3152円
なんば
価値
引き出しを開け、残金を確認すると3152円だった。
これは僕の残りの寿命で、僕の価値でもある。
宙に手をかざして、掴んでみても何も起こらない。
そのもどかしさに耐えられずに、後ろのベッドに横たわると空き瓶の山が見える。
あの瓶にも中身が入っていたはずだ。今では空っぽで、何かに似ている。
仰向けになり、ぼやけた頭で天井を見つめている。
うとうとしていると、何かが頬を伝っていた。
あの空き瓶は、僕に似ている。
目を覚ますと、ナイフのような日差しがカーテンの隙間から溢れていた。
全てを暴いてしまいそうな光は、ゆらゆらと揺れている。
挑発しているのかと思い、コップを投げても、破片が飛び散っただけだった。
朝食を取ろうと、冷蔵庫を覗いてみても、何も入っていない。
ご飯を買いに行かなくてはならない。
ふらつく頭を押さえながらドアノブを回すと、真っ青な顔をした空が見える。
八月の日差しの眩しさに目を開けられずにいると、蝉たちが笑っている。
目を開けスーパーへ向かって歩き出すと、路傍の人々がこちらをジロジロと見て避けてゆく。
僕はそんなにおかしいのだろうか。
出勤時間と重なり、意識のない抜け殻が駅に吸い寄せられているのが見える。
おかしいのはお前らの方だ。
そう思ったはずなのに、足は自然と人の流れから外れていた。
スーパーへ着くと、誰かが入店するたびに、店員が「いらっしゃいませ」と元気に挨拶をしている。
それを横目に、カップ麺、便箋、封筒、切手を手に取りレジへ向かう。
ピッピッと音を立てて商品をスキャンしていく姿は、機械のようだった。
全部合わせて640円。また減った。
スーパーを出ると、足早に家へ帰ることにした。
公園で遊んでいる親子、わいわいと話している学生、やつれたサラリーマン、全部嫌いだ。
見えないように俯いたまま歩き続けた。
目線をあげると見慣れたドアがあった。この先には、唯一の居場所が待っているんだ。
素晴らしい場所に違いない。
妄想をしながら開けてみても、広がっていたのはいつもの光景だった。
カップ麺にお湯を入れ、引き出しから万年筆を取り出すと、便箋に書き始める。
「何がだめだったのか分かりません。僕にどれだけの価値があるのでしょうか。
僕はずっと、何かに自分を預けていないと壊してしまいそうで、歩けませんでした。 目に見えないものに寄りかかろうと必死で、今日も640円分、価値が減っていきました。」
書き終わると切手を貼り、封筒に入れ、ポストへ入れに行く。
帰ると伸びきったカップ麺を一口啜ったが、呑み込めなかった。
机上に置きなおすと椅子が後ろに倒れた。
その音がどうにも心地よく、しばらく何もしなかった。
寄りかかれなくなった椅子など、捨てられるだけだ。
しばらくすると、僕の身体に月光が縋りつき始めた。
それは屋上から垂れているようで、僕はそこへ向かった。
目線で糸を辿っていくとそこには三日月が見えた。
そう見えただけなのかもしれない。
それは大きく欠けていて、僕に似ていた。
三日後、郵便受けを開けると、散らかったチラシの上に一つの白い封筒があった。
軽いはずなのに、僕の手はその重さに震えていた。
自分の部屋へ戻ると、ゆっくりと封筒を開いた。
「分からない、という言葉が何度も出てきますね。
私も分かりません。ただ、減っていくものを数えられる人は、 まだ数える手を持 っています。
価値を預けたいなら、預けていい場所を間違えないことです。
手紙は受け取ります。 返事を出すとは限りませんが。」
文字を目で追うが意味が濾過され、透明の言葉だけが残っていた。
この封筒にはきっと薬のような言葉が書いてあるに違いないと信じていた僕は失望した。
冷めきった目でそれを引き出しへしまうと、それでも机に背を向けずにいた。
便箋を取り出し、手を動かす。
「前の手紙の返事を読みました。
分かったような、分からないような感覚があります。
減っているのを数えている間は、まだ残っている、というのが本当なら、それが一 番残酷だと思いませんか。
預ける場所を間違えないように、とのことですが、間違えたままでもここに出して いいのでしょうか。それだけ教えてください。」
それから数日、僕は特に何もせずに過ごした。
カップ麺と、水と、どうでもいい出費だけが増えていった。
この時から僕は残金を数えるのをやめていた。
数えなければ、減ったのかも分からないからだ。
部屋の隅の錯乱した本に目を通しても、景色が広がっているだけで、どれも手の届かない遠いどこかの話だった。
どんな傑作も、終わり以外は退屈なものばかりだ。
やはり、終わり以外に価値はないのだろう。
そんなことを考え、先生からの返事はまだかと郵便受けを覗くと、以前と同じ白い封筒が見えた。
