紡がれる恋の話
Nemu°
エピソード1
朝の空気は少しひんやりしていて、吐く息が白く見えるかどうか微妙な季節だった。僕は家を出て、いつもの角を曲がる。そこには必ず、彼女が立っている。
「おはよう」
「ん、おはよ」
幼馴染の彼女は、少しだけ眠そうな顔で僕を見上げた。目元をこすりながら、小さく欠伸をする。彼女の家は僕の家から徒歩三分。物心ついた頃から、この角で待ち合わせるのが習慣になっていた。
「今日も起きるの遅かったでしょ」
「うるさいな。ちゃんと間に合ってるし」
「ギリギリじゃん。昨日も走ってたし」
「走ってない。早歩きしただけ」
「それ走ってるって言うんだよ」
こんな他愛ない会話をしながら、僕らはいつものルートで学校へ向かう。商店街を抜けて、小さな公園の脇を通って、踏切を渡る。歩く速度も、会話のテンポも、何年もかけて自然と合うようになっていた。
「ねえ、昨日のドラマ見た?」
「ああ、見た見た。あの展開はないよな」
「でしょ?ありえないよね。普通あそこで告白する?」
「しないしない。空気読めてなさすぎ」
彼女はテレビドラマが好きで、僕はそれに付き合って見ている。正確に言えば、彼女が翌日話したがるから、仕方なく見ているという感じだ。でもそれも、もう習慣になっていた。
踏切が鳴り出す。赤いランプが点滅して、遮断機が下りてくる。僕らは立ち止まって、電車が通り過ぎるのを待つ。
「お弁当、今日も卵焼き入ってた?」
「入ってたよ。お母さん、最近それしか作らないんだけど」
「うちも。手抜きだよね、完全に」
「まあ、美味しいからいいけど」
電車が通り過ぎていく。窓に映る乗客たちの顔は、みんなどこか疲れて見えた。僕らはまだ高校生で、あんな顔をする必要のない時間を生きている。そのことに、僕は漠然とした安心を感じていた。
遮断機が上がって、僕らは再び歩き出す。学校まではあと十分くらいだ。
「そういえばさ」
彼女が急に立ち止まった。
「何?」
「昨日、クラスの子に聞かれたんだけど」
「何を?」
「あんた、彼女いるのかって」
「ああ」
僕は曖昧に答えた。そういう質問は、たまにされる。
「で、何て答えたの?」
「いないって言ったよ。当たり前じゃん」
彼女は少しだけ黙って、それから小さく「そっか」と言った。その声のトーンが、いつもとほんの少しだけ違う気がした。でも僕は、それを深く考えなかった。
学校に着くと、昇降口は生徒たちで混雑していた。僕らは自然と分かれて、それぞれの下駄箱へ向かう。ここからは別々だ。彼女は隣のクラスで、僕らが顔を合わせるのは昼休みか放課後くらいになる。
「じゃあね」
「うん、また後で」
彼女は手を振って、人混みの中に消えていった。僕は自分の靴を履き替えて、階段を上がる。
教室に入ると、すでに何人かの生徒が席についていた。僕は窓際の自分の席に座って、カバンから教科書を出す。
「おはよう」
隣の席の友人が声をかけてきた。
「おはよ」
「今日も幼馴染ちゃんと一緒だった?」
「まあ、うん」
「いいなあ、そういうの。青春って感じ」
「別に普通だよ」
「普通じゃないって。俺なんか、毎朝一人で来てるし」
「それが普通なんだよ」
友人は笑って、自分の机に頬杖をついた。
「でもさ、お前ら本当に何もないの?」
「何もないって、何が?」
「だから、そういう関係」
「ないよ。ただの幼馴染だし」
「嘘だあ。絶対何かあるって」
「ないって言ってるじゃん」
僕は少しイライラしながら答えた。こういう話は、正直面倒くさい。僕と彼女は、ただ家が近いから一緒に登校しているだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。
