【随筆】青い紫陽花と花椒の芽 ~着飾った黒いレースと、忘れられない家の味~
凛冬の夜警
第1話
七月。暑さが肌にへばりついて、拭っても落ちない。夕暮れの風も気だるげで、力なく街路樹を撫で、葉がしなしなと音を立てる。私はクローゼットの前に立ち尽くしていた。それはまるで、過去が詰まった沈黙の箱と対峙しているようだった。指先でワンピースを一枚、また一枚と弾く。すべて、母さんの手作りだ。
コットンの生地に、小さな雛菊やイチゴのプリント。麻の生地には、お行儀のよいリボン。そしてあのパフスリーブの一着には、今見ると死ぬほど子供っぽい白いレースがあしらわれている。色はどれも柔らかなピンク、水色、クリームイエロー。まるでマカロンの箱をひっくり返したような、甘ったるくて、そして時代遅れなラインナップ。どの一着も綺麗にアイロンがかけられ、「ぬるま湯で手洗い、陰干し」という母の手書きタグが付いている。
でも、私が明日会うのはワタル君だ。初めての正式なデート、隅田川の花火大会。私は想像していた。シンプルで洗練されたキャミソールワンピか、あるいは少しアンニュイな雰囲気のティードレスを着て、夏の夜風に吹かれながら歩く自分を。手首には華奢なブレスレットが光っているかもしれない。とにかく、田園童話から抜け出してきたような、このフワフワした「ママ・ブランド」ではないはずなのだ。
苛立ちが、浴室の鏡を曇らせる湯気のように鬱陶しく覆いかぶさる。私は少し乱暴にクローゼットの扉を閉めた。リビングでは、母が何やら縫い物をしていたが、音に気づいて老眼鏡を押し上げた。「ユウちゃん? どうしたの?」
「別に」 私は硬い声で三文字だけ吐き捨て、財布を掴んだ。「ちょっと出てくる」
「もうすぐ晩ご飯できるわよ」母の声が玄関まで追いかけてくる。 「いらない」
商店街のネオンは早々に灯り、薄暗くなり始めた空を俗っぽい色に染めていた。ブティックのショーウィンドウには、最新の夏服を着たマネキンが立っている。肩を出し、ウエストを絞り、スリットが入ったスカート。大人の女性の曲線をこれ以上なく完璧に描いていた。私の視線は、ある黒いワンピースに釘付けになった。ミニマルなカッティング、Vネックの縁には繊細で主張しすぎない黒いレース。まるで夜そのもので編んだ網のようだ。
狭い試着室には、安っぽい芳香剤と、無数の誰かが残していった曖昧な気配が漂っていた。その黒いドレスに着替えると、ひんやりとした布地が肌に吸い付いた。鏡の中の自分が、一瞬にして他人のように見える。下ろした長い髪、露わになった鎖骨。黒色が引き立て役となり、メイクももう少し濃くするべきだと主張しているようだった。これこそ私が求めていた「大人感」。少し不慣れで、意図的な誘惑を孕んだ姿。
けれど、鏡の中の自分を見つめていると、心のどこかで唐突に別の声が響いた。穏やかで、笑みを含んだ母の声だ。 『ユウちゃんはこの青色が一番似合うわね。この生地、あなたが生まれた年の夏に、庭に植えた最初の紫陽花で染めたのよ。花がとても綺麗に咲いたから、あなたに残しておきたくて……』
無意識に手が腰のあたりを撫でていた。そこには柔らかいコットンの感触はなく、滑らかで冷たい手触りがあるだけだ。黒いドレスは素敵だ。サイズもぴったりで、すぐにでも華やかな夏の夜に溶け込み、過去とは違うファッショナブルなシルエットになれるだろう。でも、ふと思った。鏡の中の私は、無理やり知らない植木鉢に植え替えられた植物のようだ。根っこはまだ丸まったままで、昔の土がついているのに。
店員さんが近づいてきて、甘い笑顔を向けた。「お客様、そのドレス本当にお似合いですよ。すごく雰囲気が素敵です。今夜はデートですか? それを着れば間違いなく主役になれますよ」
主役……私が欲しかったのは、それだろうか?
