氷の女帝は、システム(恋)にバグが多い。 〜論理武装した元同級生上司を、社畜の俺が物理的にデバッグする話〜

おこげ。

第1話:天敵がやってきた



「井伊くん、今度新しいプロジェクトに入ってくれないか?」


 3月下旬。

 総合Webサービス会社『グランツ』の子会社である『グランツテクノロジーズグラテク』の、お世辞にも綺麗とは言えないオフィス。その片隅で、入社3年目の終わりを迎えようとしている俺、井伊いい幸太朗こうたろうは、マネージャー上司からそんな打診を受けていた。


「プロジェクト、ですか」

「ああ。親会社の『グランツ』が主導する、会計営業システムのリプレイス案件だ。オンプレミスからクラウドへの移行と、機能追加がメインになる」

「クラウド移行……」


 俺は指先で頬をかきながら、頭の中で作業内容と工数を思い描いてみた。


 ――対象は、20年前のレガシーシステム、一度リプレイス済み。

 ――DB構造は基本的にそのまま。ならば、データ移行はカンタン。

 ――現行システムの仕様確認に1日。資料作成に半日。

 ――よし。実働2日で終わらせて、クライアントとの打ち合わせまではのんびりだな。


 結論:美味しい案件。


「分かりました。ちょうど、今年度案件の問い合わせも減ってきましたしね。入りますよ」

「助かるよ! いやあ、こういう地味な案件も嫌がらずに引き受けてくれるのは井伊くんくらいだよ」


 マネージャーはニコニコと頷いているが、俺の腹の内など知る由もないだろう。

 俺は別に、真面目なわけじゃない。

 ただ、徹底的に『楽』がしたいだけだ。


 俺のモットーは「E加減(いいかげん)」。

 Efficient(効率的)、Easy(気楽)、Enjoy(楽しい)。

 70点の成果を、他人から見えない30%の労力で叩き出し、残りのリソースを自堕落な生活に全振りする。それが俺の美学だ。


「あ、そうだ。今回のプロジェクト、実質的な指揮はグランツから出向してくる方がサブリーダーとして執ることになってるんだ」

「へぇ、そうなんですね」

「若いけど優秀な女性、らしいぞ。今日の午後には挨拶に来るから、よろしくな」

「はーい」


 グランツ親会社のエリート様か。

 まあ、適当に話を合わせて、実務はこっちで淡々と回せばいいだろう。

 この時の俺は、完全に油断していた。

 まさか、その「出向してくる方」とやらが、俺の平穏を粉々に打ち砕く天敵だなんて、これっぽっちも思っていなかったんだ。


 ◇


 12時50分。

 昼休み終了10分前。

 俺はお気に入りの窓際のワイドモニター席に戻って、午後の予定を練っていた。

 手元には、休憩スペースでベンダーが心を込めずに淹れた、紙コップのコーヒー。

 

「午後の予定は……打ち合わせが14時で、他はなし。 空き時間に頼まれてたデバッグすればいいか」


 デバッグと言っても、バグを一つ一つ目で探すような非効率なことはしない。

 先週のうちに作っといた自動テスト用のプログラム(テストクラス)を使って、面倒なチェック作業と再テストは半分自動で終わる。

 バグ取りなんて自分で考えなくても生成AIに放り込めば数秒で直ったものが返ってくる。

 さすがにチェック無しノールックって訳にはいかないが、労力は段違いだ。


 会社のお偉いさんが「時代は生成AIだ」とか言って、全社員に環境を用意してくれたおかげで、俺はこんなにも楽ができる。

 議事録だって、録音を文字化してAIに投げるスクリプトに放り込めば3分で終わる。


「ふむ。のんびりやっても、定時までに終わるな」


 我ながら完璧だ。

 俺は残りのコーヒーを飲み干し、小さく息を吐いた。

 70点でいい。それを30%の力で出すのがプロだ。

 頑張らない。無理しない。

 それが、かつて「神童」などとおだてられ、高校時代に本当の天才を見て達観した俺がたどり着いた、生存戦略。


 ――思い出すのは、高校へ入学してすぐのことだ。



 入学直後の実力テスト。俺は学年2位だった。

 だが、そん時の俺はまだ余裕こいていた。

 「本気出せば1位だろ」。そう思っていたんだ。

 中学の頃から、ちょっと勉強すればトップを取れるのが俺の才能だと思っていたからだ。


 迎えた一学期の期末テスト。

 俺はちょっとだけ・・・・・・本気を出した。

 テスト勉強なんてダサいと言いつつ、隠れて参考書を何周もした。


 結果は――また、2位だった。

 1位との点差は以前より開いていた。


 ――何故だ、と疑問を持ったのはわずかな時間で、すぐに答えに出会うことができた。


 気分転換に向かった放課後の図書室。

 そこには静寂と、窓際の席に座る長い黒髪の少女だけが存在した。

 彼女の机には、高校生が読むような参考書ではなく、大学レベル……? いや、見たこともないような海外の論文誌らしきものが広がっていた。

 彼女はペラペラとページをめくり、恐ろしい速度でノートに何かを書き連ねていた。


 そのときに初めて知ったんだ。

 天才は、誰よりも努力していたって。

 

