無精卵の揺りかご 〜SNSの「いいね」が育てる、私だけの完璧な子供〜

ソコニ

第1話 無精卵の揺りかご 私を削って、あなたに成る。


1

美咲が最初にその卵を見たのは、深夜三時のスマートフォンの青白い光の中だった。


不妊治療三年目。義母からの「まだなの?」という言葉は、もはや挨拶のようなものだった。SNSを開けば友人たちの出産報告が流れてくる。ピンク色のフィルター。幸せそうな笑顔。「ママになりました♡」というキャプション。


美咲は震える指で画面をスクロールし続けた。


そして、見つけた。


闇サイトの掲示板に、たった一行だけ書かれた広告。


「メルキオールの卵――あなたの愛と承認を与えるほど、理想の我が子が育ちます」


翌日、小包が届いた。


開封すると、白く滑らかな、人間の肌のような質感の卵が、深紅のベルベットの布に包まれていた。手のひらに乗せると、かすかに脈打つような温もりがあった。


説明書には、こう書かれていた。


「この卵は、あなたの献身と承認によって育ちます。あなたの肉体を少しずつ与え、そして世界からの『いいね』を集めてください。卵は体温と引き換えに、あなたの愛と他者の羨望を栄養として、あなただけの完璧な子供へと成長します」


美咲は鏡の前に立ち、カッターナイフを手に取った。


2

最初は指先の皮膚だった。


薄く削いだ皮膚を卵の表面に貼り付けると、卵は美咲の血液を吸い上げるように赤く脈動した。ジュウ……という湿った音が響く。痛みがあった。けれど、その痛みの奥に、言葉にできない充足感があった。


「……生きてる。この子は、私を食べて育つのね」


だが、卵はすぐに冷たくなった。


美咲が慌てて説明書を読み返すと、最後の一文に気づいた。


「注意:卵は他者からの承認を感知すると体温を取り戻します。あなたのスマートフォンが熱を帯びるとき、卵は育ちます」


美咲は理解した。


この子は、私の肉体だけじゃ足りない。世界からの「いいね」が必要なのだ。


3

美咲の生活は一変した。


朝、卵に自分の爪を一枚剥がして与える。そしてSNSを開く。


アカウント名は「@エッグママ美咲」。投稿する写真は、ピンク色のフィルターをかけた卵と、幸せそうな自撮り。包帯を巻いた指は、可愛いベビー服の影に隠す。


「今日も愛を込めて。この子のためなら、何でもできちゃう♡ #エッグママ #卵育日記」


コメントが次々と届いた。


「素敵なママですね!」

「私も育ててみたいです!」

「応援してます!」


いいねが100を超えた瞬間、美咲のスマートフォンが熱を帯びた。


そして、卵が脈打った。


美咲は卵を抱きしめた。卵は温かかった。生きていた。


「……ああ。みんなが、この子を育ててくれてる」


職場で上司に罵倒されても、帰宅後に卵に自分の髪の毛を一房切って捧げ、その写真を加工してアップすれば、卵はより大きく、より美しく育った。


承認と肉体。羨望と献身。


その二つが、この子の命だった。


4

真奈美からのコメントが入ったのは、二週間後だった。


「美咲、久しぶり! 元気にしてる? 私は相変わらずバタバタだけど、3人とも元気いっぱいで大変(笑) 美咲も頑張ってるんだね! でも、最近指にいつも包帯してるけど大丈夫? 料理中に切ったのかな? お互い頑張ろうね!」


