チヨは無敵

アスユニ

チヨは無敵

 チヨは無敵だった。

 ただ、それは腕力の話ではない。そして生まれた家の社会的、経済的な話でもない。ましてや心の強さなどといった精神的なものでもない。単純に、チヨには敵がいなかったのだ。

 そもそもチヨは捨て子で、ほんとうの親のことは知らない。しかし拾われた家で何不自由なく育った。もちろん実子との差は付けられたし、特別贅沢をさせてもらえた訳ではない。チヨを拾ってくれたのは庄屋さんで、小さい体でお手伝いをするとお腹いっぱいに食べられた。チヨは器量良しとは言えなかったし、捨て子だったことはみな知っていたが、それで扱いが悪いことなどなかったのだ。飢饉のときも追い出されなかった。チヨなりに悩んで、人買いが来たときには庄屋さんに相談したほどだった。しかしみな笑い飛ばして、チヨの頭をぐりぐりと撫でるだけだった。イナゴに限らず虫を取り、川で海苔や小魚を取り。山ではキノコや木の皮、草の根っこなどを取り。村は一丸となって耐え、そして凌いだ。年寄りはばたばたと死んだが、みな「年の順だから自然なことだ」と粛々と土饅頭を作っていた。

 年頃になると、チヨは庄屋さんの紹介で農家に嫁いだ。子供は五人できた。働き者のチヨは嫁ぎ先で大事にされた。嫁いびりなどなかった。

 チヨが、自分がどこかおかしいのではと気付いたのは三十路の頃、山で野伏せりに出くわしたときである。

 ぼろぼろの出で立ちで錆びた刀や鍬を持った髭面の男たちは、まるで人間に見えなかった。理性を持たない獣のようでしかなかった。チヨを見るや奇声を発し踊りかかってきた。

 しかし、恐怖に固まるチヨの三間も前で勢いをなくし、一間まで来て男たちは完全に足を止めた。しばらく見合ったのち、野伏せりは頭を掻いてきびすを返した。その様子は山中で出会った熊を髣髴とさせた。そういえば蛇もそうだ。頭上からぶらんと大きな蛇が垂れ下がり、ぎょっとするが、じっとチヨを見つめたあとはするすると藪に消える。

 ようやく、村の人たちが言っていることが理解できた気がした。熊は危ない。蛇は毒を持っているものもあるから気を付けろ。しかし、チヨには危険ではない。彼らはチヨの味方ではないかも知れないが、敵でもない。

 わしは運が良い。

 それまで、チヨはうっすらとそう感じていた。村の人たちは外の人間や熊や毒虫を警戒するが、そこまで恐がるものでもないのに、と思っていた。被害に遭ったことのある者が大袈裟に、子供を恐がらせるために──警戒心を養うために吹聴しているのだろうか、と。しかしそんな危険とは別に、子供は死に易い。山道を転げて死に、川に流されて死に、ものを喉に詰まらせて死に、高熱を出して死ぬ。チヨは転んでも死ななかったし、うっかり川の流れに足を取られても戻ってこられた。ものが喉に詰まったことはないし、病に罹ったこともない。捨て子だったが運良く死なずに生きている。顎が細くぎょろりと目の大きいチヨは、不器量な分だけ人より運が良いのだと、そう思っていた。

 しかし、野伏せりの件は別だ。

 相手は獣や虫ではない。害意を持って向かってくる盗賊だ。

 なのにチヨを見て害意を失った。チヨが器量良しなら慰み者として襲われたのかも知れない。けれど、そうでなくとも普通は殺されるものだ。振り上げた刀や鍬をそのまま振り下ろさなかった理由はなんだ? 得体の知れない不安がチヨの記憶を遡らせる。

 そうじゃ、と思い当たる事実はあった。

 虫に刺されなくなったのはいつ頃からだったか。小さい頃には蚊に刺されて掻きこわしたことは覚えている。しかしいつからか、蚊やブユの羽音すら聞かなくなった。蜂の大群に集られた義母を助けに駆け寄ったときにはもう、自分が刺されない確信があった。チヨにとってそれはなんの不思議もないことだったが、夫にはぎょっとされたものだ。しかし、虫はチヨの敵とはなりえないのだ。

 虫や動物に限らず、チヨは何かから危害を加えられるという経験がほとんどない。けれども夫やほかの家族、村の者は多かれ少なかれ、被害の経験がある。

(わしはただ運が良いだけなのか?)

