ああ!昭和は遠くなりにけり!! 第19巻

@dontaku

第19巻

新年をフェリーで迎えた娘たち。今年も飛躍する娘たちだ。

合わせて新しい仲間加奈の前代未聞の『幼稚園卒業コンサート』の開催。

そして自分たちがスカ打ちした優子がそのコンサートで鮮烈デビューを果たすのだった。



ああ、遠くなる昭和の思い出たち


淡い恋心・・・信子そして美穂と里穂と歌穂と加奈



フェリーの船中で思い切り演奏に興じる3人娘。

新しい曲、新しい試みに次々に挑戦していく。各自が思い切り楽器を弾きまくってお互いに意見を交換し合う。そうして過ごしているとあっという間にお昼になった。「お昼はここで良いんじゃない?」遥香さんの一言で決まりだった。3人でフィッシュバーガーセットを注文する。するとお昼をどうするかと若菜さんが尋ねてきた。若菜さんと伊藤さんはレストランでというが混雑やトラブルを避けたい3人はカラオケルームで済ませると告げた。

歌穂の練習を聴きながら伴奏をする美穂と遥香さん。

次々にレパートリーを増やしていく歌穂に感心するのだった。

演奏に疲れて一休みをすると今度はカラオケを楽しむ。最近は高齢者施設や保育園の演奏もないので中々歌う機会もなかった。関東に戻ると高齢者施設の新年会だ。それに合わせての歌の練習も兼ねていた。久しぶりに歌う歌謡曲、演歌、文部省唱歌、童謡、アニメソング。「なんだか懐かしいね。」そう言いながら順番に次々と歌っていく3人娘。フィッシュバーガーセットを完食しお腹を満たすとさらにパワーアップで歌いまくる。一通り歌い終えたところで今度は遥香さんが予約した部屋へ移る。インターホンで受付へ連絡すると「しばらくその部屋から出ないでください!」という返答が。理由を聞くと大勢の人が集まり過ぎてカラオケコーナーのシャッターを閉めているとのこと。仕方ないので今いる部屋で過ごすことに。再び練習を始める3人娘。

暫らくして2人のマネージャーさん、警備員さんや特別警戒中の海上警察署員の皆さんも応援に来て整理に当たってくださった。その頃はもう夕方になっていた。マネージャーさん2人も加わり5人全員での晩ご飯となった。レストランまでクルー専用通路を歩いてレストランの個室へ。これなら騒ぎになることはない。流石、最近就航した新造船だ。

カラオケルームはそのままの状態で鍵をかけてきたが歌穂のヴァイオリン2挺は置いてくるわけにもいかず歌穂が背負い、もう1挺は伊藤さんが預かってくれた。少し広い部屋へ移れた嬉しさもあり3人娘は美味しいコース料理に舌鼓を打った。

食事が終わると再びカラオケルームへ戻る。クルー専用通路を利用したため大勢の人に出会うことはなかった。マネージャーさん2人は念のため残って3人娘の練習に付き合ってくれて“お花摘み”の際もしっかりガードしてくれた。

3人の練習を目の当たりにして若菜さんと伊藤さんは改めて3姉妹の演奏の素晴らしさを知るのだった。

「いつもレッスン室での練習だから初めて真近で聴けたわ。」と大喜びの2人だった。

夜9時になるとそれぞれの部屋へ引き揚げる。

再びカラオケコーナーのクルーのお姉さんの先導で特別客室のあるフロアへクルー専用エレベーターで向かう。フロアの入り口は警備員さんが立ってくれているので特別室の宿泊客以外は入って来ることはない。お陰で何のトラブルもなく5人はそれぞれの部屋へ戻ることが出来た。

部屋に戻ると3人娘は順番にシャワーを浴びる。ジャンケンで順番を決める時も賑やかで楽しそうだ。

シャワーを浴びて浴衣に着替える。後は思い思いで過ごす。本を読んだり作曲に励んだりと自由気ままな3人娘だ。夜10時30分になると3人揃ってベッドへ潜り込む。大きなダブルベッド2台に3人が潜り込むのだ。遥香さんと歌穂が美穂を取り合う何時もの構図の始まりだ。

「私、一人で寝たいんだけどォ。」口を尖らせる美穂に「ダメえ!私と一緒だよ!」「ううん!私と!」と何時ものパターン、美穂争奪戦が繰り広げられる。結局はジャンケンとなり、丸く収まるのだった。


翌朝目が覚めると辺りはまだ薄暗かった。早起きの美穂は一緒に寝ている遥香さんを起こさないようにベッドを抜け出し洗面所へ。洗顔をして歯を磨く。

化粧台の前に座り基礎化粧液を顔に塗ると着替えて展望デッキへ向かう。このデッキは“特別船室専用展望デッキ”で早朝のためか美穂以外の人影はなかった。冷たい風に震えながら明るくなってきた東の空をじっと見つめる美穂。そんな美穂の顔に明るくなった空の色が映える。

何やら人の気配を感じて振り返る美穂。

「ああっ!お姉ちゃん!ズルーい!」歌穂の声と共に3人の声も。そう、他の4人も同じ様にデッキに出向いていたのだ。

5人で横並びになって日の出を拝む。ダイヤモンドリングの様に大海原から顔を出す太陽。それは普段見ることの出来ない厳かな瞬間だった。

『今年も良い1年でありますように。』5人でそう願った。

7時になったら専用食堂へ行く約束をして一旦部屋へ戻る。食事の前にお茶を入れてゆっくりと過ごす。

自ずと話題は久しぶりの再会となる加奈のことになった。加奈は“エチュード”1挺を持って実家に帰ったのだが美穂と遥香さんが心配していたのはピアノのレッスンだった。毎日弾くことがいかに重要かは3人とも百も承知だ。だが歌穂はヴァイオリンのレッスンのことだけを加奈に指導したことを悔やんでいた。

「大丈夫だよ。みっちり練習すれば直ぐに取り返せるから。」美穂と遥香さんにそう慰められて大分気が楽になった歌穂。何時もの笑顔が戻った。

7時になるとマネージャーさん2人が迎えに来てくれた。5人で専用食堂へ向かう。こじんまりとした食堂は、それでもちゃんとしたバイキング方式だ。何時もの美穂のスクランブルエッグの富士山盛りが見れるはずだったが、今回は普通盛だ。「美穂ちゃん、どうしたの?不調?」遥香さんに聞かれた美穂は笑ってある方向を指差した。「えっ?」その方向を見つめる遥香さんと歌穂。「ああーっ!チョコレートフォンデュだあ!」

5人で朝食を楽しんでいると2人連れの女性が声を掛けてきた。

「お久しぶり、若菜さん。」

若菜さんが顔をあげると「あら!」と声をあげた。

声を掛けてきたのは別の芸能事務所のマネージャーさんだった。

「皆さんのご活躍ぶりは素晴らしいですね。」3人娘を見ながらその女性は言った。

「皆に紹介するわね。こちらは別の芸能事務所のマネージャーさんで茜さん。そして・・・。」若菜さんの紹介の途中でもう一人の女性が自己紹介をした。

「初めまして。山瀬穂波と言います。よろしくお願いします。」そう自己紹介した途端に「あっ!里穂お姉ちゃんが仲良しになったお姉さんだ!」と歌穂が言った。「妹の里穂がお世話になっております。」美穂が立ち上がって挨拶をする。同時に立ち上がる他の4人。

「お名前は存じております。美穂さん、遥香さん、そして歌穂さん。里穂ちゃんから色々伺っております。」笑顔でそう答える穂波さん。

「まあ、立ち話も何なので取り敢えず皆さん座りましょう。」若菜さんの一声で皆席に座った。お2人も隣のテーブルに座った。バイキングを楽しみながらよもや話に花が咲いた。

「昨日の騒ぎ、凄かったですよね。さすが“天使の3姉妹”ですよね。」穂波さんはそう言って笑った。

「実は、私たちも同じカラオケルームに居たんです。そしたら出れなくなっちゃって。茜さんも穂波さんと顔を見合わせて笑った。

「わあ!ご迷惑をおかけしてごめんなさい!」平謝りの3人娘に「いえいえ、私たち2人もあんな風に売れるように頑張ろうねって励まし合ったんです。」茜さんはそう言ってまた笑った。

「ありがとうございます。そう言ってくださるとマネージャーとしてたいへん嬉しいです。でも、肝心なこの子たちはそんな自覚が無いんです。ただ、自分たちの演奏を楽しんで戴ければ良いみたいなんです。」若菜さんはそう言って優しい目で3人を見つめた。

「それで里穂ちゃんも自然体なんですね。」頷きながら穂波さんが言った。

「私、サッカー番組で始めて里穂ちゃんを見た時、てっきり体育会系の子だと思っていました。でも実際に会ってみると普通の小学生だなあと思いました。」茜さんがそう言って続けた。「うちの穂波も飾らない子なんですが里穂ちゃんはその上を行く、より飾らない子なんですね。」

「あのう、話は変わるんですが、穂波さんの曲『涙の海峡』を弾かせて頂いてもよろしいでしょうか?」突然の歌穂の話に驚くお2人。「ヴァイオリンで弾いてみるとすごく哀愁が漂って素敵なんです。」

この歌穂の何気ない行動が後々とんでもない事態を引き起こすのだった。

いよいよフェリーを下りる時がやって来た。混乱を避けるため5人は特別に車に乗って船を下りることとなった。知り合ったお2人を誘って他の車に混じっての関東上陸だ。お2人はワゴン車の居心地にすっかり魅了され皆との楽しいお喋りに花を咲かせていた。

そしてあっという間にお2人の所属する芸能プロダクションのビル前に到着した。深々と頭を下げてお礼を言うお2人に「こちらこそ、楽しい船旅をありがとうございました。」と言って手を振る3人娘。お2人はワゴン車が見えなくなるまで手を振り、見送ってくださった。

久しぶりのわが家へ向かう5人。だが、突然若菜さんの携帯が鳴る。千裕さんからだ。どうやら朝からずっと連絡をしていたらしいのだが電波が通じなかったようだ。

駅に着いたと連絡を入れてくれたのだ。丁度お2人を降ろした直後でまだ駅の近くにいたワゴン車は急遽駅へ向かう。「そうだよ!千裕さん、うちを知らないんだよ!」美穂が叫ぶように言った。「そうか!」思わず驚いて顔を見合わせる5人。

やがてワゴン車は駅の地下駐車場へ滑り込んだ。

急いで若菜さんが“待ち合わせ広場”へ向かう。そこには加奈を連れた千裕さんが2人の警察官さんに事情を聞かれていた。どうやら迎えを待っている間に“幼女を連れた不審な女性がいる”と通報が入ったようだ。

念のためにと話を聞かれていたようだが行き先がはっきりしないため照会をされていたとのこと。千裕さんの照会ばかりしていたため手間取っていたのだ。

同じ会社の若菜さんの登場で事態は一変。“加奈”で再度照会をする2人の警察官さんはその結果に驚いて背筋を伸ばして敬礼をした。「失礼いたしました!お車までお送りします!」

こうして3人は2人の警察官さんに守られながらワゴン車に到着。驚いたのは待っていた4人だ。

「ええーっ!何?どうしたの?」慌てて車から降りる。

「どうしたの?加奈!」真っ先に駆け寄る歌穂に「歌穂お姉ちゃん!お姉ちゃん!」と言って飛び付く加奈。

若菜さんの説明に皆大笑い。7人でお礼を言うと2人の警察官は笑顔で戻って行かれた。

家までの道はこのことを始めお正月休みのことで大いに話が弾んだ。加奈は両親に大事にされていたようで皆安心していた。何時間も練習のためにカラオケボックスに通っていたとのこと、それに両親も付き合ってくださったという。更に娘のために電子ピアノをプレゼントしてくれたというのだ。それを聞いて安堵する歌穂、それは美穂と遥香さんも同じだった。

「そう言えば千裕さんの予定ってどうなっているの?」若菜さんはそう尋ねた。「仕事始めは月曜日。本社に寄ってご挨拶して関西に戻る予定です。」そう言って微笑む千裕さん。「えっ?何処に泊まるんですか?」美穂が尋ねると「うん、今から探そうかと思っているのよ。」そんな千裕さんの答えに「うちに泊まってください。暫くは歌穂と加奈との3人暮らしだから。」そんな美穂の誘いを嬉しく思う千裕さんだったが遠慮しているようにも見受けられた。「信子さん、美智子さんと優太君は九州ツアーなの。来週の半ばまで帰って来なくて寂しいのよ。」若菜さんはそう説明した。「私も泊まるんで遠慮なさらずに、ね。」遥香さんもそう言って引き留めてくれた。

「わかりました。お世話になります。」

「遥香お姉ちゃん、本当に帰らなくても良いの?」歌穂が心配すると、日曜日までパパとママは海外に行っているから家には誰も居ないの。だから大丈夫。」遥香さんは明るく答えた。

「千裕さん、引き継いで欲しいんだけど。」若菜さんは1枚のメモをバッグから取り出し千裕さんに渡した。一読する千裕さん。

「わかりました。コンタクトを取ってお会いしてきます。」そう言って自分の手帳に書き写してからそのメモを一緒に挟み込んだ。「ひょっとしてあのお店の優子さんですか?」美穂が若菜さんに尋ねた。頷く若菜さん。「美穂ちゃんに似た子だったよね。」遥香さんもそう言って興味津々だ。「うちに来てくれると良いなあ。」歌穂も既に歓迎ムードだ。「私も皆さんの期待にこたえられるように頑張るね。」千裕さんはそう言って気を引き締めた。

