第1節-3章【教室、窓の向こう】
教室に入ったとき、
彼女はいつも通り、窓際の席に座っていた。
特別目立つわけじゃない。
騒ぐことも、誰かと固まることもない。
ただ、そこにいる。
窓の外には、昨日までの雪の名残が少しだけ残っていて、
校庭の端が、白く汚れていた。
「……雪、もうほとんど残ってないな」
独り言みたいに呟いたつもりだった。
「ですね」
返事が返ってきて、少し驚く。
彼女はノートから目を離さずに、続けた。
「でも、溶けるのは早かったですね。
今年は、気温が高いみたいです」
そう言われて、
俺は「そうなんだ」としか返せなかった。
気温が高いから溶けた。
当たり前のことなのに、
俺はそこまで考えていなかった。
「……詳しいな」
そう言うと、
彼女は少しだけ首を傾げた。
「普通ですよ。
ニュースでも言ってましたし」
普通。
その言葉が、少しだけ引っかかる。
俺はニュースなんて、
天気予報くらいしか見ていない。
チャイムが鳴って、授業が始まる。
数学の問題が黒板に書かれていく。
途中で、
どうしても分からない式が出てきた。
周りを見ると、
何人かはもうノートを進めている。
窓際を見ると、
彼女のペンは、迷いなく動いていた。
……早いな。
追いつこうとして、
途中で式を見失う。
結局、答えは出ないまま、
授業は先に進んでいった。
休み時間。
俺は、つい口を開いてしまった。
「……その問題、もう解けた?」
彼女は少し驚いた顔をしてから、
ノートをこちらに向ける。
「はい。
でも、途中までは同じですよ」
そう言って指さされた式を見て、
自分がどこで躓いたのか、やっと分かった。
「ああ……ここか」
「符号、逆になってます」
それだけ。
教え方は淡々としていて、
上からでも、優しくもない。
ただ、正確だった。
「頭いいな」
思わず、そう言ってしまった。
彼女は一瞬だけ考えてから、
小さく首を振った。
「得意なだけです。
全部ができるわけじゃないので」
その言葉も、
俺には少し遠く感じた。
得意なものが、
ちゃんとあるという事実。
俺には、それがない。
進路だって、
「なんとなく」で決めた。
大学に行く理由も、
はっきりしていない。
それに比べて、彼女は――
「進路、決まってるの?」
聞いてから、
少し踏み込みすぎたかと思った。
でも、彼女はあっさり答えた。
「はい。
雪の降らない地域の大学です」
「……遠くない?」
「遠いですね。
でも、その方がいいので」
理由は語られなかった。
それが、逆に納得できた。
彼女は、
最初から外を見ていた人だ。
この街にも、
この教室にも、
長く留まるつもりはない。
「すごいな」
そう言うと、
彼女は少しだけ、窓の外を見た。
「すごくはないです。
ただ、決めただけです」
決めただけ。
その言葉が、
胸に静かに刺さった。
俺は、決めていない。
流されて、
歩いてきただけだ。
窓の外を見る彼女と、
同じ方向を見ているはずなのに、
立っている場所が違う気がした。
――俺には、ついていけないな。
そう思った瞬間、
なぜか、少しだけ寂しくなった。
チャイムが鳴る。
彼女は何事もなかったように、
次の授業の準備を始める。
俺は席に戻りながら、
窓際を一度だけ振り返った。
雪は、もうほとんど残っていない。
それでも、
確かに降っていた時間があったことだけは、
忘れられずにいた。
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