円頓殻のそと側で

@Taitoku

円頓殻のそと側で

 眼前に見渡す限りの田園が広がっていた。

 夕焼けに照った稲穂が風にさざめき、まるで黄金色の海のようだ。畦道には夕化粧が群生しており、数匹の蝶がじっと止まって蜜を吸っている。


 僕を乗せた車は、畦道をゆるやかに走る。

 遠くの村落では夕餉の支度なのか、薪をたく煙が立ち昇っている。運転席から畦道を横切る学生の一団が見えた。自動運転車は静かに止まり、彼らが過ぎ去るのを待つ。学校から少し長い帰り道、家族の待つ村へ歩く彼ら。西日を背に、一組の女学生と男子学生が談笑しながら畦道を渡っていく。ひぐらしの鳴く声が今にも聞こえてきそうだった。いつか見た光景。嗚呼、あれは僕と―

 懐かしさに、胸が詰まりそうになる。


 と、学生の一人がフラフラと僕の車へ近づいてきた。突然、彼女は車の窓を激しく叩きつけた。


 慌てて僕は環境ホログラムをオフにする。視界に広がる田園がざわざわと崩れていき、眼前には雨に濡れた鉄の街並みが露わになる。学生達のホロも剥がれ、いつもと変わらない雑踏を行く人々の姿に戻る。思い出の故郷から、僕は急速に現実に引き戻された。

 ちょうど現実の横断歩道の交通整理灯は青に変わっていた。酔った通行人の一人が、僕の車の窓を叩いたようだ。酔っ払いは何やらブツブツ独り言を言い、こちらを睨め付けるといつの間にか雑踏の中に消えていた。

 煙雨の中、色とりどりのホロを纏った人々が車の前を横切っていく様子を、僕はぼぉっと眺めていた。人気のアイドルの姿そのままの色違い、有名なゲームの主人公を模したような姿。往来を流れていく彼らは、どこか浮世離れしていて、まるでお伽話の中の百鬼夜行のようだった。


五十年前に発明された、侵略型拡張現実人工網膜―通称「円頓殻(えんどんかく)」によって、人々は見たいものだけを見るようになった。

 人間の網膜と視神経の一部を、外科的手術によって有機レンズと電極チップに置換し、外界から電気信号によって送られる虚像を実像として瞳の中に顕現させる―「円頓殻」手術は、高性能な光学式カメラやARグラスでは結局は成し得なかった「拡張現実」をいとも容易く実現し、徐々に世界を変えて行った。

 円頓殻がある程度の普及率を超えたところで、人類は気づく。

「皆が円頓殻をつけているのならば、誰もがどんな見た目にもなれるのではないか?」と。

 そこからは早かった。人々は化粧や服に金をかけなくなった。円頓殻で相手に見せるアバターデータを買えば、見た目の悩みは一発で解決するからだ。

 同時に、街の中から「人々が見たくないもの」が消えていった。景観にそぐわない租界や、猛毒の煙を撒き散らかす工場。そうしたものは、巨大な天使を模ったオブジェの姿に変えられた。

 今やこの冷たい街並みそのものさえも、個人が設定した環境ホロによって望郷の風景に変えられる。変えられないのはビッグテックの強制広告くらいだ。


 交通整理灯が赤に変わる。自動運転車のエンジンが静かに掛かり、ゆっくりと走り出す。

 円頓殻が嫌いなわけではない。むしろ、好きだ。

 嫌なものは見ない。超えられない社会の階層、この無機質な鉄の街並み。そんなものを尻目に莫大な利益を産み続けるビッグテック。目を凝らして世界を見て耐えて、一体どうしろというのだろう。