やがて久しぶりのわが家へ到着。一番に歌穂の2挺のヴァイオリンを楽器ケースへ収納する。そしてざっと掃除をする。その間、加奈と千裕さんにはワゴン車でうたた寝をしてもらった。家中の窓を開けて空気を入れ替える。そして化学モップでテーブルや机などのホコリを拭き取り床には掃除機をかける。

5人であっという間に済ませるとワゴン車の荷物をリレー式で玄関へ運ぶ。それを各自で部屋に持っていくのだ。そのきびきびとした流れ作業に驚く千裕さん。

そんな千裕さんに家の中、特にピアノルームと地下のレッスン室を案内する美穂。その間に遥香さんと歌穂がお茶を入れてくれる。各部屋を案内されてその充実ぶりに驚く千裕さん。これが皆を支えているのかと思うと飛び切りの施設に思えた。

皆で久しぶりの健康茶を頂く。7人揃ってのゆっくりした時間だ。

「夕飯は何が食べたいですか?」美穂が皆に尋ねた。「私、“海老アボガド”が食べたい!加奈の一言でお寿司屋さんに行くことになった。

出かける用意と戸締りをしてワゴン車で出発する。

お正月ということもありお寿司屋さんはかなりの込み具合だ。

毎度のことながら伊藤さんに並んでもらって他の皆はスーパーへ買い物に出かける。明日金曜日の朝ごはんから月曜日の朝ごはんまでを仕入れるのだ。

大きなショッピングカートを2台押しながら買い物を続けていく。その買い物上手に驚く千裕さん。特に歌穂の野菜の目利きには唸ってしまう程だ。

最後におやつを仕入れるためお菓子コーナーへ。

チョコを始めクッキーなどを仕入れていく。クッキーは加奈の大好物だ。大きな丸い缶入りのものを3缶カートに入れる豪快さだ。

全ての買い物を終えてレジへ。お会計は美穂のクレジットカードでの決済だ。これにまた驚く千裕さん。その間にレジを通したものをダンボール箱に詰めていく歌穂と加奈。千裕さんにとって、驚きずくめのお買い物だった。レジを済ませた美穂がワゴン車から運搬台車を転がしてくる。それにダンボール箱を積んでいく。お肉や魚、牛乳などの要冷蔵品は保冷バッグに入れてある。レジ脇の氷をビニールに詰めて保冷バックに入れる。これでしばらくは大丈夫だ。重くなった台車は若菜さんと美穂で押して運ぶ。ワゴン車に買った物を積み込んだ時点でもまだ伊藤さんからの連絡はなかった。若菜さんが様子を見に行く。その間は皆ワゴン車内で待機だ。またお喋りに花が咲く。

やがて若菜さんから美穂に連絡が入り5人でお寿司屋さんへ向かう。個室と言っても間仕切りがあるだけのテーブル席へ案内される。早速美穂と歌穂が7人全員のお茶を入れてくれた。そして皆の注文を聞きながら流れてくるお寿司を取りまくっていく。何時もカウンター席で一人で食事をしている千裕さんにはこの目の前の光景が異次元の様に思えるのだった。テーブル一面に並ぶお寿司の数々。これを見ると笑ってしまうしかない千裕さんだった。その隣では一心不乱に“海老アボガド”を頬張る加奈が居た。「加奈は本当に好きだからねえ。」そう言いながら次の“海老アボガド”のお皿を取ってくれる優しい歌穂だった。

皆でお腹いっぱい美味しいお寿司を頂いて大満足だ。だが更にデザートを食べるという4人娘。それぞれ違うデザートを注文して到着を待つ。少し呆れ気味の大人3人の視線をよそに美味しそうに食べて微笑む4姉妹。『た、食べ盛り過ぎだろう!』と心の中で叫ぶ大人たちだった。

家へ帰ると娘たち4人は早速明日の練習だ。

ピアニストの美穂と遥香さんは地下のレッスン室で、ヴァイオリニストの歌穂と加奈はピアノルームにての練習だ。その間、マネージャーさんたち3人は明日の打ち合わせだ。特に千裕さんは初めての高齢者施設での公演、しかも娘たちの原点であると聞かされ楽しみにしていた。

久しぶりの2人での練習に笑顔が絶えない歌穂と加奈。『チャルダッシュ』を練習したという加奈の演奏を聴く歌穂。ゆったりとした部分は加奈らしい美しい調べが続く。一転する高速演奏の部分も綺麗にかつ丁寧に弾いていく加奈。『加奈が話していた通りだわ。しっかり仕上がっている。』そう思いながら歌穂は思わず笑みを浮かべるのだった。

「歌穂お姉ちゃん、どう?皆さんの前で弾けるかなあ?」謙虚過ぎる加奈を思わず抱きしめたくなる歌穂。

「うん、大丈夫。ばっちり仕上がっているわよ。」

歌穂のその言葉に少し照れ臭そうに笑う加奈。

「ところでさあ、この曲聴いてみて。」歌穂はそう言いながらヴァイオリンを構える。そして弾き始めた。

情緒感溢れる歌穂のヴァイオリン。歌穂が弾いているのは『涙の海峡』、そう、山瀬穂波さんの曲だ。

じっと聴き入っている加奈。サビの部分に差し掛かると加奈の目に涙が浮かぶ。それを拭おうともせずじっと聴き続ける加奈。ぽろぽろと涙を落としながら聴き入っていた。演奏しながらそんな加奈を見ていた歌穂も思わず涙を浮かべていた。

演奏が終わると2人で涙を拭き合う。

「切ない曲だね。」ぽつりと歌穂が言うと加奈が頷いた。「歌穂お姉ちゃん、その曲、加奈にも教えて。」

2人での練習が始まった。加奈が弾いている間に歌穂は曲を五線譜に書き留めていく。

インターホンが鳴る。美穂からだ。里穂と香澄さんが帰ってきたようだ。「キリの良い所で行くね。」そう言って五線譜に書き込む作業を続ける歌穂。加奈もサビの部分を数パターンに分けて演奏していた。

「今からそっちに行くからね。」しびれを切らした美穂と里穂、そして遥香さんがピアノルームにやって来た。「ただいまーっ!えっ?2人とも何やっているの?」里穂は2人の真剣さに驚いていた。

「そうか!歌穂は作曲の・・・。えええっ!この曲って『涙の海峡』だよね?」歌穂の五線譜に目を遣った美穂がその内容に驚く。「そう言えば弾かせてくださいって言っていたわね。」遥香さんもそう言って2人を代わる代わる見つめていた。

「ねえ、聴かせて!」里穂が待ちきれないと言わんばかりに2人にお願いする。

「うん。聴いて。加奈、第2のパターンでいこう。」

歌穂の声に「うん。」と頷く加奈。

「ちょっと待って!マネージャーさん達を呼んでくる!」美穂はそう言ってピアノルームを飛び出した。

総勢7人の観客の前で演奏が始まる。メインのパートは加奈が、サイドのパートを歌穂が弾く。加奈の綺麗な哀愁溢れる演奏に心を揺さぶられる7人。

『穂波ちゃんってこんな良い曲を歌っていたんだ!』そう思いながら涙を流す里穂。他の皆も涙を浮かべて聴いていた。演奏が終わると皆、涙も拭かずに拍手をくれた。

「素晴らしい演奏だったわ。早速明日にでも信子社長と美智子副社長に言ってうちの副社長に先方と話をしてもらいましょうね。」若菜さんはそう言って指で涙を拭った。

改めて里穂の“お帰りなさい会”となった。

「里穂お姉ちゃん、ごめんなさい。ライバルの穂波さんの曲を弾いちゃって。」謝る歌穂と加奈。

「ううん。謝ることなんか無いわ。穂波ちゃんはライバルだけど良き親友でもあるの。お互いに頑張りましょうねと何時も言っているから。それに、私の曲を作詞作曲してくれているじゃあないの。それだけで私は満足しているわ。」里穂はそう言って歌穂と加奈にハグをした。


翌朝、サッカースタジアムでの仕事に出かける里穂と香澄さんに朝食を作る美穂。フレンチトースト、ミニサラダ、“チーズエッグ”、牛乳を食卓に並べる。

“チーズエッグ”は美穂が考案した?料理で、スライスチーズを細切りにして丸くフライパンに敷いて、その真ん中で目玉焼きを作るという料理だった。

「美穂お姉ちゃん、おはよう。」そう言いながら顔を洗った里穂が食卓の椅子に座る。続いて香澄さんも「美穂ちゃんおはよう!わあ!朝ごはんありがとう!」そう美穂にお礼を言って早速2人で朝食をいただくのだ。

そうしている間に千裕さんが起きてきた。

「おはようございます。」「千裕さん、良く眠れましたか?」その会話を聞いた里穂が「やだ、美穂お姉ちゃん、旅館のおかみさんみたい!」と言って笑う。釣られて笑う香澄さんと千裕さん。

「おはようございます。ちょっとォ!皆で何笑ってるの?」やや寝ぼけ眼の遥香さんの登場だ。

やがて歌穂と加奈が手を繋いで起きてきた。

そしてそのまま里穂と香澄さんのお見送りだ。皆に見送られて社有車に乗った2人は手を振りながら出発していった。

続いて遥香さんが若菜さんと伊藤さんを迎えに駅まで向かう。この後急いで歌穂と加奈は顔を洗い歯を磨くのだ。

鼻歌を歌いながら6人分の朝食を拵えていく美穂を歌穂が手伝う。加奈も一緒にお手伝いをしてくれる。「今朝は“チーズエッグ”だよ。」美穂の一声に大喜びの加奈。

すると遥香さんが若菜さんと伊藤さんを連れて戻って来た。「おはようございます!」「おはようございます!何時も朝食ありがとうございます。」

こうして6人での賑やかな朝ごはんが始まる。

朝ごはんが終わると美穂と歌穂は一気に食器を洗う。

その間に若菜さんは4人の衣装にアイロンをかける。

一方で伊藤さんは電子ピアノ2台をワゴン車に詰め込む。台所仕事が終わった2人も衣装に着替える。

遥香さんと加奈は4人分の楽譜をバッグに入れる。普段はあまり楽譜を使わない4人だが持っていると落ち着くようだ。

最後に歌穂と加奈がヴァイオリンを持ち準備完了だ。

全員ワゴン車に乗って高齢者施設へ向かう。

高齢者施設に着くと事務室へ新年のご挨拶に伺う。久しぶりの4人の訪問に皆さん大喜びだ。

玄関近くの掲示板はそのまま残されていた。そしてその隣には後任を務めてくれている音大の皆さんの掲示板があった。以前と同様に多くのメモが張られていた。懐かしさに思わず胸が熱くなる。お互いにそう話しながら控室へ。

「新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。」4人プラスマネージャーさん3人で声を揃えての新年のご挨拶だ。

「おお!おめでとうございます!」などと懐かしい皆さんから新年のご挨拶が帰ってくる。直ぐに話題の中心となる4人。そんな中、歌穂は部屋の隅へ向かう。

向かった先には猿回しのお姉さんとお猿さんがいた。

お猿さんは飛び跳ねて歌穂に抱き着いてきた。

「うふふ。覚えていてくれたんだね。おめでとう!」そう言って優しくお猿さんの頭を撫でてあげる。お猿さんはじっと抱き付いたまま目を閉じていた。

「おめでとうございます。」お猿さんを抱っこしたまま猿回しのお姉さんに新年のご挨拶をする。お姉さんもにこにこ顔で挨拶を返してくれた。

いつの間にか加奈が近づいてきた。そして恐る恐るお猿さんの頭を撫でる。お猿さんは嫌がることもなくじっと加奈を見つめていた。

「あんれ!まあ!お猿さんが大人しくなっているわよ。」津軽三味線のお姉さんたちはそう言って感心していた。美穂と遥香さんも2人に近付いてお猿さんの頭をそっと撫でてあげた。2人の顔をじっと見つめうっとりとした表情を見せるお猿さん。

「ありゃあ!お猿さんも人を見るんだねえ。」お姉さんたちはそう言って感心していた。

4人は新年会の進行表を確認する。歌穂はお猿さんを抱っこしたままだ。その様子を周りの皆が微笑ましく見つめていた。

いよいよ新年会の幕が開いた。

最初の出番はお猿さんとお姉さんの猿回しだ。

ステージに現れたお猿さんを抱っこした歌穂の登場に会場から悲鳴に近い歓声が上がる。

お猿さんを床に降ろしそっと背中を押す歌穂。お猿さんは歌穂の顔を見た後一目散にお姉さんの元へ。

お姉さんとのコンビ芸を披露していく。ステージの脇で拍手を贈る歌穂を時折チラ見して芸に励むお猿さん。演目が終わると歌穂はご褒美のおやつを手にしてお猿さんに「おいで!」と声を掛ける。するとお猿さんは大喜びで歌穂の腕の中へ大ジャンプする。おやつをもらって上機嫌なお猿さんを抱いてお姉さんと一礼して引き揚げてくる歌穂。会場内は「可愛かった!」「何で歌穂ちゃんが?」という声が飛び交っていた。

