第1節-10章【相談】

息を呑んで、話そうとした瞬間だった。

ポケットの中で、スマホが短く震えた。


反射的に画面を見る。


ショートメール。


迷惑かけて、ごめんね。


それだけ。

絵文字も、続きもない。


彼女との連絡手段は、

ただの電話番号だけだった。

名前も知らないまま、

こうして文字だけが届く。


今すぐ返したほうがいい。

そう思ったのに、

指は動かなかった。


――後で返そう。


そうやって、

また一つ、先延ばしにしてしまう。


顔を上げると、

窓際の女の子が、こちらを見ていた。


さっきより、少し落ち着いたような表情。


「……なら、大丈夫そうね」


そう言って、

鞄を肩にかける。


「じゃ、またね」


帰ろうとする背中に、

思わず声が出た。


「……少しだけ、聞いてもらっていいか?」


自分でも驚くほど、

切羽詰まった声だった。


彼女は一度だけ立ち止まり、

振り返る。


少し考えるような間。


「……少しだけなら」


そう言って、

また窓際の席に腰を下ろした。


夕方の教室は静かで、

窓の外では、

雪がまだちらついている。


俺は、

数日の間にあった出来事を話した。


具体的には言わない。

名前も、場所も、

詳しい病名も。


ただ、

雪の中で出会ったこと。

無邪気に笑っていたこと。

具合が悪くなったこと。

家族に怒られたこと。


話し終えると、

少し喉が渇いていた。


窓際の子は、

しばらく黙っていた。


それから、

ぽつりと言う。


「……雪が、好き、か」


その言い方が、

妙に引っかかる。


「そう。

 なんか無邪気でさ。

 目が離せなかったけど、

 風邪引きそうで……」


そう言う俺に、

彼女は視線を外したまま続けた。


「その子、

 雪が見たいって言って外に出て、

 病気も重いんだったら……」


一拍、間が空く。


「……最後に見たかったのかもね」


言葉が、

頭に入ってこなかった。


「……は?」


思わず、間の抜けた声が出る。


「最後って、何?」


彼女は、

長い髪を指で梳きながら、

淡々と言った。


「最後は、最後よ」


あまりにも、

あっさりしていた。


「知らない親御さんが、

 そこまで説明するってことは……

 そういう可能性も、あるわよね」


そんな大袈裟な。

映画じゃあるまいし。


そう思ったはずなのに、

弱った彼女の姿が、

頭に浮かぶ。


街灯の下。

白すぎた顔。

震えていた声。


喉の奥が、

きゅっと詰まる。


「……まさか」


そんなこと、

あるのか?


考えれば考えるほど、

答えは出ないのに、

不安だけが増えていく。


窓際の女の子は、

俺の沈黙を見て、

少しだけ表情を緩めた。


でも、

その笑顔は、どこか寂しそうだった。


「まあ」


軽く、言う。


「名前も知らない子なんでしょ?」


その言葉に、

胸が少し痛む。


「だったら、

 あなたがそこまで気にしなくてもいい。

 それが、現実よ」


窓の外を見ながら、

続ける。


「この雪が降り止む頃には、

 私たちだって卒業」


静かな声だった。


「みんな、

 それぞれの場所に行くんだから」


教室の中に、

夕暮れの光が差し込む。


雪は、

まだ降っている。


彼女の言葉は、

正論だった。


逃げ道でもあった。


それでも――

俺は、

スマホの画面に残る一文を、

頭の中で何度もなぞっていた。


迷惑かけて、ごめんね。


名前も知らない。

先の約束もない。


それなのに、

このまま忘れてしまうことだけは、

どうしてもできそうになかった。


窓際の女の子は、

鞄を持って立ち上がる。


「じゃあ、本当にまたね」


今度こそ、

振り返らずに教室を出ていった。


一人になった教室で、

俺は、

まだ返信していない画面を見つめたまま、

動けずにいた。


雪は、

静かに降り続いていた。


まるで、

答えを出す猶予を、

奪わないように。

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