第1節-5章【雪の精霊のようで】
雪は、予報どおり降り始めていた。
空から落ちてくる白い粒は、音もなく、街灯の光の中でゆっくりと形を変える。
公園の入り口で足を止める。
昨日よりも、少しだけ積もっている。
足跡は、まだ少ない。
「……いた」
ベンチの近く。
街灯の下で、彼女は空を見上げていた。
俺は、少しだけ迷ってから、声をかけた。
「……こんばんは」
彼女は一瞬、驚いたように振り返って、
すぐに目を丸くした。
「あ……!」
それから、ぱっと笑う。
「来てくれたんですね」
その言い方が、
まるで最初から分かっていたみたいで、
俺は少しだけ気恥ずかしくなった。
「雪、降ったから」
それだけ言うと、
彼女は嬉しそうに頷いた。
「ですよね。
きっと、来ると思ってました」
どうして、そんなふうに言えるんだろう。
理由を聞く前に、
彼女は雪の中に手を伸ばした。
手袋は、していない。
白い指先に、
雪の結晶が一瞬だけ留まって、
すぐに溶ける。
「やっぱり、きれい」
その声は、
吐く息みたいに軽かった。
「冷たいだろ」
「冷たいです」
即答だった。
「でも……嫌じゃないです」
そう言って、
また雪に触れる。
俺は、その仕草を見て、
なぜか胸がざわついた。
「無理、してないよな」
そう聞くと、
彼女は少し考えるように間を置いてから、
小さく笑った。
「大丈夫です。
今日は、元気な日なので」
元気な日。
その言葉が、
雪よりも静かに、胸に残った。
彼女は、
くるりと一回転してみせる。
「見てください。
足跡、いっぱい」
小さな円を描く足跡。
無邪気で、楽しそうで、
それなのに、どこか急いでいるみたいだった。
「……妖精みたいだな」
思わず言うと、
彼女は照れたように目を伏せた。
「冬の、ですか?」
「冬の」
そう答えると、
彼女は満足そうに笑った。
「じゃあ、今しかいないですね」
今しかいない。
その言葉を、
俺は聞かなかったことにした。
雪は、
さっきよりも少し強くなっている。
「ね」
彼女が、ふいに口を開いた。
「雪って、窓から見るのと、
外で見るの、全然違うんですよ」
「……そうだな」
「ずっと、窓の向こう側だったので」
その言葉に、
俺は反射的に聞き返してしまった。
「……病院?」
彼女は、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「長かったんです。
だから、外に出られる時間が
すごく、特別で」
それ以上、言わなかった。
でも、それで十分だった。
彼女が雪を大事そうに扱う理由が、
はっきりした気がしたから。
「今日は、少し冷えますね」
そう言いながら、
彼女はベンチに腰を下ろす。
その動きが、
ほんの少しだけ遅かった。
「……大丈夫か?」
「はい……ちょっと、くらっとしただけ」
そう言って笑おうとしたけれど、
その笑顔は、雪みたいに薄かった。
彼女の頬は、
さっきよりも白く見える。
「今日は、もう帰ろう」
俺がそう言うと、
彼女は素直に頷いた。
「……すみません」
「謝るな」
そう言いながら、
俺は一歩、近づく。
そのとき、
彼女が小さな声で言った。
「お願い、してもいいですか」
「なに?」
彼女は、スマホを取り出す。
「もし……また具合が悪くなったら、
ここに、電話してもらえますか?」
画面に表示されたのは、
登録されていない番号。
「家の人?」
「はい。
今日は、一人で来ちゃって」
一人で。
この雪の中を。
「……俺の番号も、入れておく?」
そう言うと、
彼女は驚いた顔をしてから、
少しだけ、安心したように笑った。
「お願いします」
名前を入力する画面で、
指が止まる。
「……名前」
「まだ、でしたね」
彼女は、
雪みたいに柔らかく笑った。
雪は、
変わらず降り続けている。
彼女は、
まだ元気そうに見えた。
それが、
どれだけ儚いものなのかを、
俺はまだ、知らないままでいた。
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