美咲は携帯を握りしめた。


真奈美。高校時代からの友人。自然妊娠で三人の子供を授かり、「ママって大変だけど幸せ♡」という投稿を毎日のようにアップする女。


「私は三人の子供を育てている。あなたは、たった一つの卵で何をしているの?」


そういうメッセージが行間から滲み出ていた。


美咲は洗面所に駆け込み、カッターナイフを手に取った。


「もっと……もっと捧げないと」


今度は指先だけではなかった。太もも。二の腕。肋骨の上の柔らかい皮膚。ジュウ……ジュウ……という音が、夜の部屋に響く。


卵は美咲の献身を飲み込み、日に日に大きく成長していった。表面には、うっすらと人間の血管のような模様が浮かび上がり、時折、内側から何かが蠢くような音がした。


美咲は写真を撮った。


加工アプリで傷を消し、痩せこけた頬をふっくらと修正し、血走った目に輝きを加える。


そして投稿する。


「今日はちょっと頑張りすぎちゃった。でも、この子のためなら何でもできる。愛って、こういうことなんだね。 #究極の献身 #母の愛」


いいねが300を超えた。


スマートフォンが熱い。熱い。


卵が、激しく脈打った。


真奈美からも、いいねが届いた。


美咲は真奈美のアカウントを開いた。最新の投稿。三人の子供たちと笑顔で映る真奈美。


そして、写真の隅に。


かすかに見える、深紅のベルベットの布。


美咲の手が止まった。


「……まさか」


5

ある夜、卵が囁いた。


「……お母さん」


美咲は飛び起きた。卵を抱き上げる。


「喋ったの? 私の赤ちゃん、あなた喋ったの?」


「お母さん……お腹が空いたよ」


「いいよ、いいよ。何でもあげる」


美咲は躊躇わなかった。腕の内側を深く切る。血が滴る。卵の表面に押し当てると、卵は貪欲に血を吸い上げた。ジュウ……ジュウ……ジュウ……


「もっと……もっとちょうだい、お母さん」


「うん、うん。いくらでもあげる。でも、みんなの『いいね』も必要なの。だから、ちょっと待ってて」


美咲は傷だらけの腕を撮影した。けれど今度は加工しなかった。包帯だらけの、血の滲んだ腕を、そのまま。


「愛するって、痛いものなんだね。でも、この痛みがあるから、私はこの子に本物の愛を与えられる。表面的な幸せじゃない、魂を削る本物の愛。 #真実の母性 #誰にも負けない」


投稿した瞬間、コメント欄が炎上した。


「これ、虐待じゃないの?」

「誰か通報した方がいいんじゃない?」

「美咲さん、病院行った方がいいよ」


けれど、いいねの数は急上昇していた。


500、800、1000――


スマートフォンが焼けるように熱い。


卵が、激しく震え始めた。


「……熱い。みんなの視線が、熱い」


美咲は卵を抱きしめた。全身の傷が痛んだ。もう立っていられないほど衰弱していた。体重は三十キロ台まで落ち、頬骨が突き出し、目だけが異様に大きく見えた。髪の毛は半分以上抜け落ち、地肌が見えていた。


