孵化

速水静香

孵化

 舌の上には、常に砂漠が広がっている。


 どれほど希少な脂身を乗せようとも、絶滅寸前の獣の肉を煮込もうとも、喉を通り過ぎた瞬間にそれはただの有機物の残骸へと成り下がる。私が求めているのは栄養ではない。胃袋を満たすための充填作業になど、微塵の興味もない。私が渇望しているのは、脊髄を直接撫で回されるような、倫理の壁を突き破る瞬間の戦慄だ。


 食通、美食家。世間は私をそう呼ぶ。だが、彼らは味覚というものを誤解している。舌先で感じる甘みや塩気など、所詮は化学反応の連鎖に過ぎない。真の美食とは、その食材が皿の上に載るまでの物語、あるいはその命が絶たれる瞬間の悲鳴を、自らの内臓で味わうことであるはずだ。


 先週食べた、深海三千メートルに生息するという盲目の魚の肝は酷いものだった。泥と硫黄を煮詰めたような臭気の中に、微かな甘みがあっただけだ。その前月に密輸ルートで手に入れた、南国の猿の脳味噌のシャーベットも期待外れだった。冷たさが知性を麻痺させていたのか、そこに命の熱狂はなかった。


 私の舌は乾ききっていた。この世界にある「食べられるもの」のリストは、あらかた塗り潰してしまった。残っているのは、食べてはいけないものか、食べる価値のないものだけだ。そう絶望しかけていた夜、ある会員制のサロンで、その噂を耳にした。


「決して噛んではいけない卵料理がある」


 たまたまサロンに居合わせた男が囁いたその言葉は、私に興味を惹くものだった。噛んではいけない。それは料理に対する冒涜であり、同時に挑戦でもあった。食感こそが食の喜びの一つであるという常識を、根本から否定している。


「それは料理なのか?」と私は尋ねた。

「体験、と呼ぶべきでしょうな」男はブランデーを揺らしながら、自嘲気味に笑った。「あれは食べるのではない。通過させるのです。店主はこう言っていましたよ。『孵化の瞬間を、胃袋で迎えるのだ』と」


 孵化。胃袋。

 その単語の羅列が、私の枯れ果てた脳髄に電流を走らせた。


 場所を聞き出すには、私の社会的地位と、いささかの現金を必要とした。男は躊躇っていた。「あれは戻ってこられない味だ」と警告したが、私にとって「戻ってこられない」という言葉ほど、甘美なスパイスは存在しない。


 指定された場所は、都市の再開発から取り残された、古い運河沿いの路地裏だった。湿った苔と錆びた鉄の匂いが立ち込めるその一角は、地図上では資材置き場になっているはずだ。外灯の明滅が、濡れた石畳に不規則な影を落としている。


 私は高級なツイードのコートの襟を立て、水たまりを避けながら歩いた。周囲の空気は重く、都市の喧騒は遠い波音のようにしか聞こえない。まるで、巨大な生物の消化管の中を歩いているような錯覚を覚えた。


 目印となる看板はなかった。ただ、錆びた鉄扉の横に、白墨で小さな楕円が描かれているだけだ。教えられた通りに、その楕円の中を指で三回叩く。金属音が虚しく空間を満たし、しばしの沈黙の後、扉が内側から音もなく開いた。


 中から漂ってきたのは、どこまでも無臭の空気だった。料理店特有の、油や出汁、あるいは焦げたような匂いが一切ない。完全な無菌室に迷い込んだような、冷ややかな清潔さがそこにはあった。


「お待ちしておりました」


 廊下の奥から現れたのは、白衣を着た男だった。料理人というよりは、外科医か実験技師を思わせる風貌だ。年齢は不詳。皮膚は蝋のように白く、目元には感情の欠片も見当たらない。


 通された部屋は、六畳ほどの狭い空間だった。中央にステンレス製のカウンターが一つ。椅子が一脚。壁には窓がなく、天井から吊るされた無影灯のような照明が、カウンターの上を冷徹に照らしている。装飾を極限まで削ぎ落としたその空間は、これから行われる行為が、食事というよりは手術に近いものであることを予感させた。