手に取り机に置くも、結局そのまま外へ出た。
外は昼間とは裏腹に冷たく、熱が出ている時に背中を這う悪寒を思い出させる肌ざわりだった。
やがて海辺へ出ると、輪郭のない世界の中で波の音だけが耳の奥で響いていた。
夜空を見上げても、人工的な光で星の輝きさえ霞んでいる。
その光景を前に、僕は酷い無力さを感じてしまう。
誰かに追いかけられている気がして振り向いても、足跡があるだけだった。
どれもがくすんで見えるので、家へ帰り手紙を広げた。
「手紙、読みました。
前に書いたことへの返答も、問いかけも。
残酷かどうかは、私には決められません。
減っているものを数える行為が、人を保たせることも、壊すこともある。
どちらか一方だとは思っていません。
間違えたまま出していいのか、という問いには、「出すこと自体は止めません」としか言えません。
正しい場所かどうかは、ここに来るたびに、あなた自身が決めることになります。
文字だけでは伝わらないこともあるので、久しぶりに顔を合わせませんか。
今週の金曜日、午後四時。
駅前の喫茶店です。奥の席にいます。
話す内容を、今決める必要はありません。」
それに目を通したとき、妙に身体がゾクゾクし、猜疑心に苛まれた。
先生とは長い間文通を続けていたが、先生の方から誘ってくれるのは存外だった。
何かあるのではないかと尊敬している人間を疑ってしまうとは、そんな自分を憎んだ。
金曜日の昼、時計を見る数だけが増えていた。
久しぶりに会えるという言葉の煌めきに酔いしれると同時に、その光が怖かった。
長らく文字という僕の影だけを見続けてきた先生は、僕を見てどう思うのだろうか。
落ち着かないまま靴を履くと、街へ出た。
約束の時間まではまだあるが、足を動かさなければ不安が膨れ上がるばかりだった。
動かしたとて、それが萎むかは自分でも疑問であったが。
街並みはどこも中途半端で、目新しいものは見当たらない。
歩いても歩いても、同じ景色で迷子になってしまいそうだ。
近くの公園のベンチへ腰を下ろすと、湖を眺めていた。
お日様の愛情を受け、揺りかごに乗っているかのような姿は見惚れてしまうくらいに羨ましく、許せなかった。
時間が近づいてきたので立ち上がると、喫茶店へ足を運んだ。
店へ入るとコーヒーの匂いが鼻をくすぐり、客はそれほど入っていないようだった。
ゆっくりと奥の席へ向かうと、そこには先生がいた。
先生は目線を上げ、口を開いた。
「……思っていたより、ちゃんと生きていますね」
それだけだった。
挨拶をするわけでもなく、心配をするわけでもない。
褒められているのか、罵られているのか、僕には分からなかった。
「お久しぶりです。お元気でしたか」
「久しぶりですね。……手紙のままの人だと思っていましたが、案外そうでもない。もっと厭世的な目をしているかと想像していました」
「ですが期待を裏切られた、というほどでもありません。
人はだいたい、思っているよりも平凡な顔で、思っているより重たいものを抱えて座っているものですから。
あなたは、まだ自分を助けたいと思っていますか。それとも、見捨てる理由を探しに来たんですか」
この問いかけに僕は言葉を出せずにいた。
先生に会えば何かが変わると、漠然とそう信じてやまなかったからだ。
一呼吸おくと、どうにか言葉を絞り出した。
「自分を見捨てたい人間が、人に会いたがると思いますか。
……話す相手も、もう先生しかいないんです。
一人でいると、自分が何なのか分からなくなる。
だから、先生なら何か言ってくれるんじゃないかと、それだけです」
先生はコーヒーを口にした。
それは言葉を探しているというより、置き場所を探しているようだった。
「期待されても、困りますね。
私はあなたより少し長く生きただけで、上手くやれたわけでもない。
一人で分からなくなる感覚も、今だって消えていません。
それでも朝は来るし、日々は勝手に進む。
それを“生きている”と呼ぶしかないんでしょう」
先生は窓を見ている。
僕は返事を探したが、雑音ばかりが耳に入った。
「先生の口からそのような言葉は聞きたくありませんでした。
僕から見れば先生はとても立派な方で、尊敬に値します。
本だって、文字があるから本になるんでしょう。何も書かれていなければ、ただの白紙じゃないですか。」
先生は依然としてガラスを見つめている。
その目は、何かを見て哀れんでいるようだった。
「尊敬される側ほど、自分の中の空白をよく知っているものですよ。
だから私は、あなたの言葉を読めたんです。」
僕の目を見て言った。
その瞳には、僕に似た影が映っていた。
3152円 なんば @tesu451
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます