もういない人
小抜一恩
*
風に吹かれて、私は目を細めた。ほんの少し前まで冬の寒さが続いていたのに、スイッチを切り替えたかの如く、昨日から一気に春らしくなった。花も一斉に咲き出したらしく、風から甘い匂いがした。私は飼われている犬のように、靖彦に左手を引っ張られながら、くんくん風を嗅いだ。
靖彦がちょいちょいと、私の前髪を直す。これが彼のいつもの癖だった。
付き合い始めた頃の私は、まだ乙女らしい恥じらいを持ち合わせていて、風やあれやこれやに乱された前髪を、俯き加減に自分で直していた。けれどある夜、ベッドの上で汗まみれのおでこに張り付いた前髪を私の代わりに直したときから、前髪を直すのは彼の仕事になったのだった。
靖彦と出会ったのは、ちょうど一年ほど前のことだった。家に帰る途中で、あまり近所にいない雰囲気の男性を見かけた。なんとなく朝見たニュースのキャスターに似ていると思った。その人が伝えていた、桜が咲き始めたというニュースを思い出して、道草がてら近所の公園にふらっと立ち寄った。
ぼんやりとソメイヨシノを眺めていた。私もこの木みたいにクローンを作れたらいいのにな、と思った。世界は広すぎて、情報は多すぎて、私一人で処理するのは大変すぎる。花びらの向こうに見える空は淡くて、雲は綿菓子のように浮かんでいた。陽は傾き始めていて、東の方はもううっすら紫がかっている。桜の樹の下には蟻の巣があって、蟻たちが行列をなしていた。宇宙は蟻酸で満たされているという話だとか、蟻同士はフェロモンでやり取りするという話だとかを思い出しながら、ちょいちょいと行列にちょっかいを出していた。
「あなた、犬みたいだね。それか子ども。よく言われない?」
声をかけてきたのは、さっき見かけたキャスター男だった。これが靖彦だ。
ずいぶん直接的にものを言う人だというのが第一印象である。私は嘘や冗談を見分けるのが下手で、もう何度もそれに振り回されたことがあった。だから嘘やお世辞を言わない人はありがたい。良い人だな、と思った。
「どうして?」
「きょろきょろして、あっち行ったと思ったらすぐこっちに来たりしてるのがさ。散歩中の犬みたいじゃん。道端をずっと見つめてるのも犬っぽいし。」
なんとなく、そうかあ、そうかもしれないなあ、と思う。
よくよく考えれば、さっきすれ違ったはずなのに今同じ場所にいるのは不思議で、警戒心の強い人ならばすぐにその場から逃げるのだろうが、あいにく私はそういう勘が全く働かないタチなので、さらに彼のことを面白がる自分もいたために、立ち話を続けた。
「さっきもすれ違いましたよね?」
「へえ、気づいてたの? 歩き方が犬っぽくて、気になってついてきちゃった。ごめんね。」
何でもかんでも正直に言うところが良いなと思った。それに「気になってついてきちゃった」なんて、この人の方が犬っぽいじゃん、とも。
その後は、気がつけば二人でずんずん歩きながら話し続けて、お互いの素性は一切語らぬままに、何時間も経っていた。解散した頃にはすっかり夜の帷が下りていた。
それからは、私がふらふらと散歩しているとしょっちゅう彼と遭遇するようになり、いつしか一緒に散歩するのが日課のようになった。散歩に行く暇もないほど忙しいときもあったけれど、出会った公園に行けば大抵彼がいた。「おーい。」と声をかけてきた。行かない日にも連絡はしなかった。連絡先すら知らない二人だった。
近所はどこもかしこも歩き尽くした後には、市民向けに無料で開放している動物園に行くこともあった。動物園にいたハイエナを見て、私と見比べながら
「同じ犬なのにこうも違うんだな。」
と言う。
「ハイエナはどちらかといえば犬より猫に近いんだよ。」
「そうなの? 知らなかったな。変なこと知ってるのな。」
どこまでも失礼で、でもその失礼さが心地よかった。深いことを考えずにただそこに居ることを許されているような気がした。
ぐずついた天気の日にはよく、雨宿りがてら、名画座や温室の植物園に足を運んだ。白黒の映画は古臭くて面白くないだろうと思っていたのに、観てみると案外楽しめた。植物園は特に私のお気に入りだ。くねくね枝が曲がる木と、まっすぐに伸びていく木とを見比べるのが楽しかった。花によってそれぞれ色が違うのも面白かったし、咲く季節がそれぞれに決まっているのも興味深かった。何が彼らをこんなふうに隔てているのかが気になっていた。木や花の間をふらふらと歩き回る私を繋ぎ止めるかのように、靖彦は手を繋ぎたがった。私の左手を、彼の右手が掴むのが常だった。私はなんとなく、左手を中心に毎晩ハンドクリームを塗るようになった。
