天を読む

西岐 彼野

天を読む

「そんなはずは……」

 天文師は驚きを隠せなかった。

 何度読み直しても、星々の位置は自軍の敗北を示している。昨晩までは、両軍運気は拮抗するも、自軍が優勢であると読めていたはずだった。

 考えられることはただ一つのみである。

「……裏切りがあったか……」

 唸るように、天文師は呟いた。冷たい汗が幾筋も背を流れていく。天に王の運気と命(めい)は読むが、天文師に人の世の詳細を視ることはできない。 

「誰が……北か、東の公子か……右陣の将軍か」

 思い当たる人物はあるが、それは人としての憶測に過ぎない。誰かが裏切ったことは分かっても、それが誰であるかを特定する力は、天文師にはないのである。

 ならば天に描かれた運命の、細部の細部までを読み解こうと、天文師は必死で星々を見つめた。 

 しかし、いくら読んでも、天命は変わらなかった。このまま時が進めば、明日、王の命運が尽きる。

 それでも、天文師は星を読むことを止めなかった。

 何か望みは、抜け道はないか。どんな小さな光でも構わぬ。王が、明日を生き伸びる術が示されてはいないか。

 食い入るように、星々を読む。

 と、下方の空に奇妙な星の流れるのを見、天文師は急ぎ手元の書を捲った。数頁で手を止め、過去からの叡智の粋を双眸で追う。文字を辿る白い指先に、小さな角灯の炎がゆらゆらと影を落としている。

 ややあって、

「これは……」

 と天文師は絶句した。

 幽かにではあるが、王が生き長らえる道筋もまた、天に示されていたのである。

 しかし、今夜のうちに城を捨て平に下るべし、というのがそれであった。

「……天は、王を愛さなんだか……」

 時は、敵軍の将を選んだ。残れば王は生命を失い、明日、城は落ちる。権力は敵将へと移る。

 再興の未来は示されず、王が助かる道はただ一つ、王の座を退くことなのである。

 天文師は、しばらくの間、動くことができなかった。

 王に、何と伝えればよいのか。

 引き裂かれるような痛みに、天文師は知らず胸を押さえた。

 国を、権力を投げ打って、お逃げくださいと、そう伝えろというのか。

 王が聞き入れるはずもない。敵将は謀反人なのである。怪しげな継承権と「民意」を根拠に、主君に反旗を翻し、その位を奪わんと目論んでいる。対して王は、この世に生まれ落ちた瞬間からこの国の王なのである。自らの側に正義があることを、王は疑いもしていない。

 ただ時勢が変わった。天は既に新しい時代の訪れを選び、敵軍の将こそが、これからの乱世を治めるにふさわしいと定めたのだ。

 天は、正統の王を愛さなかったのである。

 その時だった。天文師は下方の空にまた一つ星が流れるのを見た。

「……いや、」

 星々の描く未来図に、たとえ幽かであっても、これまでの天命とまったく異なる道筋が示されることは稀である。

「むしろ、天は陛下を愛されたのか?」

 そのゆえに、死すべき定めの他に、天に刻まれた銘から逃れ、無名の者として日々を送りうる道をも示したのではないのか。たとえ、王が決してその道を選ばぬと分かっていても。

 今宵の空はそうとしか解釈できなかった。

「ならば……私は何を……」

 ただ天文師としてならば、王に、運気の劣勢を巧みに伝えるのが本分である。万に一つの確率でも、ギリギリで天が再びその意図を変えないとも限らない。その可能性にかけ、劣勢の中でも王が存分に戦えるよう、後押しをするのが、天文師の役目なのである。