「円頓」とは、仏教用語で、「円満頓足」の略語らしい。心に足りないものがなく、即座に悟れるほど功徳が満ち足りているという意味だそうだ。

 僕はそっと環境ホロをオンにした。眼前の光景がまた、幼き日の思い出の景色へと変わっていく。

 これでいい。我々は目を閉じ、静かに生きるべきなのだ。 




 車はしばらくして少し外れた郊外に停止した。

「ご自宅に到着致しました。来週月曜日は、本社にて脳殻開発本部長のレイター様とのお打ち合わせが10時からございます。では、良い週末を。」

車から聞こえる無機質な人口音声に曖昧に返事をすると、鞄を傘にし、早足で玄関へ向かう。

「ただいま。」

 濡れたコートはひどく冷たく、僕は身震いしながら玄関を開ける。

「おかえり、パパ!」

 暗い家の中から明るい声と共に、黒髪を後ろで緩く結えた細い線の女性が現れる。義理の娘の瑞香(みずか)だ。

「はい、これタオル。」

「ありがとう。今日はどうにも疲れたな……瑞香、お前、また部屋のホロ切ってるのか。」

「だって折角の雨じゃない。私、雨の日って好きよ。」

「付けるぞ、ホロ。流石に部屋が陰気すぎるよ。」

「えぇーっ。じゃ、せめて窓の外だけはこのままがいいな。部屋の中は、付けていいからさぁ」

 僕がホロをオンにすると、室内は一気に南プロバンス風の白と暖かな木を基調とした装いに変わる。雨模様の窓からは、いつだったか瑞香が庭に生えた沈丁花(じんちょうげ)が見えている。五月になったというのに、まだ健気に花を付けていた。

「ま、あたしの見えてるものは何も変わらないんだけど。」

 瑞香は可笑しそうに笑った。

 彼女は円頓殻手術をしていない。今やこの国に1%もいない人種だ。

 不思議な子だった。二年前、彼女が十四の時、孤児だった彼女を養子にした。抜けるような白い肌、漆器のように黒く艶やかな髪。少し異国の血が混じったような、緑の瞳の美しい娘だった。

 我が家に来た当初、瑞香は機械のように重く心を閉ざしていた。

 養子にする以前の彼女の素性を僕はあまり知らない。租界で保護された子だという事。先天性の珍しい免疫疾患で、殆ど外に出られない事。それ以上を知る必要はなかった。今彼女が明るく笑っていられるという事実で十分だからだ。

「じゃあ元々付けてくれてもよかったじゃないか。どうせ瑞香は見たいものを見られるんだから。」

「パパに見せたかったんだ。雨も結構いいもんだって……あ、そうだ! コーヒー淹れてあげるから待ってて!」

 そう言うと瑞香は奥のキッチンに消えていく。


 彼女は円頓殻を通さないままの景色が好きだった。租界はまだ円頓殻をしていない人間もいると言う噂だが、経済的に不自由がない今ですら彼女は望んでそうしなかった。病のせいで家から碌に出れないから、いつも同じ景色しか見られないと言うのに。

「はい、コーヒー。あったかいのが欲しかったでしょ?」

 奥から戻ってきた瑞香はコーヒーが入ったマグを僕に手渡す。

「あぁ、ありがとう。いただくよ。」

 コーヒーの酸味に顔を顰める僕の姿を彼女はふふっと笑い、少し間をおいて僕に囁いた。

「ねぇ、パパ?」

「なんだ? 改まって。」

「明日の土曜日だけど、二人で出かけない? 久しぶりに外に出たいなって。」

不意に切り出した瑞香の言葉に、僕は詰まる。

「もちろん良いけど……どこに行きたいんだ?」

「街外れに蝶園があるでしょ? 私、あそこに行ってみたいな!」

 しばらく黙っていた僕に、瑞香は少し悲しそうに聞いた。

「……やっぱり外は嫌?」

 アンドロイド開発企業の研究職という退屈な職に就いた一番の理由は、自室兼研究室に篭っていても研究データさえ送れば会社から給金を貰えるからに他ならない。出不精が祟って、年に一度有るか無いかの出社でさえこの疲れ様だ。