私と靖彦が散歩友達の一線を超えたのも、雨の日だった。予報で一日中晴れると言っていたから傘を持たず出かけたのに、歩き回っているうちに空模様が怪しくなってきた。と思った途端にバケツをひっくり返したかのような大雨。三十分ほどしたらさっきまでが嘘だったかのように晴れ上がって、でも濡れ鼠の二人に行き場はなく、いくら真夏の晴れの日といっても濡れたまま乾くのを待つのは気持ち悪いと靖彦が強く主張し、私の家で服を洗って乾かすことにしたのだった。二人して服を脱いで、外から入ってくる強い日差しに目を細めたり暑い暑いと言いながら冷房の風に当たったり子犬同士の如くじゃれ回ったりしているうちに、靖彦がぽつりと
「あなたって、手が綺麗だね。」
と言った。体の八割くらいが見えている状況なのに、今までも見えていたはずの手に言及するのが、なんだかおかしかった。
「手以外は?」
いたずら心で訊いてみる。
「好きだよ。」
何が? とは訊けなかった。
それから先も、相変わらずお互いに連絡先は知らないままだった。約束もせず、公園に行ったらそのまま街をほっつき歩く。ずっとずっと、そういう関係のままだった。お腹が空いたら何かしら食べ物を買ってきてベンチで食べたり、ときにはファミレスに行ったりもした。靖彦は骨付きのチキンを骨までしゃぶるのが好きだった。一緒にいるときに食べるのは、大抵その類のものだった。私は野菜スティックばかり食べた。
銀杏の黄色い葉が落ちる頃、一度だけ喧嘩をした。きっかけはもう覚えていないけれど、確か私が、いつもの調子の靖彦に
「どうしていつもそんなふうに、嫌な感じの物言いをするの?」
と尋ねたのだったと思う。やや強い口調かつ不機嫌そうな私に対して、彼はほんの少しだけ、びっくりしているように見えた。
「それは理由を知りたいの? それともやめてほしいということなの?」
いつもよりも気が立っていた私は、そう訊き返されるのもなんとなく嫌だった。それで、何も言わずにその場を去った。帰ったら着ていたパーカーのフードに銀杏の葉が入っていて、そのどこまでも明るい黄色に、また腹が立った。
そのまましばらく、私は公園へ行かなくなった。靖彦に会うのが気まずかったのもあるし、他のことで忙しかったのもある。
久々に公園へ足を運んだのは、とある用事を終えて家に帰る途中、まだまだ空が明るくて癪だったからだった。
やっぱり靖彦はいた。私を見ると、いつものように「おーい。」と言った。木枯らしが揺らした私の前髪を、いつものように彼が直した。
「なんかぺたぺたする。何?」
「さっきまで用事があったから、今日はお化粧をして家を出た。」
「へえ。」
その日の彼は一日中、私の髪に触れた右手を気にしていた。
冬は一瞬で過ぎて行った。寒がりな私は冬はあまり家から出ないし、その上忙しくもあった。寒い寒いと文句を言っているうちに、また春がきた。
一年ぶりに見るソメイヨシノの下には、一年前と同じように、蟻が行列を作っていた。菜の花が揺れているのが嬉しい。ポピーの赤い色も目につく。しかしついこの間まで寒かったので、まだ椿も花をつけていた。同じ赤でも、椿とポピーでは全然違う。
「どうしてだと思う?」
と靖彦に尋ねてみるが、
「そりゃ違う仲間だからに決まってるじゃん。」
などと言う。ロマンのかけらもない。
漂う香りに沿って川の近くまで歩くと、川の両岸に植っているソメイヨシノが一気に開花して、淡い桃色のヴェールがかかっているかのようだった。水面には花筏。言いようもなく嬉しかった。ふわふわと落ちてくる桜の花びらを追いかけながら、
「この速度が秒速五センチメートルって本当かな?」
と私は訊いた。靖彦は答えなかった。
春の風に乗せて、ぽつりと靖彦が言った。
「もう会えないや。」
「どうして?」
「だってあなたには、もう俺は要らないでしょ?」
靖彦がいた期間、靖彦以外の人間と会っていなかったわけではもちろんないし、靖彦なしの時間も、靖彦には見せない顔も、私にはたくさんあった。だから靖彦が私の生活からいなくなっても、案外日々は普通に進み続けた。怒りも泣きもしなかった。
前髪を直す人がいないので、目のあたりで切り揃えるのはやめた。風が吹いたら面倒なのだ。今ではもう頬骨の下くらいまで伸びている。
それから、左手に丁寧にハンドクリームを塗り込むのもやめた。繋ぐ人のいない手だから。もともと何もせずとも荒れたり乾燥したりしていたわけではないのだし、そのままでいいやと思った。しげしげと自分の手を見るのが、少し悲しかったのかもしれない。
もういない人 小抜一恩 @Nupyoon
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