 私は黙って椅子に腰を下ろした。メニュー表など存在しないことは分かっている。ここには、たった一つの「究極」しかないのだから。


「お客様の舌が、どれほどの経験を積まれてきたかは存じ上げております」


 男はカウンターの向こう側で、低い、抑揚のない声で言った。手元では、何かの器具を消毒している。金属と金属が触れ合う微かな音が、私の神経を逆撫でする。


「既知の味覚、食感、香り。それらを期待されているのであれば、今すぐお帰りください。ここにあるのは、生命の流動だけです」


「説教はいい」私は短く答えた。「金は払う。噂のものを出せ」


 男は僅かに口角を上げたように見えた。それは嘲笑のようでもあり、同志に対する親愛の情のようでもあった。彼は奥の冷凍庫のような重厚な扉を開け、小さな桐の箱を取り出した。


 箱がカウンターの上に置かれる。男が蓋に手をかけ、ゆっくりと開いた。


 その瞬間、私は言葉を失った。


 そこに鎮座していたのは、鶏卵よりも二回りほど小さな、淡い桜色をした物体だった。表面は半透明の薄皮で覆われており、内部には血管のような赤い筋が複雑な幾何学模様を描いて走っている。そして何より異様なのは、その物体が、呼吸をするようにリズミカルに収縮と拡張を繰り返していることだった。


 ドクン、ドクン、と。

 静寂な部屋の中に、微かな拍動音が聞こえてくるかのような錯覚。いや、実際に音がしているのかもしれない。それは食材というものを逸脱した、剥き出しの「臓器」そのものに見えた。


「これは……何の卵だ?」


 私の問いに、男は答えなかった。ただ、ピンセットで慎重にその拍動する球体を摘まみ上げ、薄いガラスの小鉢に移した。


「種別など意味はありません。これは、これから『あなたの一部』になるものですから」


 男は小鉢を私の前に差し出し、その横に、琥珀色の液体が入ったショットグラスを置いた。強いアルコールの揮発臭が鼻を突く。度数は九十度近いだろうか。


「ルールは二つだけです」


 男の瞳が、無影灯の光を反射して冷たく光った。


「一つ。決して噛まないこと。歯を立てず、舌で押し潰さず、喉の奥を開いて、生きたまま食道へと通してください。この薄皮は非常に繊細です。口内で破れれば、中身が気道に入り込み、窒息、あるいはアナフィラキシーショックを引き起こす可能性があります」


 私は唾を飲み込んだ。目の前の拍動する物体を見つめる。それは私を誘うように、あるいは威嚇するように、蠢き続けている。


「二つ。嚥下した後、胃の中で『孵化』の鼓動を感じたら、直ちにこの酒を飲み干してください」


「孵化の鼓動?」


「ええ。胃酸の熱と酸度が、殻を溶かす引き金になります。中身が解放され、胃壁に触れようとするその瞬間、かつてない強烈な生命エネルギーが放出されます。それが至高の味わいです。……ですが、それ以上生かしておいてはいけません。完全に定着する前に、この高濃度のアルコールで、中の命を確実に殺菌し、活動を停止させてください」


「殺すのか」


「それが人間の特権でしょう? 奪い、取り込み、自らの糧とする。その業を最も純粋な形で味わうのです」


 男の説明には、不思議な説得力があった。

 生きたまま飲み込み、体内で孵化させ、その絶頂の瞬間に酒という猛毒で命を断つ。なんと背徳的で、残酷で、美しいシナリオだろうか。


 私はおぼつかない手でガラスの小鉢を持ち上げた。

 小鉢越しに伝わってくるのは、確かな熱だった。それは茹でたての温かさではない。生き物が持つ、生々しい体温だ。


「さあ、どうぞ」


 男の言葉が合図となった。


 私は口を大きく開けた。顎が外れそうになるほどに口腔を広げ、喉の奥の筋肉を意識的に弛緩させる。恐怖がないわけではない。未知の生物を生きたまま体内に入れることへの本能的な拒絶反応が、胃の腑を締め上げる。だが、それ以上の好奇心が、理性を凌駕していた。


 小鉢を傾ける。

 ぬるりとした感触と共に、律動する塊が私の舌の上を転がった。


 味はなかった。いや、味蕾が感知する暇もなかったと言うべきか。それは唾液にまみれ、自ら意志を持っているかのように、私の喉の奥へと飛び込んでいった。


 食道を通過する感覚が鮮明にある。

 異物が、蠕動運動に合わせてゆっくりと落ちていく。喉仏の裏側を、温かいナメクジが這い降りていくような不快感と背徳感。私は思わずえずきそうになったが、カウンターを掴む手に力を込め、必死に堪えた。