 急に不安になった。

 意志の疎通の難しいものから被害を受けたことがないのは、運が良かったのだと言えるかも知れない。だが盗賊は? 虫や動物と同じくチヨの敵にならないというのが、運が良いでも別の理由があってのことでも同じとして。

(わしだけでは意味がない)

 山中に引き返していった野伏せりがまた降りてきて、村を襲ったらどうするのか。家人がみな殺されて、あるいは村の者がみな殺されて、ものを奪われたなか。チヨだけ生き残っても、そんなものは意味がない。おそろしさのあまりチヨは涙が出た。

 村の男たちは鍬や鋤で武装し、しばらく警戒を続けたが、結局襲撃はなかった。山中に潜伏した痕跡は見つかったものの、移動したのだろうと十日ほどで警戒を解いた。その後、村に野伏せりが来ることはなかった。一年、二年と経つうちにチヨの感じた不安は薄れていった。


 チヨの息子夫婦に子が産まれそうというとき、近くの川が氾濫し村を襲った。畑も田んぼも濁流にだめにされ、家々は倒れたり浸水したりし、村の者も何人か流されて死んだ。そんななか、チヨの家は奇跡的に水が避けて通り無事だった。しかしチヨの姿はどこを探しても見あたらなかった。代わりに赤ん坊が、どこから流れ着いたのか、チヨの家の側で泣いていた。これも縁だろうとチヨの息子夫婦が引き取った。


   *


 キヨは運が良い。

 赤ん坊のころ、ひどい嵐で川に流されたらしいが、けがもなくとある村に流れ着いた。それだけでなく、気の良い夫婦が引き取ってくれた。女房はキヨを拾ったその晩、産気づいて玉のような男児を産んだ。初産にもかかわらず安産であり、キヨが幸運を運んできたと喜んだからだ。キヨは産まれた赤子と一緒に乳を貰い、姉弟としてすくすくと育ったのである。

 川の氾濫でだめになった田畑は、村人総出で直していった。夫婦の家から上、山側には僅かな畑が残っていたし、豊かとは言えないが山の恵みなどで糊口を凌いだという。氾濫で運ばれてきた新しい土は、却って作物の育ちを良くした。落ち着いてからの川では、以前のように小魚が少しばかり獲れた。大変な時期ではあったが、それでキヨを川に流してしまうことはしなかった。

 わしは運が良い。

 出産時期の女が村にいなければ、たとえ拾ってもらえても満足に育たなかったに違いない。しかも、この村の者はみな人が良い。拾い子ということは知れ渡っていたが、それで村八分にされることはなく、ほかの子供たちとなんら変わりなく育ててもらった。夫婦の実子である弟も、その下に続けて産まれた弟妹も、みなキヨを姉と慕った。

 年頃になると、隣村の若者の元へ嫁に出された。キヨは器量良しとは言えなかったが、働き者だったので人気があった。村の中で引き合っているうちに、隣村の村長の目にとまったのだ。あれよあれよという間にキヨは、隣村の村長の次男に輿入れした。

 なんと運の良い女じゃ。

 しかしこの隣村は実家のある村よりもかなり大きかった。ひとたび戦が起こると、働き盛りの男たちは雑兵として徴発された。大半が何事もなく帰ってくるときもあれば、半数以下しか戻らないときもある。キヨの夫となった男は二回目の徴発で帰らぬ人となった。家と農地は大きくなった子供に継がせ、キヨは村長の勧めで別の男の後家に入った。しかしこの男は、家に入り込んだ熊に襲われて死んだ。キヨはその日、折好く別の農家の手伝いに駆り出されていて難を逃れた。

 わしは運が良い、のか?

 わしだけが?