 その背中があまりにも遠くて。あまりにも孤高で。

 俺は本を探す気も失くして、そのまま何も持たずに図書室を出た。

 

 『勝てない』とか『悔しい』じゃない。

 ただ、心の底から『ああ、よかった』と思ったのだ。

 世界には、こういう本当の天才がいる。才能があって、その上で誰よりも努力できる人間がいる。

 なら、俺みたいな凡人が必死になって一番を目指す必要なんてないじゃないか、と。

 あの瞬間の、憑き物が落ちたような安堵感を、俺は一生忘れないと思う。




「キーンコーンカーンコーン……。」


 13時。

 午後からの業務開始を告げるチャイムが、処刑の合図のように鳴り響いた。


「みんな、中央に集まってくれ! 今日から出向に来てくれた方の挨拶がある」


 部長の声に、社員たちがのそのそと集まる。

 弛緩した空気。

 コーヒーの匂いと、誰かのあくび。

 いつもの平和な子会社の風景だ。


 だが。


 カツ、カツ、カツ、カツ。


 廊下から響いてきた、正確無比なヒールのリズムが、その空気を一変させた。

 足音が近づくにつれ、喧騒が波が引くように消えていく。

 そして。


「4月からの正式着任に先立ち、本日付で先行着任いたしました。グランツIT戦略企画部の佐藤です」


 現れたのは、この薄汚れたオフィスには不釣り合いなほどの、圧倒的な「美」だった。

 背筋をピンと伸ばし、モデルのように洗練された立ち振る舞い。

 長い黒髪は一点の乱れもなく艶めき、切れ長の瞳は宝石のように冷たく輝いている。


 佐藤 ゆう


 姿を見せた瞬間、フロアの気温が5度は下がった気がした。


「システム2課で作業管理システムのリプレイス案件を務めさせていただきます」


 凛とした、よく通る声。

 だがその声色には、一切の感情が乗っていない。

 まるで高性能なAIが、テキストを読み上げているかのような無機質さ。


「…………んなっ!?」


 俺は思わず、声にならない悲鳴を上げ、とっさに近くにいたデカい同僚(高橋)の背後に隠れた。

 心臓が早鐘を打つ。

 嘘だろ。なんでアイツが。


 そもそもグランツ親会社のエリート様ってアイツかよ!?

 親会社のエースとやらが、なんでこんな子会社に?


「グラテクの皆様。時間は有限なリソースです」


 佐藤の視線が、値踏みするようにオフィスを一巡する。


「無駄をなくし、最大の結果を出しましょう。馴れ合いは不要です。どうぞよろしくお願いいたします」


 キーンと張り詰めた空気。

 挨拶というよりは、宣戦布告だった。

 ユルい環境に浸かりきっていた社員たちが、本能的な恐怖で顔を引きつらせている。


 間違いない。

 あれは、天敵だ。

 俺の「E加減」な美学とは対極に位置する、効率化の化身。

 見つかったら終わりだ。

 俺のサボりテクニックも、定時退社も、平和な老後(のような会社生活)も、全てが「最適化」という名の下に消去される!


 頼む、気づくな。

 俺はただのモブだ。背景の壁紙だ。

 石になれ、空気になれ……!


 しかし。

 神様は、いつだって俺にだけは厳しい。


 アイツの視線が、フロアを一周し――高橋の陰に隠れていた俺のあたりで、ピクリと止まった。


「――、あら」


 一瞬。

 本当に一瞬だけ、その氷の仮面がパリンと割れ、獲物を見つけた肉食獣のような、獰猛で美しい笑みが浮かんだ。


 ヒュッ、と俺の喉が鳴る。

 目が合った。

 ロックオンされた。


 俺は必死にモニターの陰に身を隠し、脂汗を拭った。

 終わった。

 嵐が来る。

 俺の平穏な子会社ライフが、音を立てて崩れ去っていく予感がした。


 ◇


 予感は的中した。

 午後の業務は、まさに地獄だった。


「この変数と関数、なんでコーディング規約に則ってないんですか? 修正してください」

「この会議、参加者が多すぎますよね。意思決定権のない人は退席して作業に戻ってください」

「日報のフォーマット、非合理的ですね。分析もできないし。作り直したので、明日からこれを使っていただいてもいいですか」


 佐藤は着任早々、子会社のゆるい空気をロジックの刃で切り裂いていった。

 言っていることは正しい。ぐうの音も出ないほど正論だ。

 だが、正しい薬が常に効くとは限らない。


 現場の空気は最悪だ。「なんだあの女」「本社様のお説教かよ」「氷の女帝クールビューティとか言われてたらしいぞ」という不満が、チャットツールの裏チャンネルで飛び交っている。