控室へ戻ると出演者の皆さんから拍手で迎えられる。

嬉しそうな歌穂にべったり寄り添うお猿さん。「お姉さん、この子の名前は?」歌穂に聞かれて「“猿太郎”って言います。ちなみに私は楓と言います。猿太郎を可愛がっていただきありがとうございます。」そう言って笑った。美穂を始め控室の皆は信じられないという顔で2人のやり取りを聞いていた。

楽しい時間はあっという間に終わりを告げる。猿回しのお姉さんは次の仕事へ向かうと言う。お姉さんから名刺を受け取り猿太郎君に別れを告げる。別れを察したのか、猿太郎君は自分からお姉さんの腕へ飛び移り名残惜しそうに歌穂を見た。「また会おうね。」そう言って微笑む歌穂の目に涙が浮かんでいた。

皆さんの演目が進んでいく。4人の出番は大トリだ。

歌穂は会場に芸能プロの社長さん、副社長さん、管理本部長さんの姿がったことを3人に伝えた。

「そうか!それでマネージャーさんたちは席を外しているのね。」

「失礼します。」そう言って集団の皆さんが入ってきた。「えっ?」驚く4人。何と!響子さんのツアーでお世話になったプロのヴァイオリニストさんたちとピアニストさんたちだった。

「わあーっ!あけましておめでとうございます!」そう言って挨拶を交わす4姉妹。「でも、何故ここが分かったんですか?」遥香さんが尋ねると芸能プロに問い合わせたとのこと。さらに嬉しいことに差し入れまで頂いたのだ。「今度正式にオファーを入れるからよろしくね。」皆さん口々にそう言って客席まで戻って行かれた。

新年会もいよいよラストのコーナー、4人娘たちの出番となった。いつものように美穂がマイクを取り司会を行う。新年の挨拶を終えると演目を告げる。

美穂のアルルの女より『メヌエット」』、遥香さんの白鳥の湖より『情景』、加奈の『チャルダッシュ』、そして歌穂の『ロマンス第2番へ長調』でシメることとなる。

美穂は小学生チャンピオンとしての堂々たる演奏を披露、遥香さんは音大1年生ながら優雅な演奏をし、幼稚園児ながら見事な澄んだ音色を響かせる加奈には観客の皆さんを魅了、トリの歌穂は小学生ながらのプロとしての実力をいかんなく発揮した。

居合わせた学校長さん、理事長さん、そしてプロの皆さんを唸らせる演奏を披露した4人に拍手と歓声が鳴り止む事はなかった。芸能プロのお3方も同様だった。

「リクエストがあるのだけれど良いかな?」副社長さんが手を挙げて発言をしてくださった。

「すまないが『涙の海峡』を聴かせてくれないかな。」

この言葉に4人は大喜びだ。だが会場はざわついている。それを打ち消すように歌穂が言った。「リクエスト、ありがとうございます。それでは私歌穂と加奈、伴奏は遥香と美穂にて『涙の海峡』をお聴きください。そう言ってヴァイオリンを構える2人。そしてピアノの姉2人を見て頷く。そうだ、ヴァイオリンで2パート、ピアノは連弾というとてつもない演奏形態だ。驚くプロの皆さん。

やがて静かに演奏が始まった。学校長さんはピアノの譜面縦に楽譜があるのを発見して驚く。楽譜なしの演奏が当たり前の娘たちが楽譜を見ながら演奏しているのだ。しかも連弾だ。『ま、まさか!ピアノはぶっつけ本番なのか?』

演奏は見事過ぎた。元曲が演歌とは思えない編曲に学校長さんを始め会場の皆さん方も驚きを隠せない様子だった。

『素晴らしい!素晴らしすぎる!』思わず社長さんが身を乗り出す。管理本部長さんも興奮気味だ。にこにこ顔で頷く副社長さん。

やがてサビのパートではすすり泣く人たちが続出する。『涙の海峡』の演奏は感動の内に静かに終わった。

拍手が起き、それは鳴り止むことはなかった。

4人は満面の笑みで控室へ戻った。迎えてくれる3人のマネージャーさんたち。

「皆さん!ありがとうございました。」4人揃って控室の皆さんにお礼を言う。そしてマネージャーさん3人に深々とお辞儀をした。

「副社長さんにお話ししていただきありがとうございました。」そう言ってお礼を言われたマネージャーさんたち3人も深々とお辞儀をした。

「最初は驚いていらしたわ。だってライバルでもある他の事務所さんの穂波さんが歌っている曲ですもの。

でも、発想がユニークだと言って直ぐに先方の社長さんに電話をかけてくださったのよ。最初は驚かれたようだけど試みとしては面白いし話題性もありお互いにメリットがあるということで楽曲の使用料も無しと言うことになったの。貴方たち4人の演奏を聴いて間違いなかったと3人で大喜びしていたのよ。」若菜さんはそう言って4人を褒めてくれた。

そんな話をしていると学校長さんとお母さま、芸能プロのお3方、そしてプロ奏者の皆さん方が次々に控室へいらしてくださった。

学校長さんとお母さまに新年のご挨拶をする4人。

お2人とも目を真っ赤にして涙されたそうでお褒めの言葉を頂いた。同様に芸能プロのお3方からも称賛の言葉を頂戴した。4人は演奏を許可して頂いたことへの感謝の気持ちを述べ深々と一礼した。

「いや、先方の社長さんが穂波ちゃんと里穂ちゃんの仲の良さを大変喜んでおられてね、この世界、蹴落としたり足を引っ張ったりして上へ行こうとする人も居るからねえと2人のライバルでもあり親友でもある関係に凄く感心されているんだよ。それであの演奏だ。是非先方の社長さんにも聴いて貰わないとね。」そう言って副社長さんは豪快に笑った。社長さんも管理本部長さんも満面の笑みを浮かべて頷いておられた。プロの皆さんからもお褒めの言葉を頂き、響子先生にもこれから連絡を入れますとのことだった。そして口々に「楽譜を分けてください。」という嬉しいお願いが。喜ぶ4姉妹。早速皆さんから名刺を頂き郵送することになった。

続けて副社長さんから「4人が揃っているうちに『涙の海峡』の録音を済ませるとのお話が上がり早速管理本部長さんが録音スタジオの手配をしてくださることとなった。日程としては明日日曜日は美穂と歌穂の結婚式場での仕事始めのため学校が始まる水曜日までの、つまりは月曜日か火曜日しか都合が付かなかった。それを考慮しての録音スタジオ探しとなった。

そして最後になってしまったが、年始恒例の4人娘へのお年玉が社長さんから手渡された。初めて両親以外から頂くお年玉に驚く加奈。しっかり美穂に預ける姿も皆の笑顔を誘った。

高齢者施設を出る頃はもうお昼を過ぎていた。途中、ハンバーガーショップにて昼食となった。最初に店の様子を見に行く若菜さんと千裕さん。かなり込んでいるためテイクアウトを選択、携帯電話にて全員のオーダーを聞いての注文だ。7人前だと相当の分量だ。それでも手際よくオーダーをこなしてくださる店舗クルーの皆さんに感心する2人のマネージャーさんたち。両手一杯にハンバーガーセットを詰め込んだ紙袋を抱えてワゴン車へ戻って来た。あっという間にワゴン車の中に美味しそうなポテトの匂いが充満する。

家に帰ると早速みんなでお昼ご飯のハンバーガーセットを頂く。思い思いに好きなものを口一杯に頬張り笑顔を見せる娘たち。その姿に癒されてしまう3人のマネージャーさん達だった。

お昼が終わると遥香さんと美穂は郵便局へ止めていた郵便物を引き取りに向かった。残った5人は手分けをして『涙の海峡』の楽譜を清書する作業に取り掛かった。演奏パターンが「ヴァイオリンソロ」「ヴァイオリン重奏」「ピアノソロ」「ピアノ重奏」「ピアノ連弾」と5パターンあるため結構な作業量となる。

美穂と遥香さんがダンボールに入った郵便物を持ち帰ってきたためリビングは楽譜と年賀状で溢れかえっていた。楽譜組はダイニングで、年賀状組の美穂と遥香さんはリビングでそれぞれ作業することとなった。年賀状を別けながら遥香さんが言った。「ご返事ってどうしよう?」、「うーん!」と唸る美穂。毎年優太君がワープロで作成してくれているのだが美穂たちはさすがにワープロの操作が出来ないのだ。

「それじゃあ私がやるわ!」そう言ってくれたのは千裕さんだ。関西支店で事務もこなしている千裕さんに事務室と化した私の部屋へ案内する美穂。今年の分のデータが入ったフロッピーディスクを読み込ませて準備OKだ。返信用の文面を作成する千裕さん。それを真剣な眼差しで見つめる美穂。操作を覚えようとしていたのだ。

年賀状の仕分けを終えた遥香さん。「美穂ちゃん、仕分けが終わったけれど出した人とそうでない人を分別するにはどうしたら良いかしら?」そんな遥香さんの質問に「うーん!」と考え込む美穂。何時も優太君に任せっぱなしだったので見当も付かなかった。

「そうね、各人毎の宛先一覧表のファイルがあるからそれを印刷しましょう。」編集を終えた千裕さんはそう言って全員の分を次々に印刷してくれた。

楽譜は出来上がったものをコピーしに行って発送の準備が終わった。後は月曜日に郵便局へ行って投函するだけだ。

年賀状の返信も全て印刷し、こちらも同様に投函するだけとなった。

懸案事項が終わる頃には皆のお腹も鳴り始めた。気付くともう夕方の6時を回っていた。大慌てで夕食の準備にかかる美穂と歌穂。その間に遥香さんと加奈はピアノの練習だ。遥香さんは加奈にレッスンをしてくれるのだ。どんどんレパートリーを増やそうと努力する加奈を指導してくれる頼もしい姉だ。

マネージャーさんたち3人は音楽スタジオを片っ端から探しまくって電話をかけていた。

「あっ!そうですか!それではお願いします。」伊藤さんの弾む声がリビングに響いた。「取れたよ!」

台所から「やったあーっ!」と美穂と歌穂の喜びの声が上がる。若菜さんと千裕さんも安心したのか笑顔でお互いを見つめ合っていた。ピアノルームの遥香さんと加奈にも伝えられ2人も大喜びだった。

今日の夕食はカレーとミモザサラダだ。料理上手な美穂と歌穂の手際の良さに改めて感心する3人のマネージャーさんたち。レッスンを終えた2人もダイニングにやって来て皆揃っての賑やかな夕食だ。「美味しいね!」皆そう言ってカレーを食べ進めていく。

「食べ過ぎるとケーキが入らなくなるから程々にだよ!」と美穂の注意勧告が出る程の皆の食欲だった。

「ごちそうさまでした!」加奈が食べ終わるのを待って皆で声を揃える。再び美穂と歌穂が食器を片付けて食洗機へ入れる。その間に遥香さんがお風呂を洗ってくれる手際の良さだ。マネージャーさんたち3人は明日と月曜日の予定を確認していた。

外で車が停まる音がした。里穂と香澄さんが仕事から帰って来たのだ。

「演奏!OKが出たんだってぇっ!」そう言いながら小走りでリビングに駆け込んでくる里穂。香澄さんも玄関の鍵を閉めながら笑顔を見せていた。

「月曜日に収録するんだよ。」歌穂が里穂に教えると更に里穂のテンションが上がる。本当は自分も収録に参加したいのだが、あいにく火曜日までスケジュールがびっしりと埋まっていた。「里穂お姉ちゃん、5通りの演奏をするんだよ。」加奈の説明をカレーを口に運びながら聴き入る里穂と香澄さん。

「2人とも、ケーキがあるから食べ過ぎないようにね。」そう言う美穂に「ああっ!さっきと同じことを言ってるうっ!」と歌穂が言うと皆笑ってしまうのだった。何が可笑しいのか分からずきょとんとした顔の里穂と香澄さんだった。

食事を終えた2人を交えて雑談が始まる。今日の新年会の話、皆さんたちから『涙の海峡』の演奏にお褒めを頂いたこと、歌穂とお猿さんのこと、里穂の仕事のことなど話題は尽きなかった。

その中で千裕さんから報告がなされた。優子ちゃんの件だ。今度の土曜日にスカウト部長さんと一緒に本人とご両親に会って来るとのことだった。沸き起こる拍手。「うちに来てくれると良いね。」「ピアノ、聴いてみたいね。」「歌声はどうなのかしら?」といった期待する声が上がった。

そしていよいよ皆が待っていたケーキの時間だ。美穂が紅茶を入れる。歌穂と加奈はミルクたっぷりのミルクティーだ。そして大きな箱がダイニングテーブルの真ん中に置かれた。美穂がそっと箱を開くと幾種類ものショートケーキがびっしりと敷き詰められていた。

「わあーっ!」皆の歓声が上がる。思い思いのものを選ぶと美穂と歌穂が取り分けてくれる。皆で「いただきます!」と声を合わせて一斉にケーキを頂く。

「ううーん!美味しいね!」皆そう言いながら美味しいケーキを堪能するのだった。

デザートタイムが終わると若菜さん、伊藤さんは香澄さんの運転する車で帰って行った。

「千裕さん、私たち明日の練習とかがあるから先にお風呂に入ってください。」美穂にそう言われて頷く千裕さんだった。「洗濯するものは洗濯機に入れてスイッチを押してください。お風呂から出る頃にはもう乾いていると思いますから。浴衣と丹前は置いておきますね。」