結局、私はその黒いドレスを買った。手提げ袋はずしりと重い。帰り道、コンビニの明るい光がガラス戸から溢れ出しているのを見て、魔が差したように中に入り、ごく普通のツナマヨおにぎりを買った。店の外のベンチに座り、包装を破ってかじりつく。ご飯は少し硬く、具の味はどこで食べても同じ、ありふれた味だった。
その時、脳裏に別の味が飛び込んできた。カリッと焼けた熱々の皮、中には爽やかな痺れと独特の香りを放つ若芽の餡、そしてほんの少しの豚肉の脂の甘み。母さんが作る「花椒の芽のお焼き」だ。祖母は中国人だったらしく、その秘伝のレシピを母さんが日本の食材に合わせて三十年かけて調整したものだ。春に摘んだ新鮮な花椒の若芽を特製のタレに漬け込み、少量のひき肉と混ぜ、湯練りした生地に包んで両面を黄金色に焼く。 子供の頃、春の遠足のお弁当には必ずそれが入っていた。友達はみんなお店で買った可愛いお菓子を持っているのに、私のお焼きだけ味が「変」で、他の家にはない異国情緒混じりの「家」の匂いが消えないと、よく文句を言ったものだ。
あの頃は人と違うことが恥ずかしかったのに、今は舌が勝手に唾液を分泌している。どうやらある種のものは、味蕾の記憶として深く根付いてしまっているらしい。唯一無二のものとして。
ドアを開けると、家の明かりは暖色だった。食卓にはフードカバーが置かれている。母が台所から顔を出した。手はまだ濡れている。「お帰り。ご飯食べた? お鍋にスープ残ってるわよ」 「食べた」私はコンビニの袋を振ってみせた。 母の視線が私の手にあるブティックの紙袋に落ち、一瞬止まったが、何も聞かずに微笑んだ。「そう。明日は新しいドレスで行くのね? いいじゃない」
夜、私は黒いドレスをハンガーに掛け、クローゼットの奥に手を伸ばして、あの紫陽花染めのワンピースを取り出した。布地は驚くほど柔らかく、色は雨上がりの空のような淡いブルー。そこに白い小さな斑点が散っていて、まるで不意に跳ねた水彩絵の具のようだ。顔を近づけると、微かにだが陽だまりと草木の清々しい香りがする気がした。気のせいかもしれないけれど。私はそれを黒いドレスの隣に掛けた。黒と青、二着が静かに対峙していた。
翌日の夕方、出かける前に私はやはり黒いドレスを選んだ。母は玄関で見送りながら、小さな弁当箱を手渡してきた。「持って行きなさい。夜にお腹が空いたら……ユウちゃんの好きなお焼きよ。今朝焼いたから、まだ温かいはず」 「いらないよ。ワタル君が何か買ってくれるって」 私は見慣れた青い花柄の弁当箱(これも祖母の遺品だ)を見て、少し気まずさを感じた。それが私の中にある、どこか「普通じゃない」部分を暴露してしまいそうで。 母の手は空中で止まったが、笑顔は変わらなかった。「そう……じゃあ、楽しんでらっしゃい。気をつけてね」
ワタル君は駅の改札で待っていた。清潔なシャツを着て、髪も丁寧にセットしている。私を見ると目が輝いた。「わあ、ユウちゃん。今日は雰囲気が違うね。すごく似合ってる」 「ありがとう」私はスカートの裾を少し引っ張った。褒められたことで、心の不安が少し薄れた気がした。
電車はイワシの缶詰のように混み合い、汗と香水と様々な食べ物の匂いが入り混じっていた。私たちは隅に追いやられ、ワタル君が懸命に腕で空間を作ってくれた。薄い布越しに彼の体温が伝わり、顔が熱くなる。これがデートというものだろうか? 心拍数は上がっているが、それ以上に不快感と疲れがあった。
花火大会の会場はさらに黒山の人だかりで、喧騒の波に溺れそうだった。人の波に押されながら、ようやく足場を確保する。空はまだ完全には暗くなっていない。火を点けられるのを待つ、深い藍色のビロードのようだ。
「はい、これ」ワタル君が屋台から戻ってきた。額に汗を浮かべ、真っ赤なりんご飴を差し出す。透き通った飴のコーティングが、明かりの下で魅力的な光沢を放っている。 私は受け取って礼を言った。硬い飴をかじると、過剰に甘ったるいシロップと少しボソボソしたリンゴの果肉が口の中で混ざり合った。やっぱり、記憶と同じだ。一瞬の刺激的な甘さ以外、後を引くような味わいはない。ベタベタした糖蜜が指につく。