 胃袋に、重い落下感があった。

 到達した。

 私の胃の中に、別の「命」が収まったのだ。


「……これからだ」


 男が囁いた。


 私は腹部に神経を集中させた。

 最初は何も感じなかった。ただの食べ過ぎた後のような膨満感があるだけだ。

 だが、数秒後。


 ――ドクン。


 腹の底から、今まで感じたことのない振動が伝わってきた。

 自分の心臓の鼓動ではない。もっと小さく、しかし鋭く、激しいリズム。


 ――ドクン、ドクン、パリッ。


 微かな破裂音が、骨伝導で頭蓋骨に伝わってきた。

 薄皮が破れたのだ。


 その瞬間、世界が反転した。


「あ、ぐ……ッ!?」


 声にならない呻きが漏れた。

 痛覚ではない。味覚でもない。それは、脳の快楽中枢を直接ハンマーで殴打されたような、暴力的なまでの悦楽の奔流だった。

 胃の中から、黄金色の光が溢れ出し、血液に乗って全身を駆け巡るような感覚。指先から足の爪先まで、細胞の一つ一つが歓喜の悲鳴を上げている。


 熱い。

 いや、甘い?

 違う、これは「生」そのものの味だ。

 数十億年前に海の中で最初の生命が誕生した瞬間の、爆発的なエネルギー。それが今、私の粗末な胃袋の中で再現されている。


 過去に食べたどんな高級食材も、これに比べれば泥団子に等しい。

 フォアグラの濃厚さも、キャビアの塩気も、トリュフの香りも、すべてが色褪せて消え失せる。

 私は涙を流していた。あまりの幸福感に、理性が崩壊していく。

 自分が人間であることすら忘れ、ただの「容れ物」として、この圧倒的な生命力を受け入れるだけの存在に成り果てていく。


「お客様、酒を」


 遠くで声がした。

 男の声だ。そうだ、酒を飲まなければならない。

 殺さなければ。この素晴らしい命を、私の胃の中で殺して、完全に私のものにしなければ。


 私はおぼつかない手でショットグラスに指を伸ばした。

 琥珀色の液体が揺れている。

 あれを飲めば、この感覚は終わる。定着し、私の血肉となる。


 だが。

 まだだ。

 もう少しだけ。

 あと数秒だけ、この「孵化」の余韻に浸っていたい。


 腹の中の存在が、愛おしくてたまらない。

 それは私の胃壁に優しく触れ、融合しようとしている。まるで、長い間離れ離れだった半身に出会ったかのような、絶対的な安心感。


 酒を飲む?

 なぜ?

 なぜ、この奇跡を終わらせなければならない?

 これは毒ではない。祝福だ。


 私の手は、ショットグラスを掴む寸前で止まった。

 視界が白く霞んでいく。

 男が何かを叫んでいるような気がしたが、音は水中にいるようにくぐもって聞こえた。

 眠い。

 強烈な睡魔が、快楽と共に押し寄せてくる。


(ああ、これが満腹ということか……)


 私はカウンターに突っ伏した。

 頬に触れるステンレスの冷たさが心地よい。

 腹の中の温かさは、いまや全身を覆う繭のように広がっていた。

 意識が途切れる寸前、私は夢を見た。

 自分が広大な白い荒野に立ち、空を見上げている夢を。

 空には太陽の代わりに、巨大な、美しい卵が浮かんでいた。



 小鳥のさえずりが聞こえる。

 いや、違う。これはもっと無機質な、電子アラームの音だ。


 私は重い瞼を持ち上げようとした。

 だが、目が開かない。

 まつ毛が絡み合っているわけではない。瞼そのものが、硬く閉ざされて動かないのだ。


(……二日酔いか?)


 昨夜の記憶が、霧の中からゆっくりと浮上してくる。

 路地裏の店。白衣の男。拍動する卵。そして、あの圧倒的な快楽。

 そうだ、私はあの後、酒を飲まずに眠ってしまったのだ。


「目が覚めましたか」


 聞き覚えのある、抑揚のない声が頭上から降ってきた。

 私は返事をしようとした。

「ああ、酷い気分だ」と。

 しかし、唇が動かない。顎の関節が、まるでセメントで固められたかのように固定されている。舌も動かせない。喉の奥から声を出そうとしても、くぐもった空気が漏れるだけだ。


「……フ……グ……」


 何が起きている?