美穂は千裕さん用の浴衣と丹前を2階から持ってくるとダイニングテーブルを片付け始めた。

残ったケーキを冷蔵庫に入れてケーキ皿を手洗いして、それが終わると自分の部屋から電子ピアノを持って降りてダイニングテーブルで明日の結婚式場での仕事始めを見据えて練習を始めた。

「お先にお風呂頂きました。」お風呂上がりの大人の色気を隠すように浴衣姿の千裕さんが美穂の傍へやって来た。

「もっとゆっくり入って頂いて良かったんですよ。」美穂は笑顔で冷たいお水をコップに注ぐと千裕さんに渡した。

「美穂ちゃん、ありがとう。気が利くんだね。」千裕さんはにこにこ顔で冷たいお水を頂く。

「お風呂はまだ5人も残っているから気になっちゃって。」空になったコップを手に持ったまま千裕さんが心配そうに美穂に言った。

「うふ、大丈夫ですよ。」美穂はそう言ってインターホンで各レッスン室へ呼びかけた。「お風呂入る人おーっ!」すると一斉に4人がリビングに現れた。

「今日は遥香お姉ちゃんと入る!」3人が揃って遥香さんを指名。

「しょうがないなあ。じゃあ4人で入りましょう。」

そう言ってきゃあきゃあとはしゃぎながらお風呂場へ。それを見て唖然とする千裕さんだった。

風呂場から4人の楽しそうな声が絶え間なく聞こえてくる。

「何時もこんな感じなの?」千裕さんは美穂に尋ねた。

「いいえ、平日は、遥香さんは自宅で過ごしているんですが、イベントなどで一緒に行動する時は何時もあんな感じです。遥香さん、妹たちの人気者なんです。」美穂はそう言って笑った。

『美穂ちゃんってやっぱりしっかりしているわあ!』


日曜日の朝は早い。今日は里穂が関西方面へ仕事で出かける。里穂が起きてくると同時に香澄さんが我が家に到着する。「おはようございます。」朝の挨拶を済ませると早速朝ごはんだ。まだあまり食欲のない2人に半切りのトースト、ゆで卵、野菜ジュースを出す美穂。

「いただきまーす。」食べ進めていくうちに目が覚めてくる里穂。どんどん笑顔がこぼれ始める。

「2人共これ持って行って。」そう言ってサンドイッチを渡す美穂。「わあ!ありがとう美穂お姉ちゃん!」「ありがとう美穂ちゃん!」2人は大喜びだ。

支度を整えると香澄さんの車で新幹線の駅まで出発していった。2人のお見送りが終わると今度は7人分の朝食作りに取り掛かる美穂。そんな最中でも美穂の頭の中ではピアノが鳴り響いているのだった。

一通り準備が終わると時計を見る美穂。今日は午後からなのでまだ時間があった。美穂は迷うことなくピアノルームへ。心置きなくピアノのレッスンに励むのだった。

程なくして千裕さんが、続いて遥香さんが起きてきた。

「美穂ちゃんが見当たらないんだけど。」そう言う千裕さんにインターホンの説明をする遥香さん。インターホンの画面にはピアノルームでレッスンする美穂の姿が映し出されていた。

「おはようございます。」そう言っていつも仲良しの歌穂と加奈が起きてきた。「里穂お姉ちゃん出かけちゃったんだね。」そう言いながら2人で仲良く洗面所へ。洗面所から戻ると台所へ向かう歌穂。準備されているものを見てメニューを把握すると一気に仕上げにかかる。

慌ただしく遥香さんが車で出かけていく。それをきっかけに歌穂の料理のスピードが速くなる。「美穂ちゃんと歌穂ちゃんといい立派な主婦だわあ!」思わず叫んでしまう千裕さんだった。

すぐに遥香さんが若菜さんと伊藤さんを連れて戻ってきた。「おはようございます。」皆で挨拶を交わす。

「美穂お姉ちゃんを呼ばなきゃあ。」インターホンで呼びかける遥香さん。「はあーい!」美穂の声がスピーカーから聞こえてきた。

皆で揃って「いただきまーす!」と言って朝食を頂く。

美穂から歌穂へリレーされて食卓に並んだ朝ごはん。いつもの朝の光景がそこにあった。

お昼までの間は各自練習の時間だ。美穂と遥香さんはレッスン室へ、歌穂と加奈はピアノルームでそれぞれ練習だ。マネージャーさんたち3人は明日の収録に向けての打ち合わせだ。特に録音スタジオとの打ち合わせを綿密に行なう。

お昼近くになると美穂がレッスン室から出て来てお昼ご飯の準備を始める。やがて遥香さん、歌穂と加奈と順番にリビングに戻って来た。

「美穂お姉ちゃん、お昼の献立はなあに?」そう聞きながら台所へ向かう歌穂。そして葱を刻み始めた。

美穂は大きな寸胴に火を点けて沸騰させる。そしてその間に桶を人数分棚から取り出した。葱を刻み終えた歌穂は乾麺を用意する。そう、今日のお昼は釜揚げうどんだ。お猪口とお箸を並べていく歌穂。

席に着いた皆の前に桶に入った熱々のおうどんが。

皆で「いただきまーす!」と言って熱々のおうどんを頂く。歌穂は加奈のためにお椀におうどんを移し冷ましてあげる。「ありがとう、歌穂お姉ちゃん。」

食べ終えた人から出かける準備をする。

「私が洗い物をしておくから皆出かける準備をして。」遥香さんはそう言ってテーブルを片付け始める。

美穂を始め3人とマネージャーさんたち3人は準備をする。今日は、千裕さんにも結婚式場の仕事を見学してもらうのだ。

準備が出来次第遥香さんの見送りを受けて結婚式場へ出発する。

皆で結婚式場のことを千裕さんに説明しながらワイワイと車中は賑やかだ。そして程なく結婚式場の業務用地下駐車場に到着。そこから従業員通路を使って事務室へ向かう。美穂と歌穂は式場の制服を着用、加奈は私服だ。そんな加奈は念のため歌穂の予備のヴァイオリンを背負っていた。

「明けましておめでとうございます。」事務室の皆さんに新年のご挨拶を行なう。その足で支配人さんの部屋へ向かう。ノックをして中へ。新年のご挨拶を交わす。そして千裕さんの紹介を行なう。暫くの雑談の後、マネージャーさん達のスタッフルームへ出向く。

マネージャーさん、サブマネージャーさん、スタッフの皆さん方と新年のご挨拶を交わす。そしてここでも千裕さんを紹介する。皆さんが笑顔で接してくださっていることに驚く千裕さん。1度だけ助っ人としてお世話になった加奈のこともしっかり覚えていてくださった。打ち合わせのため、美穂と歌穂はスタッフルームに留まる。残り4人は美穂の控室へ向かう。

入って直ぐのカウンターに立派な鏡餅が飾ってある。そして皆で何時ものスペースにてくつろぐ。

「すごい!美穂ちゃん専用のお部屋なんですね!」ここでも驚きを隠せない千裕さんだった。

早速お茶を入れて皆で頂く。

「あのモニターで式場の様子が分かるんだよ。」伊藤さんがそう言ってモニターを指差すと各会場ごとに画面が切り替わる。早速近寄ってモニターを見つめる千裕さん。そして各会場の豪華さに目を見張る。

小学生ながらこのような立派な所で演奏をしている美穂と歌穂に改めて感心する千裕さんだった。

すると打ち合わせを終えた美穂と歌穂が控室に入って来た。2人は伊藤さんが用意したドリンクを頂きほっと一息入れた。「年の初めの一番って緊張するね。」お互いに笑い合って背伸びをした。

暫らく全員で談笑し、披露宴開演10分前になると「じゃあ行ってくるね。」と2人で手を振りながら式場へ向かった。以降、残った4人でじっとモニターを見つめる。そしてその演奏はとても素晴らしいものだった。

加奈と千裕さんはスピーカーから聴こえてくる2人の演奏にじっと聴き入っていた。

一方、若菜さんと伊藤さんは明日の録音スタジオでの録音方法を検討していた。録音機材を操作出来る人が居ないとのことが分かりかなり慌てていた。あちこちの録音関係者に当たってみたもののお正月ということもあり中々録音スタッフは見つからなかった。

それを見聞きしていた加奈が言った。「ただ、録音するだけなら美穂お姉ちゃんか優太お兄ちゃんが出来ると思うよ。」この言葉に頷く2人。「そうだよ!録音するだけで良いんだよ!ラジカセみたいに!」

「音合わせの時なんかマイクのボリュームをチェックするくらいで終わっちゃってるよ。」加奈はそう言ってにっこり笑った。言われてみればそうだ。何時も演奏を録音するだけなのだ。音の加工は必要ないのだ。

「そうか、録音するだけなのか。」2人はそう言って少し安心した。

「でも、何に録音出来るか聞いた方が良いよ。CDなのか録音テープなのか。それが分かれば帰りに買いに行けるし。」加奈の幼稚園児らしからぬしっかりした提案に感心しまくるマネージャーさん3人だった。

そう、加奈は楽器メーカーさんの録音スタジオで歌穂と夏帆さんと一緒に録音に臨んだ経験があったのだ。早速確認する伊藤さん。「良かった、CDに録音出来るそうだよ。あと録音だけなら操作は簡単だって。」ほっと一息の4人だった。

長いようで短く感じる披露宴はあっという間にお開きとなった。控室へ引き揚げてきた美穂と歌穂は取り敢えずの自前のドリンクを頂く。加奈は歌穂のヴァイオリンをウエスで拭き上げ、弓に松脂を塗ってケースへしまう。「加奈、いつもありがとう。」感謝の気持ちを忘れない歌穂だった。

事務室へご挨拶に行くとサブマネージャーさんからお年玉が。しかも加奈にまでくださったのだ。驚く加奈に、「また困った時にはお願いしますね。」という嬉しい言葉まで掛けて頂いた。「はい。」と笑顔で答える加奈を皆さんが優しい目で見つめてくださった。

帰りの車は電気屋さんに寄ることとなった。録音用のCDを購入するためだ。美穂と歌穂はスタジオのことを聞いて「ミキサーやイコライザーは要らないよね。」と話していた。小学生ながらその知識に驚くマネージャーさんたち。電気屋さんでは店員さんにはっきりと用途を説明して購入する。驚いたことに1枚のCDに5曲分は楽々入るとのことだ。しかもパソコンがあればいくらでもコピーが作れるとのことだ。帰りにパソコンを見に行ってみるとCDが読み書きできるものは上位機種に限られており、しかもほとんどが書き込みは出来ないタイプだった。そんな様々なパソコンを見ていると歌穂が1台のパソコンの前で止まった。

「美穂お姉ちゃん、このパソコン、作曲、演奏が出来るみたいだよ!」美穂と歌穂はこのパソコンから離れられなくなった。じっとパソコンの説明書きを読んでいた。店員さんにも説明していただく。「結局、皆さんの場合は楽器で弾いて五線譜に書き込んだ方が早そうですね。」店員さんはそう言って笑った。

家へ帰ると遥香さんはピアノルームで一人で練習中だった。インターホンで帰宅を告げる美穂。すると待ちかねたかのように急いでリビングに現われる遥香さん。皆が揃ったところでティータイムだ。クッキーを摘まみながら紅茶を頂く。話題は明日の録音のことだ。遥香さんはCDを眺めながらこの中に5曲が余裕で入ることが信じられないようだ。「LPレコードより小さいのに?」と独り言を言っていた。

「そうだ!お買い物に行かなくっちゃあ!」美穂が思い出したように歌穂に言った「そうそう!もう食材が切れかけているんだったね。」歌穂もそう言って冷蔵庫の中を確認しに行った。

早速、美穂、歌穂、伊藤さん、千裕さんの4人で買い物に、遥香さん、加奈と若菜さんはレッスンと仕事をする事となった。

小1時間程経って買い物に出向いていた4人が戻ってきた。そしてそのまま美穂と歌穂は夕食の準備に取り掛かった。

遥香さんと加奈はピアノルームで仲良くピアノの練習をしていた。加奈はピアノを弾いて歌穂と一緒に演奏会をしたいと言って一生懸命練習をしていたのだ。

そんな加奈にピアノの演奏指導をしてくれる遥香さん。普段は忙しく中々皆と一緒に練習することの少ない遥香さんにとって加奈とのこのひと時はとても嬉しい時間であった。

皆でおいしく夕ご飯を頂く。今日はサバの塩焼きとマ

、カロニサラダ、久しぶりに復活したキュウリと人参の糠漬け、そしてお豆腐とお揚げのお味噌汁だ。

この和食のメニューに大喜びだったのは伊藤さんだ。そして若菜さん、千裕さんにも好評を博してもらった。

夕食が終わるとティータイム兼明日の打ち合わせだ。

食器類を下げて食卓で紅茶を頂きながら明日の予定を確認していく。特に明日の音楽スタジオ行きは都市部を取ってその先ということ、予約時間が朝9時からということもあり早朝6時30分に出発することになった。美穂と歌穂は車内での朝食としてサンドイッチを人数分作ると張り切っていた。


