現代文豪転生録:芥川先生、今日も誤読される。
不思議乃九
第1話 羅生門が読めない
【起】
黒板を叩くチョークの音が、ひどく虚しく教室に響く。
教壇に立つ男——芥川は、自著『羅生門』の結末について語っていた。下人が老婆の衣類を奪い、闇へ消えていく。その「生きるための罪」という重厚なテーマを。
「……ここでの下人の孤独、そしてエゴイズムの極致。君たちはどう感じるかね?」
問いかけに返ってきたのは、思考の深淵ではなく、スマートフォンのバイブ音と、最前列の生徒が発した乾いた声だった。
「先生、結局それ、コスパ悪くないっすか?」
芥川は眼鏡の奥の瞳を瞬かせた。コスパ。その三文字が、彼の精緻に組み上げられた文学の塔を、無造作に蹴り崩す。
【承】
放課後の職員室。芥川は胃の腑を焼くような不快感に耐えながら、パイプ椅子に沈んでいた。
「先生、今の時代『文学』なんて、タイパもコスパも最悪なコンテンツなんですよ」
声をかけてきたのは、隣のクラスの担任、津島——太宰だ。彼は最新のスマホでSNSの反応をチェックしながら、薄笑いを浮かべている。
「いいですか先生、今は『共感』ですよ。読者が自分を投影して、気持ちよくなれる言葉を投げてやればいいんです。下人の悩みなんて、今の生徒には届きません。彼らが欲しいのは、一瞬で心が浄化される『エモさ』なんですから」
太宰は画面に並ぶ「いいね」の数字を誇らしげに見せつける。
芥川は、自分の名前を冠した賞を獲った男の、あまりに安直な言葉の扱いに絶望した。
「……津島、君は言葉の毒を知らなすぎる」
【転】
その夜、芥川は独り、ノートPCの青白い光に照らされていた。
生徒が口にした「コスパ」、太宰が誇る「共感」。そのどちらも、人間の業から目を逸らした欺瞞に過ぎない。彼は、かつて自分を死に追いやった「ぼんやりした不安」が、現代では「はっきりした数値」に姿を変えていることを確信した。
翌朝、彼は昨日自分を論破した生徒たちの机に、黙って一枚のプリントを置いた。
タイトルは『羅生門2025』。
【作中作:羅生門2025】
ある日の暮方の事である。一人の下人が、首都高速の巨大なデジタルサイネージの下で、雨やみを待っていた。
かつての都の荒廃は、今や情報の過剰な供給と、数値化された人間の価値によってもたらされている。下人の頭上では、AIが算出した「エンゲージメント・スコア」が絶え間なく更新され、道行く人々の価値を、その瞳の輝き一つから冷徹にデータベースに記録していた。
下人は、職を失っていた。正確には、彼の「貢献度スコア」がAIによって「ゼロ・ポイント」と判定されたのだ。この社会では、スコアの低い者は存在しないも同然である。雨に濡れる彼の肩を、誰も、スマートセンサーすらも一瞥しない。
彼は、かつて地下駐車場だった、今はホームレスのシェルターと化した場所に身を潜めた。そこには、一人の老婆がいた。老婆は、無数のジャンク品と化したスマートデバイスを繋ぎ合わせ、怪しげなプログラムを走らせている。彼女が盗んでいたのは、死者の「電子的な未練」——すなわち、SNSのログイン情報や、秘密のクラウドストレージの認証データだった。
「おのれ、何をしている」
下人が老婆を組み伏せると、老婆は喘ぎながら、皺だらけの顔に薄気味悪い笑みを浮かべた。
「何、死んだ奴らの『データ』を売って、明日のベーシックインカムを稼いでるだけだよ。これを売らなきゃ、あたしはシステムからログアウトされてしまう。あんただって、このままじゃ『非登録者の幽霊』だ。生きていくためには、誰かのデータを剥ぎ取るしかないじゃないか」
老婆の声には、現代特有の、乾いた合理性が宿っていた。下人は、激しい嫌悪に襲われた。と同時に、ある冷酷な勇気が、彼の胸に沸き起こった。この社会において「正しさ」とは、自身のスコアを維持することに他ならない。
「そうか。では、俺が君のデータを奪っても、恨みはすまいな。そうしなければ、俺も明日の接続が切れる身なのだ」
下人は老婆の手から、無数の認証キーが書き込まれたデバイスを奪い取った。下人は、デジタルサイネージの光の中に駆け出した。彼は、奪ったデータを使って、自分のスコアを「最高値」に書き換えた。
次の瞬間、街中のセンサーが彼を「優良アカウント」として認識し、暖かな光を浴びせた。人々が彼に微笑みかけ、最上のサービスを提示する。下人は、光り輝く街を見渡し、独りごちた。
「……なるほど、これが君たちの言う『生き残る術』というやつか」
下人の行方は、誰も知らない。ただ、新宿の巨大モニターには、その夜、一瞬だけ「エラー:人間の定義が不明です」という文字が、虚しく点滅していた。
【結】
授業が終わっても、教室は異様な静寂に包まれていた。
プリントを読み終えた生徒たちの顔から、昨日までの余裕のある退屈が消えている。
放課後の廊下。壁に寄りかかり、電子タバコを弄んでいる太宰がいた。
「……残酷ですねえ、芥川先生。先生は彼らに『恐怖』を与えた。でも、それだけだ。絶望の底に突き落として、這い上がるための梯子を渡さなかった。人は、絶望だけでは生きていけないんですよ。先生の文学は、人を救うためのものですか。それとも、正論で人を殺すためのものですか?」
芥川は答えない。窓の外、夕闇が迫る新宿の街並みが、まるで巨大な電子回路のように冷たく発光し始めていた。
「……それを考えることが、文学を読むということだ。君にも、彼らにもね」
そう言い残して去る芥川の背中に、太宰は小さく笑い、スマートフォンを操作した。その画面には、芥川が配ったプリントの画像と、『#この絶望がわかる人いますか』というタグが、既に書き込まれていた。
【了】
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