スモールスモールピュアハート

野梅惣作

三角形の秘密

世の中には気にする事が多すぎる。


特に小心者の私にとって、社会というのは管理されていない山道のようなもので、

非常に歩きにくい。


そんな小さなハートを持つ私も、

それなりに大きな会社で、そこそこの給料をいただきながら、

毎日一所懸命に生きている。


私の勤めている会社は、都内に七階建ての自社ビルを持ち、毎日数百人の人間が朝から晩まで働いている。


私の所属する部署は五階に位置し、

四階は会議や研修に使われるため、普段はあまり人がいない。


私はトイレに行く時、

五階のトイレを使わず、四階のトイレを使うようにしている。


理由は幾つかある。


まず一つは、


『あいつ、トイレよく行くなぁ』


と、思われたくないからだ。


私は朝のルーチンとして、必ずペットボトルのコーヒーを飲む。

新卒の頃から、通勤時に毎日欠かさず飲んでいる。


そうすると午後にはカフェインの効果で膀胱がパンパンになり、何度もトイレに行く事になる。


トイレは廊下を出たらすぐの所にあるので、

いくら電話をする振りやゴミを捨てに行く振りをしても、トイレに行ったのがバレてしまう。


もう一つは、

大をする時は一人で静かにしたいからだ。


下品なので理由は避けるが、

多分皆様の予想通りの理由である。


人によっては「なんだそんなことか」と言われるような理由だ。

だが、小心者の自分にとっては、

四階のトイレを使うには十分すぎる理由になる。


それを後押しするように、

四階には自動販売機がある。


私達のような小心者は何故か、

見つかった時の言い訳も常に考えている。

(勿論、こんなどうでもいい事を指摘する人などいない)


そこで自販機が素晴らしい仕事をしてくれる。


私は四階に降りる際、

エレベーターを使わずに階段を使う。


理由は、人目を避ける為と、

一階降りるだけでエレベーターを使うのが、

なんとなく気が引けるからだ。


階段で降りた場合も、

エレベーターで降りた場合も、

四階に入る際は扉を開く事になる。


扉が開くまでは、

四階に人がいるかいないかは分からない。


もし人がいて、

もし同じトイレ目的だった場合、

四階トイレはもうオアシスではなくなり、

蜃気楼となって消えてしまう。


そこで私は、自販機に向かう。


あたかも飲み物を買いに来ただけで、

トイレに用事はありません、

といった顔で。


そしてまた五階に戻り、

少し時間を置いて出直す事ができる。


トイレから出た時も、

自販機は仕事をしてくれる。


本来自販機の仕事は飲み物を売る事だが、

私にとっては違う。


トイレから出た時に誰かに遭遇してしまった場合、自販機に逃げる事で、私は「飲み物を買いに来たついでにトイレに寄っただけ」

という大義名分を作る事ができる。


小心者の私にとって、

トイレに行くというのは一つのミッションである。

確実に遂行しなければならない。


この七階建ての本社ビルは、

竣工してまだ数年の綺麗なビルだ。


清掃員も雇っていて、

朝にはトイレットペーパーも綺麗に三角に折られている。

使う側としても、非常に気分がいい。


ある日私は、

外回りの仕事が長引き、

定時過ぎに会社へ戻った。


自分の席に座り事務作業をしていると、

トイレに行きたくなってきた。


人もまばらだったが、

いつも通り四階のトイレに行く事にした。


いつものように一番奥の個室に腰掛け、

用を済まし、

トイレットペーパーに手を伸ばす。


そこには、

三角に折られたトイレットペーパーがあった。


その時、私はふと孤独感に包まれた。


数百人が働いているこのビルで、

わざわざ四階のトイレを、

こんなしょうもない理由で使っている

矮小な存在など、

私しかいないのではないかと思った。


私の務める会社には善人しかおらず、

パワハラやセクハラ、モラハラもなく、

非常に働きやすい環境である。


こんな環境でさえ、

四階のトイレに向かってしまう自分が、

少し情けなくなった。


ある日、

同僚と、会社で雇っている清掃員の話になった。


いつも事務所を綺麗にしてくれて、

朝、すれ違えば元気に挨拶してくれる。


私達も、

その挨拶で少し嬉しい気持ちになり、

仕事を始められる。


トイレットペーパーの三角折もそうだが、

清掃員という契約以上のものを、

会社にもたらしてくれている。


そんな話をしていると、

同僚が少し恥ずかしそうに微笑みながら話し出した。


「実はさ、恥ずかしい話なんだけど、

私トイレが近くて、一日に何回も行く事があるの。


でも、何回もトイレ行くのがなんか恥ずかしくてさ。

たまーに四階のトイレ使うんだよね。


でもさ、四階なんて普段誰もいないから、

わざわざ清掃員さんの仕事増やすのも嫌でさ、

使った後に、わざわざ三角に折り直してるの」


それを聞いた他の同僚は、


「なんじゃそら」

「そんなの気にするの、あんただけだよ」


と笑いながら、小馬鹿にした。


私はとにかく嬉しかった。

心の中にあった孤独感は、

いつの間にか薄れていった。


あの三角折は、

私一人のものではなかったのだ。


私はそれからも、

毎日会社に行き、

資料を作り、

メールを返し、

四階のトイレに通う。


小心者なりのルートを選びながら、

躓いたり、

転んだりしないように。


静かに、慎重に、

今日も私は、

社会を歩いている。

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スモールスモールピュアハート 野梅惣作 @Noume8083

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