翌月曜日、美穂が5時に起きるともう伊藤さんは起きてテレビを見ていた。「おはようございます。ゆっくり出来なかったのではないですか?」と言う美穂に「いやいや僕は何処ででも寝れるから大丈夫。」と明るく答えてくれた。美穂はインターホンで先ず若菜さんと千裕さんを起こす。そして2人の洗顔、歯磨きが終わるころに遥香さんを起こし、最後に歌穂と加奈を起こすのだった。

予定通り6時30分に家を出発、一路音楽スタジオへ向かう。皆でおしゃべりに花を咲かせながら朝食のサンドイッチを頂く。紙パックの野菜ジュースも一緒に飲む。朝食後はおやつタイムだ。クッキーと缶入りの紅茶を皆に配る美穂。缶入り紅茶は美穂が早起きしてお湯でゆっくりと温めたものだ。これらを美味しく頂きながらワゴン車は音楽スタジオへ向けて走り続ける。早朝と言っても今日は平日の月曜日、そのせいか所々で渋滞に巻き込まれる。しかし4人娘は全く気にすることもなくお喋りに夢中だ。それに千裕さんも巻き込まれてワゴン車内に笑い声が絶えることはなかった。

渋滞に巻き込まれながらも目的地、音楽スタジオへ到着。ビルの中にあるこじんまりとした音楽スタジオである。エレベーターで音楽スタジオのあるフロアへ向かう。エレベーターを降りるとすぐ目の前が受付だった。そこには年配の男性が一人で座っていた。男性は少しぶっきらぼうで、だがきちんと受付をしてスタジオに案内してくれた。入り口を開けるとそこはコントロールルームでその先が演奏ブースとなっていた。

美穂と伊藤さんが機器類をチェック、主電源を入れ録音ボタンを確認。早速CDをセットする。

取り敢えずはマイクの音量チェックを行なう。加奈に『ラ・カンパネラ』を弾いて貰いヴァイオリン用のマイク音量をチェック、次は遥香さんにも『ラ・カンパネラ』を弾いて貰いピアノ用のマイク音量をチェック、最後に両者同時に弾いて貰って音量バランスを調整する。それを見守る若菜さんと千裕さん。

早速歌穂の独奏から録音スタートだ。最初に練習を兼ねて弾いてみる。録音状態もばっちりだ。聴いていたヘッドホンを外して頷き合う美穂と伊藤さん。そして本番スタートだ。じっと見守る6人の前で歌穂の『涙の海峡』のメロディーが流れる。「やっぱり良い曲だわあ。」呟くように言う美穂の言葉に頷く5人。

歌穂の演奏が終わると録音したCDの音を聴いてみる。皆少し緊張気味だ。きちんと録音されているかが心配だった。スピーカーから歌穂の演奏する『涙の海峡』が流れ始める。さすがは最新の記録媒体、綺麗な音を鳴らしてくれる。皆無事録音されていることに安堵し、CDが再生する歌穂のヴァイオリン演奏の音質に感心していた。

次は加奈が加わりヴァイオリンの二重奏だ。息の合った2人は練習とはいえ見事な演奏を披露する。演奏を終えて2人で何かを確認し合う。「ごめんなさい。もう1テイクお願いします。」歌穂がそう言うと伊藤さんがマイクで「OK!」と返事する。

「あれ?これってCDを複製する機械じゃないかしら?」美穂は見つけた機械のスイッチを入れる。画面に“A→B”と表示される。下を見るとCDを装填させるところがある。“A=オリジナル”と“B=複製先”と記されたそれぞれのCD装填先がある。内線電話で受付へ確認すると初老の男性は良く分からないという。10時になるとスタジオ経営者の方がいらっしゃるとのことでそれまで待つことにした。

気付くとヴァイオリン二重奏の録音が終了していた。

次は美穂の出番だ。ヴァイオリンは歌穂が担当でピアノとヴァイオリンでの演奏だ。こちらも一度の音合わせで本番がスタートする。

今度は加奈が加わりピアノとヴァイオリンの二重奏となる。3人で練習をする。お互いに頷き合って笑顔を見せる3人。こちらも無事に録音が終了した。

最後はピアノの連弾とヴァイオリンの二重奏での演奏だ。練習はばっちりだったが録音する音量が少し歪み録音レベルを調整する伊藤さん。練習の合間に音の歪みを押さえていく。そして本番スタートだ。

コン!コン!とドアをノックする音が。ここの音楽スタジオのオーナーさんがダビングの件で訪ねて来てくださったのだ。まだ30代くらいの男性で、入るなり録音ブースの光景とスピーカーから聞こえる音に釘付けとなってしまった。

「あ、あまたたちって。」絶句するオーナーさん。

録音が終わるまで4人の演奏を黙って聴いていた。

録音が終了するとチェックを行なう。その間に若菜さんが名刺を出してオーナーさんにご挨拶をする。

演奏を終えてブースから出て来た4人もオーナーさんに気付いてしっかりとご挨拶する。

「ほ、本物?て、天使の?」かなり驚いた様子のオーナーさん。さっそく伊藤さんが録音した5パターンの『涙の海峡』を流しオーナーさんにも聴いて頂く。

「うん。うん。流石ですね。アマの演奏とは全く次元が違う!」と大絶賛して頂いた。

演奏を聴き終えるとダビングについての説明をしてくださった。こちらもそれぞれの入力音量のチェックをすれば後は機械任せだという。さっそく買ってきた残りのCD11枚に次々とコピーしていく伊藤さん。

その間にドリンクを楽しみながらオーナーさんとお喋りに花を咲かせる4人娘。

「“著作権”とかは大丈夫ですか?」オーナーさんが若菜さんに恐る恐る尋ねた。にこにこ顔で頷く若菜さんと千裕さん。それに安堵の表情を浮かべるオーナーさんだった。

録音も終わり帰り支度を始めるとオーナーさんから思わぬ提案が。「よろしければ夕刻まで練習に使っていただいて結構ですよ。」

早速ワゴン車から電子ピアノを運び込む伊藤さんと千裕さん。若菜さんは芸能事務所まで録音したCDを届けるという。そして千裕さんと一緒に芸能事務所へ電車で出かけて行った。千裕さんとのお別れが寂しいと涙する加奈。そんな加奈を皆で慰める。

録音ブースでそれぞれの練習が始まる。4人の弾く音が交差する。しかし皆は自分の音だけを認識することが出来るのだ。この光景に様子を見に来たオーナーさんはびっくりだ。普通の人には4つの音が入り交ざった雑音にしか聞こえないからだ。

そんなオーナーさんは「お昼に出前が取れますよ。」と言ってメニューを置いて行ってくださった。

やがてすぐにお昼になった。ブースから出てきた4人娘に出前を取ろうとメニューを見せる伊藤さん。

メニューを覗き込んで目を輝かせる4人娘。それは近所の中華料理屋さんのメニューだった。馴染みのないものが多く、それだけで盛り上がる4人娘。早速夫々の好きなものをオーダーする。「届くのが楽しみだね。」そう言ってはしゃぐ4人娘だった。

1時間程で出前が届いた。量が多いため若いお兄さん2人が届けてくれたのだ。そして初めて見る“おかもち”に興味津々の4人娘。やがてそんな4人に気が付くお兄さんたち。ちらちらと4人の方を見る姿が何とも言えず思わず微笑む伊藤さん。お兄さんたちは伊藤さんからお代を貰うと一目散に帰っていった。

レストコーナーで出前したお昼を頂く5人。皆思い思いのものを口に運ぶ。「美味しいね。」初めて食べる“天津丼”に舌鼓を打つ加奈。大きな口で“チャーハン”をほおばる歌穂。遥香さんも初めての“ニラレバ炒め”に大満足だ。美穂は“マーボ豆腐”の辛旨さに感動さえ覚えていた。そんな4人を眺める伊藤さんは“酢豚”を頂きながらにこにこしていた。

「ごちそうさまでした!」5人で揃ってそう言って食器を片付ける。「洗わなくて良いのかなあ?」そう心配する4人にそのまま返して大丈夫だと教える伊藤さん。4人は不本意ながらもそういうものかと理解して食後のおやつタイムに入る。

その傍らでオーナーさんに出前の返却方法をそっと確認する伊藤さんだった。

再び演奏ブースにて練習に励む4人娘。午後からは4人で一緒に同じ曲を演奏する。コントロールルームで聴いている伊藤さんも思わず唸ってしまう程の演奏が当たり前のように展開されていく。『この演奏を少しでも皆さんに聴いて頂ければ!』と思う伊藤さんだった。こんな素晴らしい演奏をする娘たちはあと2、3日で普通の小学生、音大生に戻ってしまうのか。そう思うと何か切ない伊藤さんだった。

そんな時、伊藤さんの電話が鳴った。若菜さんからだ。

録音したCDを渡してこれから合流すると言う。

まだ音楽スタジオに居ると言うと電話口の向こうで驚く若菜さん。急遽ことらへ向かうと言って会話は終わった。

暫くは4人娘の演奏は続いて3時のおやつタイムとなった。伊藤さんは若菜さんにおやつを買ってきてくださいとメールを送る。するとこの音楽スタジオの最寄り駅はかなり規模が小さく店舗は殆どないと返事が返ってきた。少し考え込んでいたが、伊藤さんはオーナーさんに内線電話を入れ喫茶店の出前が取れるかと尋ねた。オーナーさんは直ぐにメニューを持って来てくださった。4人娘にマイクで声をかけ一旦ブースから出てもらう。メニューを見せて4人のオーダーを取る。取り敢えず若菜さんと自分の分も合わせてオーダーを流すとオーナーさんは喜んで受けてくださった。

「ごめんなさい。何も買えなかった。」そう謝りながら若菜さんが戻ってきた。出前を取った旨を話すと若菜さんは笑顔を見せてくれた。

やがて喫茶店からの出前が届いた。こちらはさすがに“おかもち”ではなく淡いベージュのケースとポットというスタイルで皆の前に現れた。レストルームにて皆で思い思いにケーキと紅茶を頂く。

「わあ!このケーキのクリームが美味しい!」皆でそう言いながら笑顔で食べ進める。「何だか優太ママの作るお菓子に味が似ているね。」そんな話まで飛び出してレストルームからは6人の楽しそうな声が聞こえていた。伊藤さんが聞いた話によるとどうやらこの喫茶店はマスターのお姉さんの経営するお店とのことだった。「ケータリングでこのケーキがあれば最高だよね。」遥香さんがそう言うと皆が「うん!うん!」と大きく頷いた。

「話は変わるんだけど。」若菜さんが切り出した。

「加奈ちゃんにランドセルのCMが入ったの。BGMも加奈ちゃんに『愛の喜び』を弾いて欲しいと先方さんのご指名なのよ。早速スケジュールの調整に入るわね。」若菜さんの嬉しい報告に拍手が起こる。加奈は少し照れ臭そうに俯いている。「良かったね!加奈。」真っ先に歌穂が声をかけてくれた。皆も次々に「新1年生になる加奈にぴったりだよ!」と喜びの声をかけてくれた。

「加奈のCMは可愛いって評判だよ。特にぬいぐるみを抱っこしてカメラに向かって走って来る時の笑顔が最高に可愛いって。」遥香さんがそう言って加奈を優しく見つめた。加奈は恥ずかしそうに身を竦めて座っていた。「そう言えばお昼はどうしたの?」そう聞く若菜さんに4人の娘たちから口々に食べた料理の名前が飛び出してきた。これを聞いただけで『ああ、美味しかったのね。』と分かる若菜さんだった。

ティータイムが終わると今度は皆で『愛の喜び』を練習する。2挺のヴァイオリンと2台のピアノによる豪華絢爛な演奏だ。それをコントロールルームで堪能する2人のマネージャーさんたち。つくづく自分は幸せ者だと思う2人だった。

至福の時間はあっという間に過ぎて夕方になっていた。娘たちも次々にブースから出てきて帰り支度を始めていた。伊藤さんは精算をしにフロントへ向かう。

そして精算を終えて戻ってきた伊藤さんの手には数枚のサイン色紙が。4人娘は喜んでサインを書き込んでいく。「あて先は?」

いよいよ挨拶のためにフロントのオーナーさんの元へサイン色紙を持って行く。あて先を1枚ずつ確認しながら記入していく美穂。オーナーさんは大喜びでお礼を言ってサイン色紙を受け取ってくれた。

「お姉さまが営まれている喫茶店のお名前とご住所をお教え頂けますか?」

オーナーさんに手を振りながら音楽スタジオを出てエレベーターに乗る。薄暗くなった道を一列に歩いて少し離れた駐車場へ。ワゴン車に乗り込んで直ぐに異変に気付く伊藤さんと助手席の若菜さん。駐車場を左折して出ようとするのだがその先には車道にまであふれて待ち受けるファンの皆様方。仕方なく右折で出庫して直ぐのことだった。突然警察官2人に止められたのだ。「右折しての出庫は・・・。」と言う警察官の1人。「危険防止のためだと説明する伊藤さんだが聞き入れる様子がない。警察手帳を見せてくださいとお願いしても見せてくれる素振りもない。

伊藤さんはワゴン車の窓を閉めておもむろに警察へ通報。そうこうしている間にファンの皆さんに取り囲まれてしまった。2人の警察官は笑って見ているだけだった。伊藤さんは状況を詳しく説明。乗っているのは“天使の3姉妹”と“歌穂&加奈”であること、ファンに囲まれて身動きが取れないこと、警察官の写真も撮影したことを告げた。暫く均衡状態が続いたが程なく道路の前後から複数のパトカーが到着。両側から挟み撃ちする格好だ。ファンに揉みくちゃにされて逃げることも出来ない警察官2人。すぐに身柄を確保されてパトカーで連行されて行った。残りの警察官さんたちはファンを退去、解散させてくださった。