 だが、心が真逆を望むのだ。

 生き延びてください。御身一つで逃れ、平民となり、心穏やかな日々をお過ごしになられればよい。その道は、開けておりまする。

 心は、そう伝えよと叫んでいる。

「天は何を告げておるか」

 背後から声がして、天文師は、急ぎ跪いた。

「先の宵よりさほどの変化はござりませぬ」

 咄嗟に嘘をつく。

「相変わらず、両軍共に運気は拮抗してござりまする。我が軍が優勢なれど、どちらに転ぶかはわからぬ状況ゆえ、くれぐれもご油断召さりませぬよう」

「然様か」

 王は、惑いなく天文師に近づいてきた。

「立て、余一人じゃ。今宵は畏まらずとも構わぬ」

 王の望むまま、天文師は立ち上がる。王は、心安うせい、とその脇に立って夜空を見上げた。

「大層な星じゃのう」

「今宵は特によく見えまする」

「おぬしが、ここに何を見ておるのか、余には全くわからぬ」

「人の命(めい)は、天に定められておりますれば」

「余の運もここに描かれておる、か」

 王は息を吐いた。

「……この手で自らの命運を定めることも叶わぬとは、余も所詮は塵芥の如きものじゃ」

「すべての命は星が定めるものなれど、それが天に描かれるは、王侯のみ。塵芥であろうはずがござりませぬ」

 王は天文師を見た。

「王侯のみ、とな?」

「御意」

「ならば、あそこにおぬしの定めは読めぬか」

「読めませぬ」

「嘘を申すな」

 王は笑った。

「余の定めがおぬしの定めじゃ。その命果てるまで、ずっと余の側(かたわら)にあろうものを」

「もったいないことにござりまする」

 冷静な声とは裏腹に、天文師の心は、血を流すほどの痛みに耐え、叫びを押し殺している。

 国を、権力を投げ打って、今、逃げてください。御身一つで、平民となり、どうか、生き長らえてください。私が共に参りまする。これまでのように、ずっとお側におりまする。

 その言えぬ言葉は、音になることなく、天文師の胸底に消えた。

 代わりに、天文師としての言葉を発した。

「陛下」

 夜空を仰ぎ見ていた王が、屈託ない顔を天文師に向けた。

「今晩の天に、一つだけ気になる様相が出てございまする」

「何じゃ」

「裏切り者が出るやもしれませぬ」

「左様か」

 王は変わらず泰然と受け止めた。

 夜風が、どこからともなく草の匂いを運んできた。王は、心地よさげに風に吹かれている。

「この匂い、かつておぬしと嗅いでいた匂いじゃ。互いに声も高いままの童であったのう」

「蕁麻にござりましょう」

 しばらくの間、二人は無言で夜風に吹かれた。

「……おぬしを連れて、このまま何処かへ消えてしまうのも良かろうな」

 王が静かに言った。

「土を耕し、家畜を養い、おぬしと二人でひっそりと生きるのも、悪うはないわ」

 天文師は、すぐに答えることができなかった。叫ぶ心を押さえ込み、僅かの間の後で答えた。

「もったいのうござ……」

 王が口付けで言葉を奪う。天文師は知らずそれに応えた。強く身体を抱いた後で、王が天文師を離す。

「おぬしの運気を連れて行こうぞ。確かに貰った」

 王は懐から封書を取り出し、天文師に渡した。

「妃を連れ東国の義兄上のもとへ行け。天文師なら敵軍も迂闊には手を出せまい。義兄上に援軍を遣わすよう伝えよ」

「御意」

「今宵のうちに出立せい」

「御意」

「許せよ。幼少より、おぬしにこそ触れてみとうてな。悔いを残しとうなかった」

 王が去りながら笑った。

「いづれにせよ悔いは残るものじゃ、触れねばよかった。離れ難くなった」

「武運長久をお祈り申し上げまする」

「心得ておるわ」

 王の去っていく姿に、天文師は跪き、頭を下げた。たとえ星の動きは読めずとも、ご自身の天運は知っておいでだと悟った。

「……どうか、どうか逃げてください。生き長らえてください。これまでのように、これからも、ずっとお側におりまする。共に畑を耕し、幼い頃のように笑い、陛下と共に生きとうござりまする……」

 初めて声となった囁きは、王には届くことなく夜風になって天に消えた。

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