 血の跡を辿り山狩りが続くなか、キヨは呆然と座り込んだ。夫をふたり亡くしたキヨは、自身の運は良いが幸運な訳ではないことに気付いてしまった。熊は山から下りてくる。ふつうに考えれば屋外にいる者が先に襲われるのではないのか。どうして家屋に熊が。前の夫は一回目の戦での乱妨取りに味を占め、行かなくとも許された二回目に率先して参加し死んだ。

 たしかに自分は被害を受けてはいない。それに熊も戦も、キヨ以外にも運の良い者はいた。自分だけではない。けれども、それで良かったかと言えば、そうではないのだ。

 山から煙が上がる。

 熊を追っていた村人たちがわらわらと山から出てくる。冬の近いこの時期、山は乾燥し、枝が擦れた程度でも火事になる。消し止めきれなかった、というような話が聞こえてくる。見る間に赤い火が山肌を上がってゆく。もくもくと煙が。キヨはふと立ち上がると、山へ向かった。騒然とする村人たちの目をすり抜け、火に向かってただ歩いた。

(わしが本当に運が良いなら死なぬはず)

 このときキヨは笑っていた。泣きながら笑っていた。自分の運を良くするために、夫が不運を引き受けたのかも知れない。そういえば赤子の自分が流れ着いた村では、何人か流されたりして死んでいるのだ。不運を押し付けてしまったのかも知れない、とキヨは思った。今、キヨは一人だ。不運をなすりつける相手がいなければ、もしかして、死ぬのかも知れない。キヨは確かめたかった。確かめた結果が死であるのならそれでも良かった。ふたりの夫に先立たれた女房など縁起が悪い。そう思われても仕方ないというのに、周囲は優しかった。もちろん夫に先立たれる女はそこかしこにいる。彼女らが嫁ぎ先で肩身の狭い思いをしていることを、キヨは知っている。働き手としての価値しか認められていないさまを。なのにキヨへの対応は親身だった。誰も彼もが。急に気持ち悪く思えてキヨは笑っていたのだ。

 火の燃えさかる方へと足を向ける。

 風の向きが良いのか、あまり煙たくない。空気は熱い気がする。踏みしめる山道も。ただ、歩けないような状況ではない。ずんずんと進む。生きていればまた別の男を紹介され、新たな家庭を持つことになるのだろう。このまま火に巻かれ死んでも構わない、そう思うのと同時に、死なない予感も大いにある。キヨは吹き荒れる気持ちを持て余していた。なかなか火に辿り着かない。どれだけ歩いただろうか。ふと、帯が緩んでいることに気付いた。ぐいと締め直す。足下が目に入る。足は煤けて真っ黒だ。わらじの下の土は焼け焦げていた。おかしい、とキヨは周辺を見回した。下草はほぼ燃えつき、灌木は根本あたりが残るのみ。椎の木の幹も焼けているが、上の方の葉はまだ無事だ。

 鎮火した? いや、先ではまだ燃えさかっている。

 移動した? まだ燃えるものは残っているのに。

(どういうことじゃ)

 火が逃げている。

 涙の乾いたキヨは不可解な思いのまま火を追った。どれほど追っても追いつかない。むきになって走る。山道ではさほどの早さも出ないが、それにしても追いつかない。石に躓いて転ぶ。張り出した木の根に躓いて転ぶ。緩んだわらじが脱げ、キヨは立ち止まる。帯もまた緩んでいる。着物の裾を引きずってしまっている。帯を締め直すが、どうにも着物が大きく感じた。

(どうしたことじゃ)

 手を見る。自分の手が小さい気がする。気のせいか。しかしそれより逃げる火の方が不可解で、キヨは裸足で再び走り始めた。キヨはもう村に帰ることなど思いつきもしなかった。


 その日起こった山火事は、不思議なことに山裾から消えてゆき、夜が明けるころには完全に鎮火していた。また、それから何日かあと、山向こうのとある町では大人の着物にくるまった三歳ほどの幼女が保護された。名前を聞かれたその子供は憔悴していて、キヨと言ったのかチヨと言ったのか判別がつかなかった。