真奈美からDMが届いた。


「美咲、ちょっと心配なんだけど。最近の投稿、危なくない? もし何か困ってることがあるなら、私でよければ相談に乗るよ。友達でしょ?」


美咲は画面を睨みつけた。


「心配? 嘘つき。あなたも同じものを飼っているくせに」


そして、その夜。


いいねが3000を超えた。


卵に、大きなヒビが入った。


6

「……やっと。やっと会える」


美咲は卵を抱きしめた。全身の傷が痛んだ。


「私の、完璧な……」


ヒビが広がった。


中から、何かが這い出してきた。


それは、赤ん坊の手ではなかった。


青白い、大人の手だった。


そして、その手が握りしめていたのは――


一通の留学願書だった。


美咲の体が凍りついた。


「……これ、は」


卵の殻が完全に割れた。


中から現れたのは、二十四歳の美咲だった。


デザイナーを夢見て、海外の名門校に合格したあの日の美咲。夫との結婚を選び、その夢を諦めたあの日の美咲。


けれど、その肌は――


美咲が削ぎ落とした皮膚を、パッチワークのように繋ぎ合わせたものだった。


太ももの皮膚。腕の皮膚。指先の皮膚。それらが、まるで縫い合わせた人形のように、つぎはぎされて一人の人間を形作っていた。


「お母さん」


その美咲が、言った。


「私、あの日からずっと、ここで待ってたんだよ?」


美咲は後退った。


「違う……あなたは、私の赤ちゃんのはずだった……」


「違うよ。私は、あなたが殺した可能性だよ」


卵の中から、次々と何かが溢れ出してきた。


血に濡れたスケッチブックのページ。

小さなエコー写真。

母の補聴器。


「あなたが捨ててきたもの、全部。あなたが見ないふりをしてきたもの、全部。あなたの肉体と、みんなの羨望を食べて、私たちは生まれたの」


美咲は床に崩れ落ちた。


「……違う。私は、ただ……母親になりたかっただけなのに」


「母親?」


二十四歳の美咲が、冷たく笑った。つぎはぎの唇が、不自然に動く。


「あなたは自分の母親を、施設に預けて孤独死させたじゃない。あなたは自分の赤ちゃんを、仕事のために諦めたじゃない。あなたは自分の夢を、安定のために捨てたじゃない」


「でも……でも、みんなそうしてる。みんな、何かを犠牲にして生きてる……」


「そうだね」


二十四歳の美咲が、美咲の頬に触れた。


その手は、氷のように冷たかった。


「だから、あなたは私たちを食べなきゃいけないの。今度は、あなたが私たちを食べて、生きていかなきゃいけないの」


美咲のスマートフォンが震えた。


通知が次々と届く。


真奈美のアカウントに、新しい投稿が上がっていた。


三人の子供たちの写真。


けれど、よく見ると――


子供たちの肌も、微かに縫い目のようなものが見える。


そして、写真の隅に、深紅のベルベットの布に包まれた、三つの割れた卵の殻。


コメント欄には、おめでとうの言葉が溢れていた。


7

翌朝、美咲のSNSに自動投稿がアップされた。


ピンク色のフィルター。

幸せそうな笑顔。

そして、美しく加工された写真。


「無事に生まれました! この子は私の全てです。これから、ずっと一緒だよ。 #出産報告 #エッグママ #新しい人生」


写真の中の美咲は、笑顔で自分自身を抱きしめていた。


二十四歳の、夢を捨てた日の自分を。


コメント欄には、おめでとうの言葉が溢れていた。


真奈美も、いいねを押していた。


美咲の部屋では、割れた卵の殻だけが、静かに床に転がっていた。


そして、鏡に映る美咲の姿は――


ガリガリに痩せこけ、包帯だらけの、かつての美咲だった。


けれど、その隣には、つぎはぎだらけの二十四歳の美咲が立っていた。


「ねえ、お母さん。今度は、どこを食べる?」


鏡の中の二十四歳の美咲が、カッターナイフを差し出した。


美咲は、それを受け取った。


「……今度は、あなたを」


そして、つぎはぎだらけの自分の肌に、刃を当てた。


ジュウ……という音。


スマートフォンが震える。


新しい通知。


「@キラリママ真奈美さんがあなたをフォローしました」 「@聖母の導きさんがあなたの投稿にいいねしました」


いいねの数が、また増えていく。


500、800、1000――


美咲の部屋の隅に、新しい小包が届いていた。


差出人不明。


中には、白く滑らかな、もう一つの卵が入っていた。


そして、メモが一枚。


「おめでとうございます。次の子も、きっと素敵に育ちますよ」


美咲は、その卵を手に取った。


かすかに脈打つ温もり。


「……もう一度」


彼女は笑った。


つぎはぎだらけの二十四歳の自分も、笑った。


二人は鏡の中で、同じ顔で笑っていた。


【完】


私を削って、あなたに成る。 あなたを食べて、私が生きる。 そして、また新しい卵が届く。


この揺りかごに、終わりはない。

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