たゆ

ギィーー バタン


玄関の扉を開けると珍しく母親がいた。

黄ばんだ白いシャツによれたジャージ着て

面白くもなさそうなテレビ番組を見ている。


「ただいま。」


小さくそう言ったが母親は返してくれなかった

仕方なくカバンを置いてコンビニに行こうとしたところ、徐に母親が口を開いた。


「兎、あんた明日から修二の家に行って。」


「えっ?」


突然母親から言われたこの言葉を私は理解できなかった。修二というのはおそらく母親の弟、つまり叔父の事だろう。確か東京で建設業を営んでいるはずだ。

その修二の家に行けというのはどういう意味なんだろう。兎が頭の中で色々と考えていると、


「この家出て修二の家に住めって言ったんよ。」


体の中に衝撃が走った。この家を出ていく、そして東京の叔父の家に住む。たった一行で完結するこの事実がどれほど兎の人生を変える事だろう。兎は咄嗟には何も言えずに押し黙っていた。しかし数秒後には怒号が飛び出していた。


「ちょっと、どういう事なん⁈

 久しぶりに帰ってきたと思ったら何⁈

 東京に行け?そんなん嫌に決まっとるやろ!

 大阪に何人友達いると思ってるん?

 その子ら捨てて東京になんて行くわけあら 

 へんやん!」


兎は涙ながらにそう言ったが、母親はただぼさぼさの髪を掻きながら


「そんなん知らんわ。

 飛行機、明日の13時やから準備しといて。」


と言っただけだった。

この人に何を言っても無駄だと悟った兎はただ

この憎たらしい母親の背中をギッと睨んだ。


___

次の日は皮肉なほど空が青かった。

ボストンバッグに数少ない衣服と日用品をいれて兎は母親が運転する車に乗り込んだ。

あまりにも急遽な事なので友達には何も言えなかった。学校に行ったら突如として友人の転校を告げられる友の事を思うと胸が痛くなったが、兎はこられるしかなかった。

空港に着いた時にはもう12時10分だった。


「鰻でも食おうか。」


と母親が言ったことに兎は驚いた。

そんな贅沢な食べ物を母親から提案するとは。

とはいえ鰻を食べてみたかったし、断る理由もない。兎は黙って頷いた。

店はそんなに混んでいなかった。メニュー表に

載っている料金は普段のコンビニ弁当よりも遥かに高く兎は躊躇した末 一番安い鰻重を頼んだ。

一方母親は一番高い鰻重を頼んでいた。

注文を待っている間兎は東京での生活を想像していた。どうせろくな物ではないだろう。しかしへこたれたくはない。母親に目一杯の幸せを見せつけなくては死んでも死に切れない。

兎は精一杯耐え抜く決意を固めた。

その内に注文が届いた。しかし母親はすぐには食べようとしなかった。何故だかボーッと鰻重を見つめている。何となく気まずくて兎も料理を口に運ぶ気になれない。

そのうちに母親が


「食べよっか。」


と言ったおかげで兎はようやく初めての鰻を口にすることができた。しかし思ったより美味しくはなかった。途中母親は箸を持ったまま止まり、何か言おうとして、結局何も言わなかった。そして無言なうちに食事が終了した。そろそろ時間かな、などと思っていると母親が


「早う登場口に行き。」


と言った。コクッと頷きカバンを肩にかける。

何となく母親ともう会えない気がした。しかし

顔を見る気にもなれず振り返らずに店を出た。

チケットを握りしめて搭乗口に向かう。

何故だか目からは涙が溢れていた。

10分後羽田空港行きの飛行機が飛び立った。


___

東京での生活は思ったよりも良いものだった。

疎まれると思ったが叔父さんは兎に優しくしてくれ、兎の部屋やスマホをくれた。

学校では友達も出来た。関西弁が珍しいのか皆しきりに兎に話しかけてきた。

東京の生活に馴染んできたある日のこと、

帰ると叔父さんが深刻な顔をして兎に言った。


「兎ちゃん、お母さんが亡くなったんだって。

 身元確認をするから今から大阪に行こう。」


久しぶりの母親との再会は警察署で行われた。


「母だと思います。」


おぼろげながらこう言った気がする。

気づけば葬式は終わっていた。

母親の死を知らされた時、私は泣かなかった。

驚きもしなかった。

ただ「そうなんだ」と思っただけだった。

それからの日々も、特に何かが変わったわけじゃない。母のことを思い出さない日もあった。

それなのに、どうしてだろう。

大阪を出たあの日空港で食べた鰻のことだけは

何度も何度も思い出してしまう。

煙の向こうで何も言わずに鰻を見つめていた母の顔を、私はまだはっきり覚えている。

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たゆ @11253

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