第2話 学力テストと蜘蛛の糸

【起】


 進学校の放課後の静寂は、処刑場のそれに似ている。

 教壇に立つ芥川が作成した現代文の実力テスト。そこには一風変わった設問があった。

「問一:『蜘蛛の糸』において、カンダタが糸を蹴った瞬間の心理を、生存戦略の観点から一〇〇字以内で述べよ」

 生徒たちは困惑した。教科書が教える「エゴイズムの醜さ」という模範解答では、このテストの「正解(スコア)」は掴み取れない。彼らが信奉するのは、道徳ではなく、唯一無二の「正解」によって導かれる、極楽という名の高偏差値大学への切符だった。


【承】


 深夜の職員室。芥川は、学年最下位で「クラスの透明人間」と呼ばれる少年・神田の答案に目を止めた。

「糸を蹴ったのは、自分を救うためではなく、自分を『特別な一人』だと思い込みたかったからだ。地獄にいた彼にとって、救済とは脱出ではなく、他者との差別化である」

 芥川は、その歪んだ、しかし本質を突いた言葉に戦慄した。

 そこへ、隣の席の津島(太宰)がスマホを片手に声をかけてくる。

「先生は生徒に『生きろ』と教える。でも、生きることがこれほどまでにコスパの悪い地獄なら、一緒に死ぬ方がよほど優しいんじゃないですか? 僕、最近そう思うんですよね。先生の文学には、包帯が足りない」

 太宰の瞳には、かつて自分が焦がれた「芥川賞」という名の糸を見つめていた時のような、昏い光が宿っていた。


【転】


 翌日、生徒たちの間には殺伐とした空気が流れていた。

 情報を隠し、他者に誤った解釈を植え付け、自分だけが「A判定」の極楽へ行こうとする様は、まさに血の池で一本の糸に群がる亡者そのものだった。

 芥川は神田を呼び出した。「君の書いた『特別な一人』とは、君自身のことかね?」

 神田は無機質な瞳で答えた。「先生、俺はゴミです。でも、もし俺だけがこのテストで満点を取れば、俺を無視した全員が、俺の足元に跪く。その瞬間だけ、俺はこの地獄から抜け出せる」

 芥川は黙って、昨日書き上げたばかりの掌編を神田に手渡した。


【作中作:アントニオ猪木の糸】


 ある日の事でございます。

 極楽の蓮池のふちに、現代の「成功者」たちが集う高層ビルのラウンジから、一人の男がふと下界を覗き込みました。そこには、深い「格差」の底に蠢く、数多の亡者たちの姿が見えるのでございます。

 亡者の一人に、カンダタという男がおりました。地獄の血の池で、彼はかつて現世で踏みつけるのをやめた、古いプロレス興行のポスターに書かれた言葉を思い出しました。

「道は踏み出せば、それが道となる」

 するとどうでしょう。暗い空の彼方から、一条の眩しい光が差し込み、そこから真っ赤な「一本のタオル」が、するすると降りてきたではありませんか。カンダタは狂喜しました。これに縋れば、この見捨てられた底辺から、あのアリーナの照明が輝く「極楽」へ戻れる。

 彼は必死に、その赤い布に手をかけました。「1、2、3、ダァーッ!」

 ところが、ふと下を見ると、数千、数万の亡者たちが、カンダタの足に蜘蛛の子を散らすように群がっているではありませんか。

「こら、亡者ども! この闘魂は俺のものだ! お前たちは道なき道を歩いていろ!」

 カンダタがそう叫び、下の者の手を蹴落とした、その瞬間でございます。今まで何ともなかった赤いタオルが、カンダタの手元から「ぷつり」と音を立てて切れました。老婆の絶叫にも似た、虚しい繊維の裂ける音が響きます。

 カンダタは、再び逆落としに、元の「承認されない地獄」へ墜ちていきました。あとにはただ、極楽の空から「元気があれば、何でもできる」という無慈悲な放送が、乾いた音を立てて流れてくるばかりでございます。


【結】


 テストの結果が返される日、神田の答案には無慈悲な「零点」が記されていた。

「なぜだ! 正解はないと言ったじゃないか!」

 神田の叫びに、芥川は冷徹に告げた。

「君の答案には、『他者との差別化』とある。しかし、文学の本質は『他者との共鳴』だ。君は文学を、他者を踏みつける道具として使おうとした。その瞬間、君は文学を殺したのだ。……君が欲しかったのは文学ではない。ただの特権だ。そんなものは、私の教室にはない」

 神田が再び地獄(序列の底)へ沈んでいく横で、太宰が軽薄に笑いながら、絶望した神田の肩を抱いた。

「かわいそうに。先生の糸は細すぎるんだよ。僕の『心中』っていう太いロープなら、もっと楽に天国へ行けるのに。……ねえ、一緒に死ぬ勇気、ある?」

 芥川は、自らの手で地獄に突き落とした教え子を見つめながら、チョークで黒板に『自業自得』と、殴り書きするように記した。

 太宰が投げたロープが、新たな絞首刑の縄になることを予感しながら。


【了】

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