「大変でしたね。」空いた運転席の窓から話しかけてくださる警察官さんのお一人。皆でお礼を言うと「いえいえ。では、お気をつけて。」と笑顔で敬礼してくださった。

一件落着して、ワゴン車は我が家へ向かった。


今日は急遽、加奈の新しいCM撮影の日となった。

スポンサーさんの新学期に合わせたいという要望と加奈のスケジュールが合わず急遽本日の撮影となったのであった。撮影場所は何時ものお馴染みのスタジオでスタッフの皆さんも顔なじみの何時もの皆さんだ。付き添いは遥香さん、若菜さん、伊藤さんの3人だ。肝心の加奈はもう慣れてきたせいか何時もと変わらぬ笑顔を見せていた。里穂が雑誌の取材が数件あるため香澄さんと出かけるのとほぼ同時に4人も美穂と歌穂に見送られて撮影スタジオへ向けて出発した。車内では何時もの様に賑やかなお喋りが展開され笑い声が絶えなかった。

撮影スタジオに着くと関係者の皆様にご挨拶をして回る。姉とマネージャーさん2人に付き添われてのご挨拶に皆さん笑顔で接してくださった。特にスポンサーであるランドセルメーカーの広報さんには大いに喜んでいただいた。

早速衣装に着替えてお化粧をする。遥香さんがずっと傍に居てくれるせいか加奈は全く緊張することもなく着替えとお化粧を終えて通学路のセットの前に現われた。セットには桜の並木と菜の花が咲き乱れ春という季節が見事に再現されていた。加奈は嬉しそうにセットの中に立ってカメラチェックを受ける。

最初は桜の木の下でヴァイオリンを弾くシーンの撮影だ。収音マイクがセットされたセットで『愛の喜び』を演奏するのだ。「春をイメージして明るく元気に弾いてください。」と言う監督さんの言葉に頷く加奈。

直ぐに加奈の演奏が始まる。スタジオに加奈の澄んだヴァイオリンの音が響き渡る。

その音色と演奏の力強さに居合わせた全員が驚く。

「加奈ちゃん、また上手になっているわ!」遥香さんが思わず呟く。スポンサーさん、プロデューサーさん、監督さん、助監督さん、音声さんも言葉を失うほど見事な演奏だった。

「本番、いきまーす!」助監督さんの声が響く。同時に音声さんがヘッドホンを着けて身構える。

再び加奈の演奏が始まる。皆さん満足そうにじっと加奈の演奏に聴き入ってくださっていた。

「ヴァイオリンの音色がたまらないなあ!」スポンサーさんは思わず感動を口にするのだった。それもそのはず、加奈が弾いているのは昨年末に譲って貰った光一さんの形見の1挺だったのだ。

演奏シーンは一発OKだった。

次はランドセルを背負っての撮影に入る。グレーのワンピースに黒色のボレロといった入学式にぴったりの衣装の加奈に「可愛い!」という声がスタッフさんたちから聞こえる。赤いランドセルを背負って楽しそうにセット内を歩く加奈。

新1年生という設定と全く違わない加奈が本当に嬉しそうに歩く姿はもはや演技ではなかった。加奈の歩く姿をレールに乗ったカメラが一緒に動いての撮影だ。テイク2はスキップをしながらの撮影だ。スキップ姿も可愛い加奈に全員がため息を漏らすほどだ。当然スポンサーさんも大満足の仕上がりとなった。

次はセットを変えてカラー毎の撮影だ。赤を始めピンク、スカイブルー、紺、黒というカラーバリエーションだ。どうやらこれも売りの一つの様だ。

撮影は順調に進んでいく。そしてスチール撮りとなった。いつも担当してくださるカメラマンさんにご挨拶をすると「今日もよろしくね。」とにっこりと笑ってくださった。そして一緒にいる遥香さんに「今度、写真集出さない?」と言ってオファーをくださった。

少し戸惑いながらも軽く頷く遥香さんを見て「若菜さん、前向きにお願いしますよ。」と言って笑った。

若菜さんも「はい。喜んで。」と笑顔で返していた。

通学路のセットでの写真撮影はノリノリでスタートした。ポーズを決める加奈を見て遥香さんは思わず「可愛い!」を連発していた。多くのスタッフの皆さんからも同様のため息が漏れていた。

白い壁紙の前での撮影に移ると加奈だけが強調される。加奈しか映らないためその可愛さが爆発する勢いだ。様々な色のランドセルを背負って加奈の撮影は続いた。

「いや、それにしても加奈ちゃんの精神力は凄いなあ!とても6歳とは思えないよ。」プロデユーサーさんがしきりに感心していた。

「お疲れさまーっ!」カメラマンさんの声がスタジオに響き、無事にスチール撮影は終了した。

同時に「お昼休憩にしまーす。午後の開始は13時からになります!」という助監督さんの声が高らかに響く。加奈はスタッフさんが用意してくれた割烹着を着ての昼食だ。「わあ!給食当番みたい!」加奈の周りに集まってきた女性スタッフさんたちがそう言って加奈を褒める。加奈はすこし恥ずかしそうに俯いていた。

その仕草がまた可愛いと女子スタッフのお姉さんたちに言われ顔を染めていた。

「加奈ちゃん、お昼はお弁当で大丈夫ですか?」女性スタッフさんに声をかけられると「はい。いただきます。」とはっきりと返事をしてまた他の女性スタッフさんたちの注目を集めていた。

「それじゃあ、皆さんと一緒に頂きましょうね。」遥香さんはそう言って加奈におしぼりを渡した。

スタッフのお姉さんのお一人がじっと遥香さんを見つめていた。遥香さんは髪を一つに纏め丸い伊達メガネを掛けていた。ちょっと見では“天使の3姉妹”だとは気づかれ難い今日の出で立ちだったのだ。そのため皆さんはマネージャーさんだと思っていたようだ。

いろいろと加奈のお世話をする遥香さんに「ありがとう。遥香お姉ちゃん。」と言う加奈の一言でお姉さんたちの表情が変わった。「えええーっ!遥香さん?」

「はい。ごめんなさい、隠すつもりはなかったんだけど・・・。」照れ笑いする遥香さんに「全然気が付きませんでした!」と言って盛り上がる女性たちだった。

「午後からは男の子と一緒の撮影があるのよ。幼稚園のお友達だと思ってあげてね。」若菜さんはそう言って完食した加奈のお弁当箱を受け取った。

それからは女性たちのグループでの楽しいお喋りが続いた。

「おはようございます。本日はよろしくお願いいたします。」女性2人と男の子の3人に挨拶をされた。

「こちらこそよろしくお願いいたします。」若菜さんの挨拶に合わせて3人で起立して挨拶をする。

今日、共演する男の子の母親とマネージャーさんだった。早速名刺交換をして改めて挨拶を交わす。子役専門の芸能プロだという。「加奈ちゃんは普段は何してらっしゃるのかしら?」男の子の母親は若菜さんに尋ねた。「はい、毎日ヴァイオリンとピアノを弾いています。」

肝心の男の子は加奈を見て唖然として立っていた。そんな男の子に自己紹介をする加奈。男の子も自己紹介を返してくれた。名前は“賢人”くん、かなり小柄で幼く見えるが小学3年生だという。逆に賢人君たちは加奈が新1年生だということに驚いていた。

撮影準備として衣装替えとお化粧に向かう3人を見送るとまたしばしのお喋り仲間に戻る加奈だった。

助監督さんの掛け声で午後からの撮影が始まる。

通学路のセットで賢人君と手を繋いでの登校シーンだ。賢人君との2ショットが可愛すぎるとスポンサーさんを始めとする皆さん方は大満足だ。スタッフさんたちからも「2人共可愛い!」という声が絶えなかった。あまりにスムーズに進む撮影に驚く賢人君のマネージャーさんとお母さんだった。「うそ!NGなしだなんて!」大抵の子役さんは監督さんの意向が上手く汲み取れずにNGを連発するのだという。子役とは思えない加奈の演技力に感心することしきりのお2人だった。

一通りの撮影が無地に終了すると今度はスチール撮影だ。相変わらずノリノリのカメラマンさんの注文に応えていく2人。こちらもNGなしでの撮影終了となった。

すべての撮影が終わり、少しの休憩の後は音入れのために隣接する音楽スタジオへ移動する。

休憩の間も仲睦ましい2人を周りの皆さんが温かく見守る。

「あんなに楽しそうな賢人を見るのは初めてだわ!」賢人君のお母さんはそう言って大変喜ばれていた。付き添いのマネージャーさんも同様に笑顔を見せていた。

休憩後の音入れも順調に進んだ。

セリフの録音が終わった後、スポンサーさんからの追加オーダーが提案された。『愛の喜び』に加えて数曲を候補に入れたいということだった。

早速、音響プロデューサーさんと加奈、遥香さんの3人で話し合いとなった。候補として挙がったのは『花のワルツ』、四季より『春』、『ラ・カンパネラ』だ。

この曲目を聞いた皆さんからは「えっ?加奈ちゃんが弾くの?」という驚きの声が上がる。賢人君も心配顔で加奈を見つめていた。

伊藤さんからヴァイオリンと弓を受け取り録音ブースへ入る加奈、それに続く遥香さん。遥香さんの正体に気付いていない人たちから驚きの声が上がる。

「それでは『ラ・カンパネラ』のテイク1お願いします。」ディレクターさんの声に頷く2人。

ビシッ!とヴァイオリンを構える加奈。そこには先程までのほんわりとした加奈はいなかった。

加奈の先導で力強い演奏が始まる。直ぐにそれに続く遥香さんのピアノ。新1年生らしからぬ加奈の演奏に圧倒される居合わせた皆さん方。あまりの演奏に賢人君も口をぽかんと開けて聴き入っていた。

「これが“歌穂&加奈”の実力か!」同席していたカメラマンさんが叫んだ。スポンサーさんも想像以上の演奏に何も言えずに固まって聴き入っていた。

そんな中、加奈と遥香さんは次々と候補となった『花のワルッ』、四季より『春』を演奏していく。

音楽スタジオは感動に溢れていった。

こうして感動の内に録音は終了した。

賢人君たち3人は宇宙人を見るかのように加奈と遥香さんを見つめていた。そんな2人を当たり前のように出迎える2人のマネージャーさん。他の皆さんは何故平気で居られるのかが不思議で仕方なかった。

何時もの様に若菜さんがドリンクを渡し、伊藤さんが加奈のヴァイオリンをウエスで丁寧に拭き、弓に松脂を塗って純白のケースに入れる。そんな2人の動きをじっと見守る皆さん。

「いやあ!素晴らしい!」スポンサーさんが最初に拍手をしたのに続き他の皆さんからも次々に拍手が起こった。それに立ち上がって一礼して応える加奈と遥香さん。たちまち皆さんに囲まれた。

「そりゃあ上手に決まっているよ。遥香ちゃんは全日本学生ピアノコンクール総合1位、加奈ちゃんは総合第5位、さらに凄いのは加奈ちゃんは全日本学生ヴァイオリンコンクール総合1位の実力者なんだよ。」カメラマンさんの説明に驚く皆さん方だった。

すべての収録が終わり着替えをする加奈。なんと着用した衣装は持ち帰っても構わないとのことだ。大喜びの加奈。卒園式と入学式に着れると大はしゃぎだ。

着替えを終えて出てきた加奈と遥香さんはマネージャーさんと共に皆さんの元を巡ってご挨拶をして回る。皆さんから「また一緒に仕事をしようね!」という温かい言葉を頂いた。最後にスポンサーの皆さんたちの元へご挨拶に伺うと好きな色のランドセルを頂けるという。とっさに「水色が欲しいです!」と目を輝かせる加奈に皆さんにこにこ顔だった。

皆さんへのご挨拶も終えワゴン車へ戻ると賢人君たち3人が待っていてくれた。お互いに挨拶をして労をねぎらう2人。もうすっかり仲良しになっていた。お互いに携帯の番号を交換して手を振ってワゴン車に乗り込む加奈。賢人君も自分の車に乗り込み窓から顔を出して手を振ってくれた。

その頃、信子たち3人は千裕さんとスカウト部長さんと合流していた。優子さんのお宅へ伺うためだ。地図を頼りに教えて頂いた住所を目指す。そこは郊外の閑静な住宅街だった。最近開発された様で街路樹の幹がまだ細く若々しい。目的の優子さんのお宅へ到着。

門の前でインターホンを鳴らす。直ぐにお母さんと優子さんが出てきてくださった。ご挨拶もそこそこに家の中に案内される。優子さんはいきなりの貴公子優太君の登場にかなり動揺していた。

応接間に通されて待っていると優子さんがお茶を持って来てくれた。少し震える手で5人の前にお茶を置いてくれた。直ぐにお母さんがいらしてお互いにご挨拶を交わす。5枚の名刺を見ながら驚きを隠せないようだ。

「突然お伺いいたしまして申し訳ございません。」千裕さんがご挨拶の口火を切った。

「初めまして、私スカウト部長の佐々木と申します。本日はお時間を作っていただき有難く存じます。単刀直入に申しあげます。優子さんをスカウトしに参りました。」そう言って頭を下げる5人に恐縮する優子さんとお母さん。

