完璧主義の星城さんは、僕のアクアリウムで息をつく。
とっきー
一年生編
第1話 入学式と、情報の濁り
春という季節は、僕にとって一年で最も「濁り」の強い季節だ。
校門へと続く桜並木からは、風に煽られた薄紅色の花びらが無秩序に降り注ぎ、新入生たちの浮き足立った歓声と、硬いローファーがアスファルトを叩く乾いた音が空気を震わせる。
色、音、匂い。そして、これから始まる未知の生活に対する期待と不安が入り混じった、実体のない熱気。
それらすべてが僕の感覚を鋭く突き刺し、脳内で処理しきれない「情報のノイズ」となって蓄積していく。
「……あ、……う、……」
体育館のパイプ椅子に座っている間中、僕は自分の膝を強く握りしめていた。
壇上で祝辞を述べる校長先生の声は、高性能なマイクを通しているはずなのに、僕の耳には「情報の濁り」としてしか届かない。周囲の生徒たちが制服の裾を擦り合わせる音や、誰かの忍び笑い、微かに漂うワックスの匂い。それらがすべて同じ音量で僕の意識に流れ込んでくる。
入学式という名の儀式が終わった瞬間、僕はクラスメイトたちの輪から逃げ出した。
ホームルームの説明なんて耳に入らなかった。担任の教師が何かを言っていたが、今の僕に必要なのは「正解」ではなく「静寂」だった。
僕は学校の裏門を抜け、慣れ親しんだ道を足早に進む。
目指す場所は、学校から徒歩で十分ほどの場所にある。
――市立渚水族館。
父が館長を務め、僕が幼い頃から家よりも長い時間を過ごしてきた、僕の聖域だ。
一般客の列を避け、僕はスタッフ専用の通用口にIDカードをかざした。
重厚な扉が閉まると同時に、街の喧騒は嘘のように遮断される。
代わりに僕を迎え入れたのは、湿り気を帯びた涼やかな空気と、巨大な循環ポンプが刻む、心臓の鼓動にも似た規則正しい重低音だった。
「……はぁ、……っ」
肺の奥まで、塩素と潮の匂いが混ざった空気を吸い込む。
情報の濁りが、少しずつ濾過(ろか)されていく感覚。
僕は迷うことなく、本館の華やかな展示コーナーを通り抜け、一般客の立ち入りが禁止されている「バックヤード兼、展示準備用コーナー」へと向かった。
そこは、父が「息子の居場所」として黙認してくれている、実験用の予備水槽が並ぶ薄暗い区画だ。
壁一面に並んだ大小様々な水槽からは、青白いLEDの光が漏れ出し、天井でゆらゆらと水の紋章を描いている。
僕はその一番奥にある、自分が管理を任されている九十センチ水槽の前に座り込もうとした。
しかし、先客がいた。
「……っ!?」
心臓が跳ね上がる。
そこには、僕と同じ真新しい制服を着た少女が立っていた。
彼女は微動だにせず、僕が昨日、数時間をかけてレイアウトを整えたばかりの水槽を見つめていた。
凛とした背筋のライン。一糸乱れぬ黒髪。窓のない室内だというのに、彼女の周囲だけはクリスタルのように澄んだ空気が張り詰めている。
星城舞香。
同じクラス。いや、入学試験でトップの成績を収め、新入生代表として挨拶をした、あの「氷の彫刻」だ。
なぜ、彼女がここにいる?