 私はパニックに駆られ、体を起こそうとした。

 手をついて、上体を起こす。その単純な動作ができない。

 腕の感覚がないのだ。いや、感覚はあるのだが、それが「腕」という形をしていないような、変な一体感がある。


「無理に動かない方がいい。まだ殻が柔らかい」


 殻?

 何を言っている?


 私は必死に視界を確保しようとした。

 瞼は開かないが、不思議なことに、周囲の様子がぼんやりと「知覚」できた。皮膚全体が目になったかのような、全方位的な感覚。あるいは、薄い殻越しに光を感じているような状態だ。


 そこは、昨夜の店ではなかった。

 もっと広く、高い天井のある倉庫のような場所だ。

 周囲には、白い楕円形の物体が幾つも並んでいる。棚に陳列された商品のように、整然と。


 そして、私の目の前には、あの白衣の男が立っていた。

 その手には、大きな鏡が握られている。


「ご覧なさい。これが今のあなたの姿です」


 男が鏡を私の方に向けた。


 映っていたのは、人間ではなかった。

 そこにいたのは、巨大な、白くなめらかな「卵」だった。

 衣服も、髪の毛も、手足も、顔のパーツさえもない。

 ただ、つるりとした陶器のような曲面を持つ、完全な卵形。


 私は理解できなかった。

 あれは私なのか?

 私が、卵になったのか?


 混乱の中で、昨夜の男の言葉が蘇る。

『中身が解放され、胃壁に触れようとするその瞬間……完全に定着する前に、この高濃度のアルコールで、中の命を確実に殺菌し、活動を停止させてください』


 私は殺菌しなかった。

 だから、定着したのだ。

 だが、どちらが?


 私が卵を消化したのではない。

 卵が、私という有機物を取り込み、その遺伝子情報を書き換え、再構築したのだ。

 私の胃袋から始まった浸食は、骨を崩し、筋肉を作り変え、皮膚を硬化させ、私という人間を、新しい「殻」として利用し尽くした。


「素晴らしい仕上がりだ」


 男は満足げに頷き、私の表面――かつて顔があったあたり――を、冷たい指先でなぞった。


「昨夜の卵は、寄生型の擬態生物の一種でしてね。消化液を感知すると、爆発的に細胞分裂を行い、宿主の肉体を苗床にして次の世代の揺り籠を作る性質があるのです。通常なら、あのアルコールで核を壊せば、ただの滋養強壮に優れたタンパク質として吸収されるのですが……」


 男は鏡を置き、近くの作業台から何かを取り出した。

 鋭利な刃物が、照明を反射してぎらりと光る。

 出刃包丁だ。


「貴方は美食家として、多くの命を奪ってこられた。その舌は肥え、その肉体は世界中の珍味で満たされている。最高級のコンポストですよ」


 私は叫ぼうとした。逃げようとした。

 だが、巨大な卵となった体は、微動だにしない。

 ただ、内側で何かがうごめいているのを感じるだけだ。

 かつて「私」だった意識の領域が、急速に別の何かに塗り潰されていく。

 それは、昨夜飲み込んだ、あの小さな蠢く意思だ。

 そいつが今、私の脳髄を食い物にして、あざ笑うかのように存在を主張している。


(ああ、そうか)


 恐怖の奥底で、私はどこか冷めた納得を得ていた。


 私は常に、食べる側だった。

 殻を割り、中身を暴き、その命を貪る絶対的な強者だった。

 だから、これは罰ではない。

 これは、ただの摂理の逆転だ。

 私が卵を覗き込むとき、卵もまた私を覗き込んでいたのだ。


「おめでとうございます」


 男が包丁を振り上げた。

 その表情には、慈悲も悪意もなく、ただ職人としての実直な眼差しだけがあった。


「貴方は今、食べる側から、食べられる側へと昇華したのです。さあ、次はもっと大きなサイズで提供できるぞ」


 包丁が振り下ろされる。

 私の視界――あるいは殻の表面――に、銀色の閃光が走る。


 痛みはなかった。

 ただ、パリン、という硬質な音が、私の最期の聴覚を貫いた。


 世界が割れる。

 私の外側が砕け散り、中から「新しい私」が、空腹を抱えて世界へと転がり出る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

孵化 速水静香 @fdtwete45

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画