授業が始まって、僕は教科書を開く。数学の問題を解きながら、僕はさっきの友人の言葉を思い出していた。「青春って感じ」と彼は言った。でも、僕にとって彼女との関係は青春でも何でもなく、ただの日常だった。
昼休み。僕は購買でパンを買って、教室に戻る途中で彼女とすれ違った。
「あ」
「あ」
お互いに立ち止まって、何となく気まずい空気が流れる。
「お昼、一緒に食べる?」
僕が聞くと、彼女は少しだけ考えてから首を横に振った。
「今日はいい。友達と約束してるから」
「そっか」
「うん」
彼女はそれだけ言って、僕の脇を通り過ぎていった。僕は彼女の背中を見送ってから、教室に戻る。何だか、いつもと違う感じがした。でもそれが何なのか、僕にはよく分からなかった。
午後の授業は、ずっと上の空だった。窓の外を見ながら、僕は朝の彼女の反応を思い返していた。「いないって言ったよ」と僕が答えたとき、彼女は「そっか」と言った。あの声には、何か引っかかるものがあった。
放課後。僕は部活動もないし、委員会もない。だからすぐに帰る準備をして、教室を出た。昇降口で靴を履き替えていると、彼女が来るかもしれないと思って、少しだけ待った。でも彼女は現れなかった。
仕方なく、僕は一人で帰路につく。いつもの角を曲がるとき、そこに彼女がいないことが妙に寂しく感じられた。
家に着いて、カバンを放り出す。母親が「おかえり」と声をかけてきたけど、僕は適当に返事をして自分の部屋に入った。
机に座って、スマートフォンを取り出す。彼女にメッセージを送ろうかと思ったけど、何を書けばいいのか分からなかった。結局、僕は何も送らずに、スマートフォンを置いた。
窓の外を見る。空は少しずつ暗くなり始めていて、オレンジ色の光が部屋に差し込んでいた。僕は何となく、胸の奥がざわざわするのを感じていた。
その夜、僕はベッドに横になりながら、彼女のことを考えていた。幼馴染。家が近い。いつも一緒に登校する。それが僕らの関係だった。でも、もしそれがなくなったら?もし彼女が、ある日突然、僕と一緒に歩くのをやめたら?
そう考えると、胸が締め付けられるような感覚があった。僕は、彼女がいることを当たり前だと思っていた。でも当たり前のものは、失って初めてその大切さに気づく。僕は今、その入口に立っているような気がした。
翌朝。僕はいつもより早く家を出た。いつもの角に立って、彼女を待つ。少し肌寒い朝だった。
五分、十分と時間が過ぎる。彼女は来ない。もしかして、もう先に行ってしまったのかもしれない。それとも、今日は一緒に行きたくないのかもしれない。
そう思ったとき、彼女が角を曲がって現れた。いつもと同じ、少し眠そうな顔をしている。
「おはよう」
僕が先に声をかけると、彼女は驚いたような顔をした。
「あ、おはよう。珍しいね、あんたが待ってるなんて」
「たまにはいいだろ」
「まあね」
彼女は僕の隣に並んで、歩き出す。僕らは黙って、いつものルートを進んだ。商店街を抜けて、公園の脇を通る。踏切が見えてきた。
「ねえ」
僕が声をかけると、彼女は「ん?」と振り返った。
「昨日さ、変な感じだったよね」
「そう?」
「うん。何か、気まずかったというか」
彼女は少しだけ黙って、それから小さく笑った。
「気にしすぎだよ。別に何もないって」
「でも」
「でも?」
僕は言葉を探した。どう言えばいいのか、自分でもよく分からなかった。
「俺さ、お前と一緒にいるのが当たり前だと思ってた」
「うん」
「でも、それが当たり前じゃなくなるのは、嫌だなって思った」
彼女は立ち止まって、僕を見上げた。その目は、いつもより少しだけ真剣だった。
「何それ。告白?」
「違う。そういうんじゃなくて」
「じゃあ何?」
「分かんない。でも、お前が隣にいないのは変だなって思った」
彼女は少しだけ考えてから、小さく笑った。
「あんた、たまにはいいこと言うんだね」
「馬鹿にしてるだろ」
