第1節-9章【憂鬱】
名前も知らない女の子、
その病気、外に自由には出れない、
そう淡々と告げられた事実だけが、
俺の中に残っていた。
名前くらい――
普通、知っているものじゃないのか。
俺の中での彼女は、雪が好きな少し天然で、
無邪気に笑う女の子だった。
それだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
いくら考え込んでも、朝はやってくる。
それは、驚くほど残酷だ。
時間が有限であることを表すようで
なんだか、腹立たしさすら感じる。
制服に袖を通し、コートを羽織る。
首元には、マフラー。
昨日まで、
何の意味も持たなかったはずのものが、
今日はやけに重い。
駅へ向かう。
いつもより少し早い時間。
一本早い電車では、
駅でよく声をかけてくるあの子はいなかった。
それだけで、
少しだけ、ほっとしてしまう自分がいる。
雪は、ずっとちらついていた。
積もるほどじゃない、
ただ、思考を途切れさせない程度に。
歩きながら、
昨日のことを思い出してしまう。
公園。
街灯。
白い息。
電話の向こうの声。
「事情も知らずに」
その言葉が、
何度も、頭の中で反響する。
学校に着く頃には、
雪は少し弱まっていた。
教室に入ると、
いつも通りの風景が広がっている。
それが、やけに現実的で、
居心地が悪かった。
席に着くと、
男友達が顔を覗き込んでくる。
「おい、大丈夫か?」
ぼーっとしていたらしい。
「ああ、大丈夫。
ちょっと、考え事してるだけ」
そう答えたけれど、
自分の声は、どこか遠かった。
授業が始まる。
ノートを開く。
黒板を見る。
でも、
何も頭に入ってこない。
辛そうだった彼女の顔。
電話越しに言われた言葉。
それらが、
何度も重なって、離れない。
昼休みも、
放課後も、
同じだった。
時間だけが過ぎていく。
放課後。
教室の人が、少しずつ減っていく。
帰る準備をしていると、
不意に声をかけられた。
「……悩み事?」
振り向くと、
窓際の席の女の子が立っていた。
長い髪が、
教室の光を反射している。
「いや、えっと……」
言葉を探して、
でも、うまく見つからない。
「自分が原因で……
でも、本当に知らなくて……」
自分でも、
何を言っているのか分からなかった。
彼女は、
少しだけ首を傾げる。
「話、よく分からないけど」
そう前置きしてから、
静かに続けた。
「聞こうか」
声は低くも高くもなく、
感情を乗せていない。
だからこそ、
逃げ場がなかった。
俺は、
一瞬だけ迷ってから、
小さく息を吐いた。
「……重い話かもしれない」
「大丈夫」
彼女は、
窓のほうを一度見てから言った。
「今、急いでないから」
その言葉に、
少しだけ、肩の力が抜ける。
名前も知らないまま、
踏み込んでしまった世界。
それを、
誰かに話していいのかどうか、
まだ分からない。
それでも。
このまま、
一人で抱え続けるには、
俺は、あまりにも普通だった。
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