ここは関係者以外、立ち入り禁止のはずなのに。
「……無駄がないわね」
彼女が静かに口を開いた。
その声は、冷たく、澄み渡っていた。まるで薄く張った氷に亀裂が入るような、危ういまでの透明感。
「え……?」
「この水槽よ。石の配置、水草の密度、水の透明度。すべてが計算し尽くされていて……完璧だわ」
彼女はこちらを振り向きもせず、ガラス越しに魚たちの動きを追っている。
僕は、自分の聖域に土足で踏み込まれたような不快感と、それ以上に、自分の仕事を「完璧」と評されたことへの困惑で、言葉を失った。
「ここは……君みたいな一般の人が入っていい場所じゃないんだ」
絞り出した僕の言葉に、彼女はゆっくりと、機械仕掛けの人形のような正確さで首を巡らせた。
心臓が止まるかと思った。
至近距離で見る彼女の美しさは、暴力的なまでに完成されていた。
整いすぎた目鼻立ち、一切の隙がない制服の着こなし。まさに、一点の曇りもない鏡のような存在。
「扉が開いていたから、静かな場所を探して迷い込んだだけよ。不法侵入だと言うなら、謝罪するわ。……でも」
彼女は一歩、僕に近づいた。
微かに漂う、石鹸のような清潔な匂い。情報の濁りが、また僕を襲う。
「あなたがこれを作ったの?水族館の息子の、水城海くん」
「……僕の名前を知ってるの?」
「当然でしょう。二位の点数だったあなたの名前くらい、把握しているわ」
彼女の瞳に、感情の色はなかった。
ただ、事実だけを述べる冷徹な光。九十九点でもなく、ましてや不規則な感情に左右されることもない、完璧な百点を体現したような瞳。
けれど。
その鋭い視線と、わずかに震える彼女の指先を見つけたとき、僕の中の「観察力」が、ある一つの違和感(ノイズ)を捉えた。
彼女は、完璧であろうとしている。
周囲の期待、親の視線、自分自身のプライド。それらすべてを「正解」という名の濾過器に通し、不純物を一切排除した自分でいようとしている。
でも、その瞳の奥底。
澄み切った水のさらに深い、光も届かない深淵の場所に、僕と同じ「淀み」が見えた。
それは、呼吸を忘れるほどの孤独。
周囲と馴染めず、情報の濁りに酔い、自分だけの透明な殻に閉じこもる僕と。
誰よりも高く、誰よりも完璧な場所に立ち続けることで、誰にも触れられない孤独を抱える彼女。
立ち位置は真逆だが、僕たちは同じ場所にいた。
窒息しそうな世界の中で、必死に「息ができる場所」を探している、一匹の魚。
「……君も、疲れてるんじゃないの」
気づけば、僕は口走っていた。
僕のような「地味な裏方」が、クラスの女王に、いや、学校中の憧れの的に向かって言う言葉ではなかった。
彼女の眉が、ピクリと動く。
完璧だった仮面に、ほんのわずかな亀裂が走った。
「……失礼ね。私が、そんな無駄な感情を抱いているように見える?」
「見えるよ。……この水槽を見ている時の君の瞳だけは、鏡を見て自分を採点している時の目じゃなかったから」
沈黙が流れた。
循環ポンプの「コポコポ」という水の音が、その隙間を埋めていく。
彼女は鼻先をわずかに上げ、再び水槽へと視線を戻した。
「……最悪な出逢いね。私の完璧な初日を、あなたが台無しにしたわ」
そう言い残すと、彼女は一度も振り返ることなく、モデルのような歩調でバックヤードを去っていった。
カツ、カツ、という規則正しい靴音だけを残して。
僕は、彼女が立っていた場所を見つめた。
そこにはまだ、彼女が放っていた冷たい「空気感」がわずかに残っている。
水槽の中では、カージナルテトラが青い光を放ちながら、何も知らずに群れを成して泳いでいた。
「情報の濁り……か」
僕は自分の胸に手を当てた。
情報の濁りに酔っていたはずの僕の鼓動は、あんなに不愉快な出会いだったはずなのに、なぜか、先ほどよりもずっと穏やかに、そして深く、空気を求めて動いていた。
星城舞香。
氷の彫刻と呼ばれた彼女の、あの窒息しそうな孤独。
それが僕の静かな世界(アクアリウム)に、一石を投じた瞬間だった。
次の更新予定
完璧主義の星城さんは、僕のアクアリウムで息をつく。 とっきー @Banana42345
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