周りの若いカップルたちは楽しそうに笑い合っている。女の子たちはみんな似たようなりんご飴を持ったり、チョコバナナや焼きそばを食べたりしている。賑やかさは彼らのものだ。私はふと、強烈な孤独と疎外感を感じた。この華やかな夏の夜、この騒がしい群衆、デートにふさわしい甘い小道具たち。それらが透明な膜となって、私を外側に隔てている。
胃の中は空っぽだった。甘いものに胸焼けしたのかもしれないし、別の何かが作用しているのかもしれない。舌は頑固に、別の味を追い求めていた――皮の焦げた香ばしさ、花椒の若芽が持つ複製不可能な爽やかさと鋭い痺れ、そして母さんが調合した、言葉にできないほどしっくりくる塩気と旨味。それはどこの商店街でも買えない味だ。私の家の台所だけに存在する、二世代を跨いだ秘密の味。
「どうしたの? 美味しくない?」ワタル君が心配そうに尋ねた。
私は首を横に振った。まだ半分以上残っているベタついたリンゴ飴を見つめながら、その言葉は思考のフィルターを通さず、自然と口をついて出た。自分でも気づかなかった渇望と、わずかな照れくささを伴って。
「これより……私、家の『
ワタル君がぽかんとした。 私も呆気にとられた。夜風が吹き抜け、遠くからたこ焼きのソースの匂いと、近くの喧騒を運んでくる。その言葉は宙に浮き、ロマンチックな旋律を奏でようとしていた楽譜の中で、押し間違えた音符のように響いた。
けれど直後に、奇妙な解放感が胸の奥から広がっていった。自分がいつの間にか背負っていた、「こうあるべき」という名前の荷物を下ろしたような感覚。商店街の甘いお菓子を喜び、流行りの黒いドレスを着こなす「大人」を演じる必要なんてない。この賑やかな夜に、私が一番恋しいのは、あの独特な味と家族の物語が詰まったお焼きなのだと、認めてもいいんだ。
自分があのように唯一無二の愛で愛されていると認めることにも、勇気が必要だったのだ。
ワタル君の驚いた顔は一瞬だけで、すぐにその表情は和らぎ、好奇心と理解を含んだ優しい笑顔になった。「カショウの芽のお焼き? 聞いたことないな。なんだか凄そうだけど、お母さんの特製料理?」
「うん」私は頷いた。頬が熱いのを感じたが、声は思ったより落ち着いていた。「まあ……うちの秘伝のレシピかな。中国の祖母から伝わったものを、母さんが改良したの」
その時、ヒュルル、と最初の一発が空へ駆け上がり、頭上で轟音と共に炸裂した。巨大な金の菊の花が夜空を照らし出し、ワタル君の澄んだ興味深げな瞳と、見上げる無数の人々の驚嘆と笑顔を映し出した。ドーン、ドーンと続く巨響、絶え間なく流れる色彩。圧倒的に華麗な光景。
美しい花火だ。派手で、激しくて、一瞬で消える。
けれど私は、甘すぎるりんご飴を握りしめ、耳をつんざく爆音と光の中に立ちながら、胃の空虚感が遠く鮮明な想いで満たされていくのを感じていた。今頃、家の食卓の電気はまだ点いているだろうか? 母さんはソファに座ってテレビを見ながら、私の帰りを待っているだろうか? 冷蔵庫にはきっと、母さんが漬けた花椒の若芽がガラス瓶の中で静かに眠り、時間と想いが溶け合った、穏やかで独特な香りを封じ込めているはずだ。
一番ドラマチックで激しい愛は、私が特別じゃないとか、あるいは少し「変」だとさえ思っていた日常の中に、とっくに隠されていたのだ。それは盛大なオープニングなんて必要としない。ただ花椒の香ばしさであり、紫陽花染めの布の手触りであり、玄関にいつも灯る明かりであり、繰り返される「行ってらっしゃい」と「お帰り」の循環であり、私のためだけに流れる、時間と文化が融合した秘密の贈り物なのだ。
花火が夜空に最後の巨大な、銀柳のような模様を描き出し、やがて細かな光の粒がため息のように降り注ぎ、消えた。夜空は再び深い藍色の静寂に戻り、硝煙の匂いが漂ってきた。
