中で、時間は汚濁したまま凝固していた。

被害者は石田かずのぶ、五十八歳。

数分前まで帝国の主であったその肉体は、今はただ、高価なベルベットのソファを赤く汚す無機質な質量へと成り果てていた。後頭部への、一撃。


窓は内側から冷徹に施錠され、ドアは一度閉じれば外からの侵入を拒むオートロック。世界から切り離されたその部屋で、彼は孤独という名の死を賜っていた。

私は、静寂の残滓が漂う廊下で、三人の容疑者と対峙した。


第一の独白:秘書・温見綾

彼女は、あまりに透き通った瞳で私を見た。その声は、冬の湖に投げられた小石のように静かだった。

「午後二時三十分でした。私は社長室の重い扉を開け、いくつかの書類を届けました。石田様は、確かに生きておられました。ソファに深く腰掛け、タブレットの青白い光を網膜に焼き付けていらっしゃった。……私が部屋を辞した後、その聖域に足を踏入れた者は一人もおりません。私はずっと、廊下という境界線に立ち、何者も通さぬよう見張っておりましたから」


第二の独白:営業部長・西野雄介

男は、苛立ちを隠そうともせずに自らの腕時計に目を落とした。

「二時四十五分。私は焦っていた。その時刻、確かに私はその部屋の前にいたんだ。インターホンの金属音を何度響かせても、返ってくるのは死のような静寂だけだった。私は中に入ることを諦め、会議室へと踵を返した。……廊下? ええ、誰もいませんでしたよ。ただ、空虚な空気と、私の足音だけが響いていただけだ」


第三の独白:専務・西川修

老獪な笑みを浮かべ、男は震える指でネクタイを整えた。

「二時五十分。緊急の契約書、あの紙切れに彼の署名が必要だった。ドアを激しく叩いたが、返事はない。不意に、部屋の奥から『鈍い音』が聞こえた。何かが崩れ、倒れ、死にゆくような音だ。私は胸騒ぎを覚えながらも、その重厚な扉を開ける術を持たなかったのだ」


■読者への挑戦状


さて、親愛なる読者諸君。

幕は上がった。演者は出揃い、舞台装置(ギミック)はすべて提示された。


• 検視結果: 死亡推定時刻は「午後二時四十分から三時」の間。

• 現場状況: 窓は内締りの鍵が掛かった完全な密室。

• 凶器: 現場に転がされた二キロの大理石の文鎮。指紋は拭き取られている。


言葉とは、真実を運ぶ器であると同時に、偽りを隠すための埋葬布でもある。だが、どれほど巧みな嘘であっても、時間の歯車が刻む「矛盾」という一滴のインクは隠し通せない。


犯人は誰か。そして、その根拠となる矛盾はどこにあるのか。

論理という名のメスを手に、この歪な沈黙を切り裂いてみてほしい。


第二部:解決編


私は、彼らの言葉を反芻する。

この美しい不協和音の中で、一人だけ、楽譜を書き換えた者がいる。

犯人は、秘書・温見綾である。

彼女の語った「廊下で見張っていた」という献身的な嘘が、彼女自身の首を絞めることになった。


もし彼女の言葉が真実なら、十五分後に訪れた西野部長は、廊下で彼女と出会っていなければならない。だが、西野の網膜に彼女の姿は映っていなかった。廊下は、無人だったのだ。

そして、専務・西川が聞いた「物音」が、彼女の断罪を完成させた。


死の推定時刻は二時四十分以降。西川が部屋を訪れた二時五十分という時刻、石田社長は既に息絶えていたはずだ。死体が自ら音を立てることはない。


ならば、あの「何かが倒れる音」の正体は何か。

それは、密室という檻に閉じ込められた温見綾が、脱出する際に立てた焦燥の音である。

彼女は二時三十分に社長を撲殺し、窓を閉ざして密室を作り上げた。しかし、誤算が生じた。脱出する寸前、西川が廊下に現れたのだ。彼女はオートロックのドアの向こう側、死体の傍らで息を潜め、男の気配が遠ざかるのを待った。そして、彼が去った直後、逃げるように部屋を飛び出した。その際、彼女の身体か、あるいは凶器を拭った布かが、室内の調度品をなぎ倒した。


彼女は、自分が犯行後も現場付近にいたことを正当化するために「廊下で見張っていた」という嘘を吐いた。だが、その完璧なアリバイ工作こそが、彼女が「室内にいた」ことを証明する裏返しとなったのである。

完璧な密室という芸術は、時間の隙間に落ちた、あまりに人間らしい焦りによって瓦解した。


【了】

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