【短編】卵が割れた日【お題フェス11 卵🥚】
夏乃緒玻璃
卵が割れた日
卵が割れるのを見るのは悲しい。
◇◇◇
六歳の頃の記憶。
夜。買い物帰りの母が、玄関先でつんのめった。
ビニールの袋は床に落ち、卵のパックが割れて、床にぬるぬるした中身が広がった。
「何やってんの、ドジだなあ」
私は笑った。
母も笑うと思ったから。
母は笑わなかった。
こちらに向き直り、私の頬を叩いた。
「何がおかしいのよ」
私は反射的に、もうこの人と同じ家にいたくないと決意し、闇の中へ飛び出した。
外の幹線道路を渡り、どこまでも暗い道を走った。
母は追いかけても来なかった。
私は何十分も通り沿いを歩いた。
六歳児にも分別はある。
私はもう理解していた。
母は、私にいなくなって欲しいと思っている。
私が小学校に上がる時くらいからだった。
土曜日、日曜日の朝食が無くなった。
平日、学校から帰っても鍵が閉まっており、何時間も家に入れないことが何度もあった。
小遣いをくれるはずの日に、何度も催促してもくれなくなった。
私がお年玉を貯めていた貯金通帳の残高が知らない間にゼロになっていて、聞いても「知らない」の一点張りだった。
裕福だったはずの家からは、いつの間にか飼い猫も飼い犬もいなくなり、家政婦も来なくなっていた。
たまに、私に冷たい目を向ける知らない男が来ていたが、男と母は私に一切構わず自分たちだけで会話をしていた。
一度、無視されていることに癇癪を起こし、床に本を叩きつけたことがあった。
男がゆっくりと近づいてきて、無言で私を張り飛ばし、倒れた腹を蹴った。
母はただ、無言でそれを見ていた。
おそらく、もう家族として限界だったのだろう。
私は六歳だったけれど、既に小学高学年向けの本を何冊も読むくらいには分別があったし、自分の家に起きていることは理解していた。
ただ、所詮は幼児なので、何もできなかったし、助けを求める大人も誰もいなかった。
私は一時間以上歩き、ようやく見つけた灯り――ガソリンスタンドの横で泣いているところを保護され、家に送り届けられた。
その時でさえ、母は何も言わなかった。
遠い昔の話だ。
その後、母は不仲だった夫と正式に離婚し転居した。
私は、私をよく叩いたり蹴ったりするあの男と母と、しばらくは居心地の悪い三人暮らしだったが、弟が生まれたことによって、完全に空気のような存在になれた。
十八になり、学費も生活費も自前で稼ぐハードな生活と引き換えに、私は家を出て自由になった。
親たちは他人の前では私を心配する「良き親」を演じたし、私も最低限の社交辞令で応じた。
距離を置き、衝突することはなくなり、互いの誕生日すら祝わず正月の挨拶もしない血縁者として、彼らは存在する。それでいいと思っている。
◇◇◇
たまに料理をする。仕事に疲れた日。クレーマーに絡まれた日。彼女と別れた日。
気まぐれに料理をする。
買い出しの帰り、余程疲れていたのだろう。私は袋を落とし、卵をすべて割ってしまった。
あの日の母の姿がよみがえる。
私は溜息をつき、中身を拾い集め、丁寧に殻を取り除いて、フライパンに流し込む。
全部使って、スクランブルエッグにすればいい。
かき集めて、塩を振って。
そうすれば、捨てずに食べられる。
なんの問題もないのだ。
fin.
【短編】卵が割れた日【お題フェス11 卵🥚】 夏乃緒玻璃 @NATU2025
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