「してないよ。嬉しいよ、そういうの」
彼女はそう言って、また歩き出した。僕も慌てて追いかける。踏切の警報が鳴り出して、僕らは立ち止まった。
「ねえ」
彼女が言った。
「何?」
「私もさ、あんたと一緒にいるのが当たり前だと思ってた」
「うん」
「でも、当たり前じゃないかもしれないって、最近思うようになった」
「どういうこと?」
「分かんない。でも、何となくそう思った」
電車が通り過ぎていく。大きな音が、僕らの間の沈黙を埋めてくれた。
遮断機が上がって、僕らは再び歩き出す。学校まであと少しだ。
「ねえ、今日も一緒に帰る?」
僕が聞くと、彼女は「うん」と答えた。
「じゃあ、昇降口で待ってて」
「分かった」
学校に着いて、僕らはそれぞれの教室へ向かう。別れ際、彼女は少しだけ振り返って、小さく手を振った。僕も手を振り返す。
授業中、僕は窓の外を見ながら考えていた。僕と彼女の関係は、何も変わっていない。でも、何かが少しだけ違う気がした。それが何なのか、僕にはまだ分からない。
でも一つだけ確かなことがある。今朝、彼女と話せて良かった。あのまま気まずい空気が続いていたら、僕はきっと後悔していた。
昼休み。僕が廊下を歩いていると、隣のクラスから彼女が出てきた。
「あ」
「あ」
お互いに立ち止まって、それから同時に笑った。
「一緒に食べる?」
僕が聞くと、彼女は「うん」と答えた。
「屋上行こうか」
「いいね」
僕らは階段を上がって、屋上のドアを開ける。外は少し風が強かったけど、気持ちよかった。フェンスの近くに座って、それぞれのお弁当を開く。
「やっぱり卵焼き入ってる」
彼女が笑いながら言った。
「お前もでしょ」
「うん、入ってる」
僕らは黙々と食べながら、たまに他愛ない話をした。風が吹いて、彼女の髪が揺れる。彼女は髪を押さえながら、空を見上げた。
「いい天気だね」
「うん」
「こういう日、好き」
「俺も」
彼女は僕の方を見て、小さく笑った。その笑顔は、いつもと同じだった。でも、僕にとってはいつもより少しだけ特別に見えた。
放課後。僕は昇降口で彼女を待った。少しして、彼女が階段を降りてくる。
「お待たせ」
「ううん、今来たとこ」
「嘘。絶対待ってたでしょ」
「バレた?」
「バレバレ」
僕らは笑いながら、学校を出る。帰り道も、いつもと同じルートだ。踏切を渡って、公園の脇を通って、商店街を抜ける。
「明日も一緒に行く?」
彼女が聞いた。
「当たり前じゃん」
「そっか」
「何でそんなこと聞くの?」
「何となく」
彼女はそう言って、少しだけ照れたような顔をした。
いつもの角に着いて、僕らは立ち止まる。ここで別れる時間だ。
「じゃあね」
「うん。また明日」
「また明日」
彼女は手を振って、自分の家の方へ歩いていく。僕もその場に立ったまま、彼女の背中を見送った。
家に着いて、僕は自分の部屋に入る。窓を開けると、少し冷たい風が入ってきた。僕はベッドに座って、今日一日を思い返していた。
僕と彼女の関係が、これからどうなるのかは分からない。もしかしたら、このまま何も変わらないかもしれない。もしかしたら、少しずつ何かが変わっていくかもしれない。
でも、それでいいと僕は思った。今はまだ、答えを出す必要はない。ただ、彼女が隣にいてくれること。それが今の僕にとって、一番大切なことだった。
窓の外を見ると、空は少しずつオレンジ色に染まり始めていた。明日もまた、同じように朝が来る。僕と彼女は、いつもの角で会って、一緒に学校へ向かう。
それは変わらない。少なくとも、明日は。
そしてそれが、今の僕にとっての救いだった。
紡がれる恋の話 Nemu° @daihuku723
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