改めて信子からスカウト、音楽活動の概要の説明が行なわれた。頷きながら一生懸命に説明を聞く優子さんとお母さん。説明が終わると今度は優子さんの現況について優太ママから質問が行われた。

それによると優子さんは地元の中学に通う1年生であること、ピアノは小学1年生から近所のピアノ教室へ通っていること、優子さんはピアノが大好きでピアノ奏者への憧れを持っていること、などが分かった。

早速、優子さんにピアノを弾いて貰うことに。

緊張気味の優子さんに優太君が優しく声をかける。

「は、はい。」と答える優子さんからは大分緊張が和らいでいった。

いよいよ優子さんの演奏が始まる。『渚のアデリーヌ』という女の子に人気の曲の一つだ。

じっと耳を傾ける5人。そんな5人を少し不安気に見つめるお母さん。演奏が終わると5人が拍手を送る。

「かなりお上手ですね。ところで先生はかなり年配の方ではありませんか?」信子の問いかけに驚く優子さんとお母さん。

「何故分かるんですか?」優子さんが驚き顔で信子に尋ねた。

「気を悪くさせたのならごめんなさい。演奏方法が“古典派”なの。だから年配の方じゃないかと思ったのです。」信子の説明に頷く親子。

「そうなんです。先生はもうお年で今年の3月で教室を廃業されるとのことなんです。」お母さんが少し残念そうに信子に答えた。

「跡を継がれる方はいらっしゃらないんですか?」優太ママが心配そうに親子に尋ねた。首を横に振る親子。

「もし、新しい音楽教室に生まれ変わったら皆さん引き続き通ってくださるかしら?今通っていらっしゃるのは何人位かしら?」信子の問いに20人位との返事が返ってきた。

「信ちゃん、碧さんのところで先生の手配とか出来ないかしら?」優太ママが信子に提案した。

「そうね、後は優香さんのところに委託するって手もあるわよ。」そう答える信子。2人のやり取りをじっと聞いている親子だった。

「ピアノ教室の件は改めて先生の所へお話を聞きに伺います。ところで生徒さんたちは4月からはどうされるのでしょう?」信子の問いにお母さんが答えてくれた。「ここは新興住宅地でなかなかピアノ教室が見つからないんです。だから中学生以上の子たちは隣町まで通おうかと話しをされているんです。小学生は帰りが遅くなるので保護者の送り迎えの負担が大きいとしてピアノを辞めるしかないとまで言う方も多くいらっしゃるんです。」

「それって可哀相すぎない?」今までじっと聞いていた優太君が重い口を開いた。頷く全員。

「ピアノ教室につきましては先ほどお話ししました通り先生にお会いしてお話を伺ったうえで前向きに検討したいと存じます。さて、優子さんの件ですが、4月からうちへ来て頂くことは可能でしょうか?早い内から本格的なレッスンを始めた方がよろしいかと。」信子は具体的な話を始めた。まだ13歳の女子中学生が一人で親元を離れるには本人もだがご両親にも相当な覚悟が必要だからだ。信子は加奈の例を引き合いに出し現状の説明をした。

「急がなくても結構です。卒業に合わせてというのも選択肢の一つです。ただ、うちの娘たちは優子さんが来てくれることを熱望しています。是非前向きにご検討頂ければと思います。」信子はそう言って説明を終えた。

「嬉しいです。ただ、父が何と言うか・・・。」優子さんとお母さんはそう言って顔を見合わせた。

「お父様とゆっくりお話しくださった後で結構ですよ。」信子はそう言ってほほ笑んだ。

「私共はこちら“セブンミュージック”さんのマネジメントを担当させて頂いております。日常でもマネージャーが付いて演奏活動を始め日常生活でもバックアップさせて頂きます。どうぞ前向きにご検討頂ければと存じます。」佐々木部長もそういってフォローしてくださった。

「失礼します。」突然男性の声が聞こえネクタイ姿の父親が入ってきた。「失礼ながら先程から台所でお話を聞かせて頂いておりました。申し訳ありません、私優子の父親でこういう者です。」そう言って立ち上がった5人と名刺交換をした。「町役場の助役さん・・・ですか。」佐々木部長がそういって4人を見つめた。

「お話は良く伺いました。優子のことを考えて頂いて本当にありがとうございます。優子の将来は優子自身が決めなさい。パパはそれに従うよ。」お父さんはそう言って優子ちゃんと母親を見つめた。

「パパ。」「あなた。」

「うん、うん。ゆっくり考えよう。」お父さんはそう言って2人を抱きしめた。

「あのう、信子さん。是非1曲弾いて聴かせて頂けないでしょうか?」父親からのリクエストだ。

「ちょっとあなた!」母親が父親に強い口調で諭すように言った。

「うわあ。嬉しいわ。中々娘たちみたいにフリーで弾く機会がないんです。」信子はそう言って立ち上がりピアノの前に座った。「それじゃあ『渚のアデリーヌ』を弾きますね。」信子はそう言って背筋を伸ばし演奏を始めた。

「!!!」驚く親子3人と佐々木部長と千裕さん。

とても何時も聴いている『渚のアデリーヌ』ではなかったからだ。プロならではの優雅な調べはスタンダードピアノが出している音色とはとても思えなかった。

「こ!これがプロの演奏なのか!」驚愕する5人。

更にこの演奏を聴いたご近所の皆さんたちが家の前までやって来たのだ。「誰が弾いているの?」そんな声が外から漏れ聞こえてくる。

演奏が終わると信子はため息をついた。「ああーっ、久しぶりにこの曲を弾いたわあ。」そう言って優子さんを見てほほ笑んだ。「楽譜通りも大切だけど心を込めることも大切なの。うちの子たちはそれを心がけて演奏しているわ。優子さんにもそういう演奏をして欲しいの。」優子さんの目をじっと見つめながら信子は言った。

「はい。私、頑張ります!」優子さんの力強い声が響いた。

その後の雑談の最中、信子の携帯が鳴った。それは若菜さんからの報告メールだった。

「あら、加奈ちゃんは無事に終わったのかしら?」優太ママが信子に話しかけた。「うふっ!可愛く撮って貰ったみたいだよ!」そう答える信子。

「そうか、加奈ちゃんは可愛いからなあ!」優太君も思わず話に加わる。暫く一緒に過ごした千裕さんも嬉しそうだ。

「加奈ちゃんって先程話してくださった幼稚園の子ですよね。凄いなあ。」そう言って感心する優子さん。

「優子さんも私共が全力で支えて参ります。」佐々木部長がそう力強く優子さんに語り掛けた。

その日の夜、撮影から帰ってきた加奈を美穂と歌穂が迎えてくれた。にこにこしている2人の姉に首をかしげる加奈。「リビングに行って!」という言葉に押される様に何時も通りリビングへ向かう加奈。

「ああーっ!」驚きの声を上げる加奈。リビングには加奈が両親に買って貰った大型の電子ピアノが鎮座していた。そしてまだ背が低い加奈のための高さが調節出来るピアノ椅子もしっかりとセットになっていた。「組み立てるの大変だったんだよ!」2人の姉が笑いながら加奈に言った。そんな姉2人にお礼を言いながら電子ピアノの前に座る加奈。白い歯を輝かせてとても嬉しそうだ。

「ねえ、加奈。これを弾いてみて。」歌穂が譜面立てに手書きの楽譜を置いた。

「えっ?何の楽譜?」そう言いながら楽譜をじっくり見つめると『みんなともだち』という題名が目に飛び込んできた。

「こ、これって・・・。」2人の姉の方を振り返る加奈。そしてその目から涙が溢れた。

「加奈!来年卒園と入学でしょ。そのお祝いに2人で作った曲だよ。」2人の姉は加奈の涙を拭ってそう言った。

「良かったわね、加奈ちゃん。最高のプレゼントだわ。」遥香さん、若菜さんと伊藤さんもそう言って祝ってくれた。

「この後皆にお話ししようと思っていたのだけど、加奈ちゃんの卒園記念コンサートの計画があるの。うちの事務所の方で実現に向けてもう準備が進んでいるのよ。4月の土日に予定されているのよ。」と若菜さんから報告があった。

「でも、卒業なら美穂お姉ちゃん・・・あっ!そうか!美穂お姉ちゃんと私は仕事があるからなのかあ!」歌穂の言葉に頷く美穂。「ということはピアノの伴奏は・・・。」そう言う美穂に「はーい!私でえーす!」という遥香さんの声が。「さっき出演依頼のメールを貰ったの。もちろんOKだよ!」

「わあーっ!嬉しい!」そう言ってまた泣き出す加奈だった。

「もう一つお知らせがあるの。九州の優子さん、こちらに来てくれるって!さっき信子社長から連絡が入ったのよ。」

大喜びの4人。

夕食の時間も優子さんの話で持ち切りだった。

食後のティータイムが終わると早速加奈が電子ピアノで『みんなともだち』を弾いてみることに。伊藤さんを中心に皆で電子ピアノをピアノルームへ移動させた。楽譜を一読する加奈。もうイメージが頭の中で固まった様だ。

加奈が電子ピアノを鳴らす。良い音を奏でる電子ピアノ。姉3人はお互いににっこりと頷きあっていた。

『みんなともだち』のメロディーが流れていく。

加奈は一音一音を確認する様に弾き進めていく。

「可愛い曲だね。童謡みたい。」遥香さんは少し目を潤ませながら聴き入っていた。

演奏が終わると4人から拍手が起こった。嬉しそうにはにかむ加奈の元へ3人の姉が歩み寄っていく。

「お姉ちゃんたち、ありがとう。」そうお礼を言う加奈に「良かったあ!」と喜び合う美穂と歌穂。

「加奈ちゃんのテーマ曲が出来たね!」そう言ってほほ笑む遥香さん。

「えへっ、今度はヴァイオリンで弾いてみるね。」加奈が嬉しそうにヴァイオリンを構えた。

加奈の持ち味である清らかな音が響く。4人がじっと聴き入る中、加奈の演奏が続いた。

「もう少しアップテンポの方が良いのかなあ。」詩を書いた歌穂が意見を述べてくれた。それに頷く加奈。

姉妹で意見を出し合って成長して行くのが娘たち流のやり方だ。「私たち高学年には今のペースがあっていると思うけど。」美穂も自分の考えをしっかりと出してくれる。

「今夜はそれくらいにしましょうよ。明日からは学校と幼稚園に行くんだから準備をしないと。私はお2人を駅まで送って行くわ。」遥香さんの言葉で加奈の演奏会はひとまず終了となった。


翌朝、何時もの様に朝食の準備だ。夜遅く仕事から戻ってきた里穂にはもっと寝坊して貰いたい美穂だったがそうもいかないのでインターホンで起きるように呼び掛けた。既に歌穂と加奈は顔を洗って食卓の自席に座っている。そんな2人にトーストとパックの野菜ジュースを渡す。そんな時間に遥香さんが若菜さんと伊藤さんを連れて駅から戻って来た。

7人揃っての朝食が終わると美穂と歌穂は大急ぎで食器を下げて食洗器へ。そして2階で加奈の身支度のお手伝いをしている遥香さんの周りを忙しく動き回って身支度をする。「いつもこんなに慌ただしいんだあ!」と独り言を呟く遥香さんだった。そんな遥香さんも一旦家に帰って午後からの音大の授業に向かうのだ。通学通園の毎日の始まりだった。

皆を乗せたワゴン車が出ていくと自分の車で家へ戻る遥香さん。何時もの生活に戻ることを考えると少し寂しくなってしまうのだった。

3人が通う小学校では何時も通り3学期が始まった。

ただ、初日の今日、優太君はお休みだ。クラスの女子たちから残念がる声も聞かれた。美穂も正直なところ寂しかった。長い冬休みだったがお互いの仕事の関係で会えたのはお正月の2日間だけだったからだ。しかし、明日からは毎日会えると思うと何だか元気が出て来る美穂だった。

美穂だけでなく里穂、歌穂も普段は普通の小学生だ。特に目立ったことはしない。言われなければ有名人とは分からない位だ。ただ、加奈は違った。幼稚園児とは思えない利発さ、そして何よりも可愛らしい容姿のため幼稚園の人気者だった。父兄の皆さんも常に加奈の言動や演奏活動などに注目していた。

園内では先生の代わりにピアノを弾くほどで園児たちのあこがれの的、まさしくアイドルだった。

そんな加奈が親元を離れてわが家から通園しているとは先生方しか知らない極秘事項で、父兄の皆さんは毎日送り迎えをしている信子が母親だと思っているのだった。そんな加奈の卒園は他の園児を巻き込んで開園史上初の盛大な卒園式になりそうだと噂されていた。


この週の土曜日、芸能プロ本社で4月からの加奈の“卒園記念コンサート”開催に向けての初会合が行われた。関東地区限定で、土曜日と日曜日の午後2時からの開演と予定されていた。15か所、それぞれの会場の説明が行われる中、会場の規模及び音響効果についての質問をする加奈。とても幼稚園児の質問とは思えない内容に驚く大人たち。加奈の希望は100人前後の収容力のある中規模の会場だった。それに遥香さんが補足をしてくれた。「加奈ちゃんはなるべくマイクを使わない生のヴァイオリンの音を聴いて頂きたいのでこの様なお話をしているんです。」