 特に酷かったのは、15時半頃に起きた「魔のExcel事件」だ。


「マネージャー。共有ドライブにある、この『【重要】日報集計_最新_最終_v3.xlsm』というファイルは何ですか?」


 フロアに響いた冷たい声。

 指名されたマネージャーが、ビクッと肩を震わせる。


「あ、ああ……それは、毎月の工数管理をしているツールだけど……」

「中身を見ました。なぜExcelのマクロが、直接社内データベースに接続しに行っているのですか? パスワードも平文で埋め込まれています。セキュリティホールそのものですね。あと、ファイルサイズが50MBを超えていますが、中身はゴミデータが大半です」


 ――うわ、やっぱりバレたか。

 俺は遠くの席で、画面から目を逸らした。

 自慢じゃ無いが、実はそのファイルの脆弱性、配属されてすぐに気づいていた。

 でも、指摘したら「じゃあ井伊くん、直しといて」って言われるのがオチだ。だから、見なかったことにしていたというわけだ。


「い、いや、それは私が長年かけて改良してきた秘伝の……!」

「必要ありません。メンテナンス性も皆無。即刻廃棄すべきです」

「は、廃棄!? 困るよ! それがないと今月の請求処理が止まってしまう!」


 泣きつきそうなマネージャーに対し、佐藤はふぅ、とため息をついた。


「……仕様は理解しました。代替ツールを作ります。15分待ってください」

「え?」

「今からPythonで書き直します。GUIはいりませんよね? コマンドラインで実行できる形式にします」


 そこからの彼女は速かった。

 いや、速すぎる。


 カタタタタタタタタタッ!


 目にも止まらぬタイピング速度。

 黒髪が揺れ、キーボードが悲鳴を上げる。

 ショートカットキーを駆使し、マウスには一切触れない。

 あれは――ゾーンに入った時のプログラマの動きだ。


 俺なら、どうする?

 同じ時間で作れるか?

 ……いや、俺なら既存のライブラリを探して、コピペして10分で書く。

 ゼロから書くなんて面倒なことはしない。


 宣言通りきっかり15分後、キーボードは激務から解放され、彼女はふぅと息をついた。


「できました。今後はこの『report_gen.exe』をダブルクリックしてください。いままでどれだけかかっていたか分かりませんけど、これは約2,3秒程度で終わると思います」

「な……2、3秒……!? 私のツールは10分以上かかっていたのに……」

「以上です。……皆さんも、こういう無駄な業務があったら申告してください。最適化しますので」


 シン……と静まり返るオフィス。

 マネージャーは涙目で新しいツールを起動し、「すげえ……一瞬で終わった……」と呟いている。

 便利になった。それは間違いない。

 だが、誰もが思ったはずだ。

 『この人、ヤバい』と。


 ……相変わらずだなあ

 俺は、その様子を少し離れた柱の陰から盗み見ていた。

 正しい。確かに正しい。圧倒的に正しい。

 でも、その「正しさ」は劇薬だ。免疫のないこの子会社には刺激が強すぎる。

 下手に近づけば、俺の「E加減」な仕事術サボりテクニックなんて、一瞬で論破され、最適化されてしまうだろう。


「あ、すみません。ちょっとトイレ」

「あ、資料室で過去の仕様書探してきます」

「あ、打ち合わせが」


 16時になって、すっかり意気消沈したマネージャーと共にフロア案内に行くまで、徹底的なステルススキルで逃げ回っていた。

 目を合わせたら終わる。

 何か仕事を振られたら、俺の「30%出力」計画が破綻する。

 なんとか定時の18時まで逃げ切れば、俺の勝ちだ。


 ――そう思っていたのだが。


 社員たちが帰り支度を始める中、佐藤がふと俺の席の横を通り過ぎる。

 その瞬間、耳元で衣擦れのような小さな声がした。


「――ずっと、探してたのよ」


 驚いて顔を上げるが、彼女はもう何食わぬ顔で歩き去っていた。

 ……空耳、か?


「よし、みんな! 今日は佐藤さんの歓迎会だ! 全員参加な、予約もしちゃったから!」


 18時ジャスト。

 空気の読めないマネージャーの一言で、俺の敗北が決定したのであった。

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