   *

   *

   *


 トヨばあさんは若々しい。

 もう九十を過ぎたというのに、六十代と言っても通用するぐらいだ。先日の健康診断でもなにも問題がなかった。足腰もしっかりしていて、日々の買い物や用事を自分で済ませられる。

「ババア、その金を……」

 そういう訳で、銀行で生活費を下ろしたあとに悪漢に絡まれるのも初めてではない。

「お金が必要なの?」

「あ、いや……」

「そう」

 向けられたナイフに臆することなく、トヨは彼の横を通り過ぎた。悪漢はぼんやりとそれを見送った。彼はほどなくして強盗未遂と銃刀法違反で逮捕された。

 長い時間をトヨは生きてきた。

 一番古い記憶は山陽地方にいたときのもの。あれはたぶん戦国時代と呼ばれる頃のことだ。ふだんは思い返すこともないからだいぶ薄れている。しかし、山火事を追っていた自分が寡婦だったことや、なぜか小さくなって別の町に辿り着いたことははっきりと覚えている。それから、大きな事故や事件に遭うごとにトヨは体が若返って、居辛くなると別の町に移るようになった。今でこそ移動手段は多様だが、昔は人が村から出ることは難しかったものだ。戦が多かった時代はなおさら。

 戸籍が整備され始めると、失踪はともかく、移動先では記憶喪失を装うしかなくなった。今のトヨとなったときは隣町が空襲でめちゃくちゃになっていたから、無理なく新しい戸籍を作れた。今度若返ったときには記憶喪失という手は使えないだろう。ネット社会だし、DNAだなんだと科学的進歩が著しい。トヨばあさんが赤ん坊にまで若返るなら、同一人物と疑われることはずないだろうが。

 数百年を生きるなかで、トヨは自分の体のしくみについて、おおよそ理解した。

 自分の敵を退けるとき──トヨはそれまで自分が蓄えてきた時間を食われる。敵とは、単純に先ほどのような悪漢だけではない。小さなもので言えばウィルスから蚊や蜂、大きくは熊。暴走する車。そう、生物に限らない。無機物、そして自然現象にまで及ぶ。トヨの敵とは、トヨを害するもの全てである。あの山火事が逃げたのもそういうことだったのだろう。そしてそれはトヨ本人の認識が及ばない事象についても。敵に気付くより先に無力化されていることも多々あった。さらに言えば、時を経るごとに効率が良くなっている。山火事のときは四十路から幼児になってしまうほどだったが、今のトヨなら「あら、ちょっと若返ったんじゃあないの? 新しいファンデーション?」と不審を感じさせない程度でしかない。当然、悪漢を退ける程度では外見に変わりはない。

(これを「強くなった」と言っていいのかしらね)

 ここまで年老いたのは、覚えている限り初めてのことだ。

 いったい自分はなんなのか。知らないうちに人魚の肉でも食べたのだろうか。それとも人間ではないのだろうか。もしや宇宙人? 益体もない考えは時折トヨを苛んだが、自分の正体よりも、防げなかったことの方が悲しかった。

 そう、東京にいたら関東大震災を防げたかも知れない。広島や長崎にいたら、原爆を無効化できていたかも知れない。東北にいたら津波が来なかったかも知れない。

 そんなことは、もちろん想像でしかない。若返りにも限度があるだろう。その場にいたって、自分の周辺の数メートルだけが被害を受けないという可能性はある。けれど、もしかして、と思ってしまう。念のため、次に移動するなら南海トラフ巨大地震の想定される地域がいいかも知れない。富士山のことも考えると静岡県かしら──

「……あら?」

 ふと、頬にやった手を見ると、妙に皺が少なく感じた。

 どんどん張りが戻ってくる。人に見られたらまずいわね、とトヨは防犯カメラをも避けながら細い路地に入った。そのわずかな間にもトヨの肉体の時間は食われ続けている。

(なんなの? 何を退けているの?)