人の波が動き出し、喧騒は祭りの終わり特有の、少し疲れたざわめきに変わった。ワタル君が私の腕に触れた。「行こうか。人が多いから、ゆっくり出よう」彼は少し間を置いて、付け加えた。「そのお焼き……今度、僕にも食べさせてくれないかな? すごく気になってきた」
私は顔を上げ、夜色の中で誠実に見える彼の目を見て笑った。「いいよ。ちょっと変わった味でも引かないなら」 「引かないよ」彼も笑った。「特別なもののほうが、記憶に残るでしょ」
帰りの電車も同じように混んでいたけれど、私たちの間には何かが違っていた。沈黙はもう気まずいものではなく、心地よい静けさであり、そこには微かな期待すら混じっていた。窓ガラスに映る自分を見る。黒いドレスの輪郭、隣にはワタル君のぼやけた横顔。不思議なことに、「正しい」服を着ていることから生じていた不安は完全に消えていた。「我が家の味」に対する妙な恥じらいも、夜風に吹かれて消えてしまったようだ。
駅に着き、ホームでワタル君と別れ、また連絡すると約束した。私は一人、家路につく。街灯が私の影を伸ばしては縮める。ドアを開けると、暖かな光と、微かに漂う花椒と小麦粉が混ざった懐かしい香りがすぐに私を包み込んだ――母さんがまたお焼きを温めてくれたのだろう。
「ただいま」
母がリビングから出てきた。手にはテレビのリモコンを持っている。「お帰り。楽しかった? あら、そのりんご飴……全然食べてないじゃない」 「甘すぎた」私はベタベタする飴を差し出し、舌を出してみせた。 母は受け取って眺め、笑った。「若い子ってそういう派手なのが好きなんじゃないの? お腹空いたでしょ。スープはまだ温かいし、お焼きもあと二つ、オーブンに入れてあるわよ」 「お腹ペコペコ」私はスリッパに履き替え、ふと思いついて自分の部屋へ走った。
再び出てきた時、私はあの紫陽花染めの古いワンピースに着替えていた。柔らかなコットンが肌に馴染み、最高に心地いい。台所に行き、鍋から味噌汁をよそい、オーブンを開けてあの青い花柄の弁当箱を取り出した。
お焼きはまだ温かく、端っこはカリッとしたままだ。大きく一口かじる。皮の香ばしさ、花椒の若芽の清々しく鮮烈で、少し舌が痺れる独特の風味、そして母さん秘伝のタレの旨味が、一瞬で口の中に溢れ出す。この味は、外のどこを探しても見つからない。それは空っぽだった胃袋を優しく満たし、心の奥に残っていた夏の夜の燥熱と迷いさえも撫でて消してくれた。
母は食卓の向かいに座り、私が食べるのを見ていた。その目には細やかな笑意と、どこか全てを悟ったような光があった。「そのワンピース、やっぱり一番似合ってるわよ」
「うん」私は頷いた。口いっぱいに頬張って、モゴモゴと、でもはっきりと肯定した。飲み込んでから、はっきりと言った。「ワタル君がね、今度お焼きを食べに来たいって」
母の目が少し大きくなり、すぐにその笑みが深くなった。それは安堵したような、リラックスした笑顔だった。「そう? じゃあ、ちゃんと準備しなくちゃね」
窓の外の夏の夜は相変わらず深く、遠くではまだ名残の花火の音がしているかもしれない。けれど今この瞬間、部屋には茶碗と箸が触れ合う微かな音と、穏やかで満ち足りた暖かさだけがあった。明日も私は、デートに何を着ていくか迷うかもしれないし、新しい景色や体験に憧れるだろう。
でも、どこへ行こうとも、この味、この光、この唯一無二の繋がりは、すでに私の一部なのだと知っている。「特別」を必死に探したり、「違い」を隠したりする必要はもうない。だって、最も特別な愛によって、私はすでに幸せの中に立っているのだから。それは呼吸のように静かで、四季のように変わらず、あの小さくて、海と山を越えて伝わってきたお焼きのようにユニークな、いつでも帰れる永遠の優しい場所。
愛に、派手なオープニングなんて必要ない。
幸せを追い求めるあなたも、どうか、すでに幸せの中に立っていますように。
【随筆】青い紫陽花と花椒の芽 ~着飾った黒いレースと、忘れられない家の味~ 凛冬の夜警 @Yuan_a
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