幼稚園児ながらプロ顔負けの心持ちに感心する出席者の皆さん方。副社長さんも感心して頷いていた。

一通りの会場の説明が終わると納得できた様で飛び切りの笑顔を見せてくれた。

更に、応援ゲストとして複数名のプロヴァイオリニストさんの参加希望があるという。幼稚園児の公演にプロが参加するという前代未聞の事態に出席者一同が驚きを隠せなかった。早速流され始めたランドセルのCMの後押しもあり加奈人気は里穂のそれに迫る勢いがあった。

会議も終盤に差し掛かった時、信子から曲目にこの2曲を入れたいとの提案があった。

「うん、うん。『涙の海峡』だね?」副社長さんはにこにこ顔で信子と加奈に尋ねた。

「はい。それと『みんなともだち』という曲です。この曲は出来たばかりで、よろしければ披露させていただきたいのですが。」信子はそう言って加奈を促した。

加奈はヴァイオリンを取り出し、ビシッ!と構えた。

そして静かな旋律が流れ始めた。『涙の海峡』だ。加奈の繊細な旋律が出席者の皆さんの胸に染み入っていった。そして次は元気の出るような『みんなともだち』だ。子供らしいメロディーは皆を笑顔にしていった。演奏が終わると皆さん笑顔で拍手をしてくださった。「泣かされたり笑わされたり、見事な表現力だ。とても6歳児とは思えんよ。」皆さん口々にそう言って褒め称えてくださった。

その頃、結婚式場では美穂と歌穂が招待客の皆さんをお迎えしていた。すると一人の小学生の男の子が立ち止まってヴァイオリンを演奏する歌穂をじっと見つめていた。

男の子は母親らしき人に急かされる様に席へ連れていかれた。そしてその子は披露宴の間、新郎新婦には目もくれず歌穂を見つめ続けていた。

それに気付いた美穂と歌穂はなるべく視線を外す様に努めていた。

披露宴が無事にお開きとなり大勢の招待客の皆さんが2人の小さな演奏者の元へ訪ねてきてくださり握手や記念写真の撮影などで賑わっていた。そんな時に男の子が現れた。その子の顔を見た歌穂は誰だかわかったようだ。男の子は歌穂の前に寄ってきて話しかけた。「ひょっとして歌穂ちゃん?」

学校で見る姿と今の姿のギャップがあり過ぎて見極めが出来ずずっと気になっていたようだ。

「うん、そう。でも今はお仕事中なの。ごめんなさい。」歌穂がそう言うと「じゃあ、月曜日に。」とにっこり笑って式場を出ていった。

「ふうっ!」ため息をつく歌穂。そんな歌穂に「うふふ。恋の告白だったりして!」と言って大喜びの美穂。そんな美穂に「もう!他人事だと思ってえ!」と言って口を尖らせる歌穂だった。

夕飯後のティータイムは久しぶりに全員が揃った。

よもや話に花が咲き笑顔が絶えなかった。

話題の中心は美穂と優太君の音大付属中学への進学の決定と4月からの加奈の“卒園記念コンサート”だ。

幼稚園の卒園を記念してのコンサートなど前代未聞の試みだからだ。その為か周りの皆の方が力が入るのだ。しかも出演出来るのは遥香さんだけということで尚更だ。加奈の希望を中心に皆で演目を検討すると色々な曲が提案され中々これという決定打がなかった。「メインはやっぱり『チゴイネルワイゼン』じゃあないかしら?」「最初の曲は『愛の挨拶』だよね。」という意見が姉たちから次々に提案される。それに目をくるくるさせて聞いている加奈がとても愛らしく皆の視線を集めるのだった。


翌、日曜日。今日、家に残っているのは加奈と優太君、そしてお昼前にやって来た遥香さんの3人だ。

久しぶりに3人でピアノルームにて練習に励む。

主に加奈と遥香さんが演奏し優太君がアドバイスするという構図が出来上がっていた。冬休みの間に加奈の実力が大きく向上していることに驚く優太君。

『歌穂ちゃんみたいだ!いや、それ以上かもしれない!』そう思うと興奮してしまう優太君だった。

『この演奏ならプロの皆さんに認めて頂くのも不思議ではないなあ。』加奈の演奏を聴きながらつくづく思う優太君。ついつい頬が緩んでしまう。そんな優太君を見ながら「くすっ!」と笑ってしまう遥香さん。

『優太君、加奈ちゃんの急成長にびっくりしているわ!』そう思うと自分の事の様に嬉しくなる遥香さんだった。そこへ打ち合わせを終えた信子と優太ママ、そして若菜さんが合流する。2人のママは加奈の才能の開花を改めて認識するのだった。


今日は何時もと変わらない月曜日となるはずだった。

お昼前に届いた郵便物の中に音大から美穂宛てのレターがあった。それを見た優太ママが急いで自宅へ戻って行った。

「美っちゃん、どうだった?」、戻って来た優太ママに信子が尋ねた。「うちにも来ていたわ!」そう言って優太君宛てのレターを信子に見せた。

「うふふ、どうかしら?」そう言ってほほ笑む信子に「2人なら大丈夫、きっと合格だよ!」そう言って笑う優太ママ。そう、2人が持っているのは美穂と優太君宛ての音大からの付属中学校の“合否通知”だった。

2人のママはワクワクをぐっと抑え娘たちの帰りを待つことにした。

娘たちが学校に行っている間に家事と練習に励む2人のママ。プロであるからこそ常に最高の演奏を心がけている2人のママだ。練習の傍らに事務処理も行わなくてはならない忙しい日々なのだ。特に事務処理を行う場所を優太君宅に移す計画もあり、それによりわが家の空いたスペースを上京してくるであろう優子さんの為に確保する必要もあるのだった。

そうこうしているとあっという間に加奈のお迎えの時間となる。信子は急ぎ足で幼稚園へ向かう。

幼稚園の玄関から大勢の園児たちが出てくる。そして自分を迎えに来てくれた家族を見つけて一目散に駆け寄ってくる。そんな園児たちを見ている信子の目に大勢のお友達と一緒に出てくる加奈の姿が飛び込んできた。

『うふふ。加奈ったら人気者ね!』

姉たちより一足早く家に戻った加奈は早速優太ママとヴァイオリンのレッスンに励む。小1時間程して3人の姉たちと優太君が賑やかに帰ってくる。子供たちが揃うとおやつタイムだ。今日は久しぶりに優太ママの手作り“レモンパイ”だ。手を叩いて大喜びの子供たち。早速切り分ける美穂と歌穂。まだ温かいホットな“レモンパイ”を頂く皆の顔は生き生きと輝いて見えた。

「ねえ、優太君と美穂。お手紙が届いているわよ。」信子はそう言って音大からの“合否通知”を2人に手渡した。里穂が気を聞かせて鋏を持って来てまず優太君に渡した。優太君は封を開けると、美穂に鋏を渡した。それぞれ“合否通知”を取り出し目を走らせる。

「わあっ!合格だあ!」2人ほぼ同時に歓喜の声を上げる。固唾を飲んで見守っていた全員が「おめでとう!」と言って力強い拍手を送ってくれた。

「あら、“健康診断と指定制服の採寸のご案内”が入っているわ。信ちゃん、美穂ちゃんの指定日付は?」

優太君から通知を預かった優太ママが信子に尋ねた。

同じように美穂から通知を預かり一読していた信子は指定日を読み上げる。すると優太君と同じ日だった。

「よく考えると中学、高校とも50人ずつ位しかいないんだよね。」そう言う優太ママに「ええっ!本当にすごく狭き門なんだね。」と里穂が驚く。それを黙って聞いている歌穂と加奈。お互いに見つめ合って「私たちも頑張ろうね!」と頷き合っていた。

その日の夕食後は遥香さんも駆けつけ2人の合格祝賀会が行われた。マネージャーさん3人も同時に駆けつけてくださり盛大な祝賀会となった。信子、優太ママ、歌穂の3人による大きな2つのケーキが作られてより一層盛り上がった。芸能事務所からはお祝いのお花とメッセージが届けられた。これらを信子が披露すると再び拍手が起こり場は益々盛り上がった。

場所をピアノルームに移してお祝いの演奏会となった。加奈の『チャルダッシュ』に始まり歌穂の『ロマンス第2番へ長調』、里穂の『涙の海峡』、遥香さんの『愛の喜び』と続く演奏のトリは美穂と優太君の『カルメン幻想曲』だ。豪華なプライベート演奏会を楽しむ3人のマネージャーさんたち。たちまち夜は更けて行った。

お風呂上がりのひと時、美穂は歌穂にそっと尋ねた。

「日曜日の子、どうだった?」

その話に食いつく里穂と加奈。

3人を見回しながら歌穂が口を開いた。皆思わず身を乗り出す。

「うん。お付き合いをしてくださいって言われたの。だけど・・・。」そう歌穂が切り出す。

「だけどおっ?」皆は早くその続きを聞きたいようだ。

「あのね、私、男の子と遊んでいる余裕がないの。だからお断りしたの。」そう言って歌穂は笑った。

「そうかあ。歌穂は練習熱心だからね。」里穂が残念そうに言った。

「確かにそうだね。プロとしての練習だけでなく楽器メーカーさんのお仕事と土日は式場での演奏、そう水曜日も演奏会があるからね。」美穂がうん!うん!と頷きながら話した。

そんな中、加奈は無言で俯いていた。

「加奈、共演した男の子が気になるんじゃあないの?」

今度は歌穂が加奈に尋ねた。

「ええっ?何それ?」美穂と里穂は初めてのその話に思わず食いついてきた。

「ああっ!ランドセルのCMで共演した男の子ね。」

美穂と里穂はそう言って顔を見合わせた。

「でも、私、どうしたらいいのか分からなくって。」そう言って困り顔を見せる加奈。「若菜さんには私から行動しないようにと言われているの。」

「ええっ!若菜さんに相談したの?」歌穂が驚いて加奈に問い質す。美穂も里穂も真剣な眼差しで2人を見つめていた。

「ううん。男の子の行動を見ていてそう言って教えてくれたの。相手は子役さんだから芸能界には慣れているって。だから私のマイナスになるかもしれないって。」そう言って皆に話せた安心感からかホッと溜息をついた。

「そうかあ、業界の男の子だとその心配があるわね。」

里穂もそう言ってため息をついた。


よく火曜日、2人のママは優香さんと一緒に九州へ飛んだ。空港で碧さんと合流し優子さん宅へ向かう。改めて今後の打ち合わせを行うのとピアノ教室の先生宅へのご挨拶に伺うためだ。

打ち合わせで優子さんに音大付属中学への編入追加試験を補欠枠で受けることを勧める信子。突然の信子の提案に驚いたのは優子さんとお母さん、そして優香さんと碧さんもだった。

「実は山川先生にお願いしてあるの。優子さんが合格するのが大前提だけど。」そう言って皆の顔を見回す信子。

「ちょっと待って。山川先生ってもうすぐ定年じゃあなかったっけ?」優太ママがそう言うと「そう言えば弾き方が古典的ということを聞いていたわ。」優香さんは少し懐かしそうに話した。

「実は古川先生のお母様は学校長さんのお母様の先生でもあるの。訳あって地元の九州に戻られてこちらの地元音大の講師として今田さんを指導されていたみたい。」

「えっ!今田さんってこれからお伺いするピアノ教室の?」優太ママの言葉に頷く信子。

「と言うことは私の先輩?」碧さんも驚いていた。

「まあ!今田先生はそんな経歴をお持ちの方だったのですか!」優子さんとお母さんはそう言って顔を見合わせた。

「ねえ、優子さん。また『渚のアデリーヌ』を聴かせて貰えないかしら?」信子のリクエストに小さく頷いてピアノ椅子に座る優子さん。そして曲がゆったりと流れ始める。

「えっ?」聞きなれた演奏と少し異なる『渚のアデリーヌ』に驚く2人。

「聴き慣れないから違和感あるでしょ。でもしっかりとした古典的演奏方法なの。」演奏が終わって拍手をしながら2人に説明する信子。「優子さんありがとう。」

「そうか!楽譜からして違うのね!」碧さんはやっと合点がいったようだ。

「うん。優子さんの楽譜は今田先生の古い楽譜からのコピーのコピー、つまり幾度となくコピーされたものなのよ。」信子はそう言って優子さんの楽譜を皆に見せた。

早速エアーで指を動かす碧さん。

「ちょっ、ちょっと待って!ここのパートの指の動かし方って?」流石の碧さんも大慌てだ。

「うふふ、びっくりでしょ。私も分からなくって。そしたら美穂が右手の指の間を左手での指を入れて弾くんだって教えてくれたの。」そう言って笑った。

「流石美穂ちゃんだね。」そう言って碧さんも笑った。

「それじゃあ、優子さん、金曜日の最終便で関東の私の家へ一緒に向かいましょう。あっ、お洋服は中学校の制服で良いわよ。お母さまもよろしくお願いします。」

その後4人は優子さんの案内でピアノ教室の今田先生の所へ伺った。

突然の音大の後輩たちの訪問に大歓迎の今田先生だった。雑談の後、ピアノ教室の今後の運営について優香さんと碧さんから数パターンンの説明があり熟考して頂けることとなった

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ああ!昭和は遠くなりにけり!! 第19巻 @dontaku

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