 周辺を見回しても、脅威になりそうなものはなさそうだった。ふと寒空を見上げた。飛行機もヘリコプターも見当たらない。しかしなんらかの脅威は確実にトヨに迫っているのだろう。思わずため息が出た。

(今度はどれくらい若返ってしまうのかしら)

 昭和時代あたりから、不器量と言われた自分の顔がもてはやされるようになったことにトヨは辟易していた。不細工であろうがそれで不利益を被ったことはない。なぜか細面に大きな目が美人という風潮になっている。おかげで無断で写真をとられることが多くなった。ここ二十年ほどではガラケーやスマホなど、個人が気軽に写真を撮る。若返ってしまったときを考え、トヨはなるべく被写体とならないように気を付けていたが、避けられない機会ももちろんあった。

(もしやこのまま、老衰で死ねるかと思っていたのに)

 歳はとる以上、死ねないということはないはずだ、と信じたい。戸籍上の話とはいえ、せっかく九十余年も慎重に歳を重ねてきた。

(ああ、疲れたわ。もう疲れたの)

 またやり直すのか。人生を。

 若返りが止まらない。手提げから手鏡を出し、そっと覗く。

「そんな……」

 もう二十代にしか見えない。莫大な時間を奪われている。鏡の中で幼さを増してゆく自分の顔を、愕然と見つめるしかできない。

「いったいどんな敵が……?」

 地震? 竜巻? ここは海が遠いから津波ではないはず。そうだ、ずっと妄想していた大震災を、まさに今、防いでいる? それにしては、周辺はあまりにも何も起こってはいない。広範囲に防いでいるからこんな膨大な時間を食われている? スマホでニュースを検索しても、今の状況に見合う結果は出てこない。速報も特にない。とうとう服が合わなくなってきた。

 住宅に囲まれた路地で途方に暮れる。このおかしな力が、せめて自分の意志を反映するものだったら、まだましだったのに。この能力はトヨの気持ちにお構いなしに発動してしまう。か細い息を吐き、トヨは狭い空を見上げた。

(あ)

 ふと、一番古いはずの記憶を飛び越え、襲い来る水が見えた気がした。

(ああ)

 武装した人たちを前に、村人を庇った。

 家を出たら村が土砂崩れで埋まっていた、自分の家以外は。

 崖から落ちそうな子供を助けた代わりに自分が落ちた。

 たくさんの敵が来て、その度に退けていた。

(わしはもっと古い時代にも生きておったのか)

 いつから。トヨはキヨだったときもあったし、チヨだったときもあった。イヨと呼ばれたことも、ほかの全く違う名前で呼ばれたこともあった。赤ん坊まで若返ってしまうと、記憶を保てないのかも知れない。それは不幸中の幸いでもあったはずだ。たった数百年ですらトヨは挫けそうなので。もみじのような手を見つめ、そしてやっぱり天を仰いだ。

(空から来るのか)

 ここまで若返ってしまうなら、トヨとしての人生も記憶も終わるだろう。次を生きるのは誰かに新しい名前を付けられるトヨなのだ。それはもう自分とは違う人間であると言っていいはずだ。つまり、もしこれで全部の人生が終わったとしても、トヨにはもう関係ないことだ。だって覚えていないだろうから。どんな巨大な脅威が迫っているかは分からず仕舞いだが。トヨはほっとした。やっと終わるのだ。

 こんな代償を強いる脅威はきっと、この周辺一帯がひどいことになるほどのものだろう。それを退けている。いつか想像したような大きな災害、それを退けている。それは今回が初めてではないのかも知れない。覚えていないだけで。

(わしは無敵じゃな)

 トヨはやっと笑った。やっと笑えた。訳の分からない体質だが、自分以外の人たちを守れることがこんなに嬉しいとは思わなかった。今日このために生を受けたのかも知れない、とすら思う。

(わたし、きっと、無敵のヒーローね)

 トヨばあさんは、そうして服と手提げを路地に残して消えた。



 その年、国際小惑星警報ネットワークは地球に衝突する可能性のある小惑星2024YR4について、トリノスケール3と発表したが、ほどなくしてその評価を1に、そして0に下げた。最終的に軌道予想の不確実性の範囲内からは、地球が外れると判明したとのことである。

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