私を変えた、ひと夏の風

白井琴理(しらい ことり)

第1話

あの日、彼との出会いが私を変えた――。


原稿を書き終え、パソコンを閉じる。

「さとみ~」

夫が私を呼ぶ声がする。

里実は笑顔で、彼のもとへ向かった。




夏のある日、里実は彼と出会った。


もう五年以上、彼氏がいない。

結婚願望はあるけれど、肝心の相手がいないのだから、どうしようもない。

会社と家の往復だけの毎日で、出会いもない。

結婚している人を見ると、つい羨ましくなってしまう。


「このまま女としての時間が終わってしまうのだろうか……」


里実は四十七歳。

女性としての賞味期限が迫っている自分を、はっきりと意識していた。


思い切って、出会い系サイトに登録してみた。

しかし、いいねをしてくるのは、冴えない感じのおじさんばかり。


「やっぱり、マッチングアプリじゃダメかな」


いい加減、げんなりしていた時にマッチングが成立した。

ひと回り年下。それもイケメン。

切長の目に通った鼻筋、色白の肌。

中性的で端正な顔立ちの、美青年だった。


ダメもとで、いいねをした相手だった。


「信じられない……これは夢?」


胸が高鳴る。

理想の相手が、こんなにも早く見つかるなんて。


しかし次の瞬間、里実の心は奈落の底に突き落とされた。


「俺、今は恋人を探してるわけじゃないんだけど、大丈夫?」

「割り切った関係でもいい?」


すごくショックだった。

それでも正直なところ、ワンナイトでも構わなかった。

こんなイケメンと関係を持てるなら、願ったり叶ったりだ。


とにかく、長く続いていた空白に終止符を打ちたかった。


「女性としての価値を取り戻したい」

ただ、それだけだった。


会う約束をした後、急に不安になった。

写真の彼は、本当に実在するのだろうか。


いいね件数が百以上ある人気の彼が、

たとえ割り切った関係だとしても、

ひと回りも年上の女性を、わざわざ選ぶだろうか。

何か裏があるのではないかと、疑いさえ浮かんだ。


鏡に映る自分を見る。

ほうれい線、肌のキメの粗さ。

今の自分に、まったく自信がなかった。


昔は、誰からも肌が綺麗だと言われていたのに。

今は、どうしようもない敗北感だけが残っている。


それでも、湧き上がる高揚感は抑えられなかった。


約束の日までの数日間、気分はジェットコースターのように上下した。

新しい服と下着を買い、エステにも行った。

前日は一枚二千円もする美容パックを使い、念入りに手入れをした。


待ち合わせ場所に現れた彼は、写真どおりの美青年だった。


ホテルのベッドに腰掛け、軽く自己紹介と世間話をする。

色白で、胸板の厚い細マッチョな体型。


穏やかな口調で彼が言う。

「写真で見るより、ずっと美人だから。今、俺、緊張してる」


「私も緊張してる」


二人で笑った後、会話が途切れた。


突然、彼が里実を引き寄せた。


久しぶりのキス。

舌が絡み、唇が首筋へ移っていく。

腕の力強さと体温に、身を委ねた。


求められて、優しく強く抱きしめられる。

それを、ずっと欲していた。


行為の後も、彼は抱きしめ、キスをした。


「また会いたい。これからも時々、会ってくれる?」


里実が頷くと、彼はもう一度キスをした。


彼との一夜を思い出すたび、胸が高鳴った。


割り切った関係だと分かっていても、

メールのやり取りは楽しく、期待してしまう自分がいた。


二度目に会った時、里実は多くを求めすぎた。


もっと大切にされたい。

彼に愛されたら、どんなに幸せだろう。

彼が私のパートナーだったら、どんなにいいだろう。


そんな想いを抱く里実に、彼は言った。


「俺、将来は子どもが欲しいから。

里実さんは、本命にはならないよ」


頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。


「私は、選択肢にさえ入っていない」


どうやって家に帰ったのか、覚えていない。


浮かれていた数日間が、恥ずかしくて情けなかった。


女として、もう終わっているのだろうか。

それでも、まだ認めたくなかった。


彼を振り向かせたい。

年齢じゃなく、私自身を見てほしい。


次に会う時は、見違えるほど綺麗になって、

彼を夢中にさせたい。


鏡の中の顔。

深く刻まれたほうれい線。

どんなに化粧をしても、年齢は隠せない。


彼好みの若い女性と比べたら、勝ち目はない。


それでも、綺麗になりたかった。


自信をつけて、彼に選ばれる女性になりたかった。


だが、どんなに頑張っても限界がある。

消えないほうれい線に、ため息が漏れた。


焦る気持ちとは裏腹に、彼のキスや抱擁は減っていく。

デートもなく、セックスだけの関係。

別れた後の虚しさは、以前よりも強くなっていた。


ある日、知り合いからデートに誘われ、彼に相談した。

止めてくれることを、どこかで期待していた。


彼は顔色一つ変えずに言った。

「良かったじゃん。行ってくれば?」


その瞬間、悟った。

彼の中に、私はいない。


彼の言葉一つひとつに一喜一憂する。

どうでもいい話には付き合ってくれるのに、

欲しい言葉は、決してくれない。


孤独が怖くて、関係を手放せなかった。

でも、もう限界だった。


彼とは、もう会わない。


やっと、決断できた。


そよ風が、窓から入ってくる。

寝転びながら、ふと彼のことを考えた。


どんな私だったら、本命になれたのだろう。


外側ばかりを変えようとしていた。

急がずに、

「もう少し一緒にいたい」

「もっとあなたを知りたい」

そう言えていたら、何かが違ったのだろうか。


割り切った関係だと分かっていながら、

先に約束を破ったのは、私だった。


また風が吹く。

彼の顔は、もうはっきり思い出せない。


本当に好きだったのかも、分からない。

年下のイケメンと一緒にいられることに、

価値を見出していただけなのかもしれない。


それでも、彼は教えてくれた。

もう一度、恋をする喜びを。


苦しい恋だったけれど、感謝している。


向かう道が違えば、別れは必然だ。

成就しなかったからこそ、手に入れたものもある。


あれほど独りが怖かったのに、

私はまた、静かな日常に戻っている。

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私を変えた、ひと夏の風 白井琴理(しらい ことり) @shiraikotori

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