優先席 エッセイ風 短編

麻耶ノン

第1話 優先席 1話完結

 信じられない猛暑の中、通勤ラッシュは67歳の身に堪える。いつもの時間のいつもの車両。優先席に座れるかどうかが、その日の仕事の出来を左右すると言っても過言ではない。

 ところが最近、手強いライバルが席を占領しており、なかなか座れない。

 それは30代とおぼしき太り気味の男だ。杖を突くほどではないが、ひょこひょこと覚束ない足取りで歩く。年寄りなのか、まだそれ程でもないのか。判別のつきにくい私に、彼が席を譲るはずもない。

そもそも彼の目は、手元のスマホゲームから片時も離れないのだ。


​ 今日も案の定、巨体を揺らしてニヤニヤと真ん中に座り込んでいる。優先席に陣取るゲーム中毒男は、太っていると相場が決まっている。私は習慣的に彼の左手を見た。やはり指輪をしている。

 「既婚男性は社会的責任を感じている常識人だ」と、私は勝手に思い込んでいた。だが、どうやら違うらしい。

 男はおもむろにポケットからおにぎりを取り出すと、片手でむしゃむしゃと頬張り始めた。ゲームから目を離さず、周りの視線など一切眼中にない様子だ。

 ……この男の妻は朝ごはんを作らないのだろうか。いや、作らないからこそ、この男は「電車めし」をしているのか。どうせ似た者夫婦なのだろう…

 それにしても、こいつは一体どこで降りるのか。


 私が1時間近い通勤にこのルートを選んだのは、時間がかかっても乗り換えがなく、座れさえすればその時間を有効活用できるからだ。逆に言えば、座れなければ苦痛でしかない。

 定年後も、同じ部署で時給制のアルバイトとして働かせてもらっている。最低賃金なら近所のスーパーで働いても同じだとは思うものの、今の仕事を辞めるには踏ん切れない「何か」があるのだ。

​「お前のせいで仕事を変えようかとまで考えてしまう。その気持ちがわかるか?」

 私は、心の中で憎々しげに「ゲーム男」を見下ろした。

​ 殺気を感じたのか、奴がふいに顔を上げた。私は思わず目を逸らし、窓に貼られた「優先席」のステッカーを意味もなく見つめる。奴は何も感じていないのだろう。平然とおにぎりの包み紙を握りつぶし、リュックに放り込んだ。驚いたことに、そこから除菌シートを取り出して手を拭き、再びスマホに持ち替えた。

 ……食べる前には拭かないのに、スマホのためには手を拭くのか。理解しがたい世界がそこにある……

​ 3つの路線が交わるターミナル駅に到着し、ようやく奴が席を立った。あと4駅。やっと座れた安堵感の中で、私はおもむろにスマホを取り出した。

 ――かく言う私も、座るやいなやスマホか。

 自分の矛盾に、思わず苦笑いが漏れた。

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優先席 エッセイ風 短編 麻耶ノン @Mayanom2025

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