終電の向こうへ-間宮響子-
江渡由太郎
終電の向こうへ-間宮響子-
間宮響子は、タクシーに乗ることを嫌っている。
理由は単純だった。
――この乗り物は、「境界」を走る。
深夜零時を回った札幌の街は、生きている人間と、そうでないものの区別が曖昧になる。
特に、駅へ向かう一本道。
灯りが途切れる区間では、響子の霊感が必ず軋む。
その夜も、相談を終えた帰りだった。
運転手は無口で、バックミラー越しの目が妙に濁っている。
眠気ではない。
焦点が、現実に合っていない目だ。
「……この先、誰か乗せましたか?」
響子の問いに、運転手は一瞬だけ沈黙し、そしてこう答えた。
「……さあ。駅までですよね」
その言い方が、“さっきまで別の場所にいた者”のそれだった。
異変は、外灯が消えた瞬間に起きた。
歩道の端に、女が立っている。
白いコート。
年齢不詳。
どこにでもいる――はずの姿。
だが、響子の喉が、勝手に締まった。
「……止まらないで」
小さく言ったつもりだった。
だが、運転手はブレーキを踏む。
車内の空気が、一段階、古くなる。
後部ドアが、開いた。
女が乗り込んだ瞬間、響子の霊視に音がなくなった。
――聞こえない。
運転手は何かを話している。
女は頷いている。
だが、女の口は一度も動いていない。
会話は成立しているのに、声だけが、この世界に存在しない。
響子は、確信した。
これは霊ではない。
霊よりも厄介な、“役割だけを持った存在”だ。
女の目が、バックミラー越しに響子を見る。
赤い。
血の色ではない。
夜に慣れすぎた目の赤さだ。
「……あなたは、もう着いている」
女の声が、直接脳に流れ込む。
「駅は、ここ」
窓の外を見ると、線路も、ホームもない。
あるのは、暗闇に沈む、かつての街。
――遊郭。
――帰れなかった女たち。
――名を呼ばれ、乗り降ろされなかった魂。
「ここは、終点じゃない」
響子は、ポケットの数珠を握る。
糸が、音もなく切れた。
珠が、座席に散らばる。
それは警告だった。
“ここから先は、選べ”
女が、微笑む。
「あなたは、見えるでしょう」
「なら、乗る側じゃない」
運転手の目が、完全に虚ろになる。
ハンドルが、自然に切られる。
――線路のない場所へ。
響子は、声を張った。
「光の先へ進みなさい」
「ここは、あなたの居場所じゃない」
言葉は、呪ではない。
選択を示すだけの、標識だ。
女の表情が、初めて歪んだ。
「……ずるい」
その瞬間、タクシーが激しく揺れ――響子の意識は、闇に落ちた。
目を覚ますと、駅前だった。
運転手は正常。
メーターも正常。
女はいない。
「……寝てました?」
運転手は、そう言った。
響子は、答えなかった。
手のひらに残る、切れた数珠の感触だけが、現実だった。
降車後、振り返る。
タクシーは来た道を戻らず、外灯の消えた方へ走っていった。
後日。
同じ道で、同じ時間に、同じ女を見たという話が、ネットに流れ始めた。
「駅まで送ってくれるらしい」
「声は聞こえないけど、安心する」
「乗ったら、楽になる」
響子は、もう止めない。
選んだ者は、戻らない。
ただひとつだけ、確かなことがある。
――あの女は――今も、誰かの隣に座っている。
終電を逃した夜。
タクシーの後部座席が、やけに広く見えたなら。
そこには、もう“誰か”がいる。
振り返ってはいけない。
話しかけてはいけない。
駅へ向かっていると、思ってはいけない。
それは、もう着いている場所なのだから。
――(完)――
終電の向こうへ-間宮響子- 江渡由太郎 @hiroy
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