 しかしここ最近は瑞香の具合も悪く、ほとんど外に出してやれていなかった。

「いや、いや! そんなことはないさ。瑞香の体調を少し心配してただけだよ。そうだな、明日体調が問題なければ行ってみようか。」

僕は無理を押して笑顔で答える。

「やったー! パパ、大好きよ。本当にありがとう!」

義父の気心も知らず、瑞香は肌を興奮に火照らせ無邪気に喜んだ。




 案の定、次の日の瑞香の体調は優れなかった。漸く具合が少し回復した彼女を伴って市営の蝶園に着いたのは、昼下がりの頃だった。

 街外れの蝶園は、巨大な天球型のガラス張りのドームに覆われている。年中蝶を生かし続けるために内部は温室になっているのだ。

 園の入り口で、老人が煙草を蒸かしながらラジオを聴いていた。蝶なんてホロでいくらでも見れる時代だ。よほど客が来ないのだろう。寛ぎ切った老人に僕は声をかける。

「今から二人、入れますか?」

「あぁ……?」

こちらに気づいた老人はぎろりと僕たちを睨む。しばらく人と喋っていなかったのか、喉に絡んだ痰を転がしてくぐもった声を出す。

「ん、ん……あんた、蝶を見にきたのかい……きょうびここに客が来るなんてな。」

「ええ。娘にせがまれて……」

 老人は瑞香を上から下までじろじろと見て、胡散臭そうに顔を顰めた。わかり切った反応だった。僕の歳にしては、瑞香は少し大人すぎる。

 しばらくの沈黙の後、老人は溜息を付き吐き捨てるように言った。

「チッ……別に良いけど、大人二枚分な。ほれ、さっさと入んな。」

 僕は感情を殺して無表情でチケットを受け取った。


 雨雲の切れ間から少し顔を覗かせた太陽が、ドーム状のガラス壁に柔らかな光を落としている。

 敷地内一体は緩かにすり鉢状になっており、一面に亜熱帯性の草木や花々が生い茂っている。立ち込める瑞々しい葉と花の香りで、まるで森に迷い込んだのかと錯覚する。

 そこに、無数の蝶が煌めいていた。数百数千という様々な色形の蝶が、ビオトープ全体を自由に舞っているのだ。

瑞香が園内に駆けてゆく。

 彼女はドームの中腹に造られた小川の前で立ち止まっていた。楽しそうにはしゃぐ姿に、水面から反射した光が集まる。

 彼女の周りに、純白のレースのような羽を美しい赤と青の差し色で着飾った蝶達が集まり始めた。

 瑞香が手を差し伸べる。一匹の蝶が彼女に傅き、その手に羽を下ろした。示し合わせたかのように、幾匹もの蝶が徐々に徐々に彼女の腕に止まる。

「ねぇ、見て。ナミアゲハって言うのよ。可愛いでしょう?」

 声が出せなかった。

 ひだまりの中で、蝶に包まれ微笑む瑞香。

 この時が永遠に続けば良いのにと思った。

「もう、何ぼぉっとしてるの! パパもこっちに来て!」

瑞香は僕を呼び寄せる。ふらふらと近づいた僕に、蝶を掌から渡そうとした。おぼつかない様子で出した手を警戒したのか、蝶は飛び去ってしまう。

「ずっと来てみたかったの、ここ。パパも気に入った?」

「あぁ……すごく……すごくね」

僕は言葉を絞り出すように言った。

「蝶はね、視覚中枢が優れていて、人間には見えない色が見えているの。そのおかげで、美味しい蜜を出す花を見つけたり、異性を探したりするそうよ。私たちには同じに見えるこの花や蝶の仲間を、この子達は全く違うものとして見えているの。ねぇ、この子には今一体どんな景色が見えてるんだろうね。」

瑞香は愛おしそうに蝶を見つめた。

「私、蝶のように生きてみたい。私が見たことのないたくさんの景色を見るために、ずっとずっと遠くへ行ってみたいな。」

 親だったならばここで力強く頷いてやるべきだったのかもしれない。だが、瑞香は外の世界では生きられない。

「そうだ。今度こういうホログラムを瑞香の部屋にも買ってみよう。きっといい……」

 瑞香はふっと蝶から目を離し、少し悲しそうに僕を見つめた。

「私、貴方と一緒に有りの儘の世界を見てみたいな。貴方と一緒なら、どこだって良いのにね。」

 そう言うと彼女は不意によろめく。

「瑞香!」

やはり無理をしていたのか。僕は急いで彼女を抱き寄せて支えた。瑞香は胸の中でぐったりとしている。

「……大丈夫。ちょっとふらついただけ。」

緑の潤んだ目元に僕は吸い込まれそうになった。倒れる直前の言葉。前にも僕は、聞いた事がある気がする。記憶の断片の中で、何か、淡い痛みを感じた。


 梅雨入りから二週間が経った。連日のように降り頻る雨は、いつの間にか庭の沈丁花の花を腐していた。

 瑞香の体調は、あの日を境に急速に悪化した。 

 考えられる手は尽くした。彼女の玉を転がすような声が、次第に小さくなってゆく日々。

「そんなに心配してたら、こっちまで滅入っちゃうよ、もう。」

ベッドの上で瑞香は渇いた声で笑った。

 何時だって都合が悪い事は重なる。十年来担当していた勤め先のプロジェクトが、最終段階で膠着したのだ。社内でも上層部しか知らない、重要な研究である。ここ数日は上司から研究成果を催促する電話が鳴り止まない。

 最近は殆ど会社にも連絡を取っていない。研究のデータを纏め瑞香の看病をし、気絶するように眠りに落ちる毎日。繰り返すうちに、朝夕の感覚は徐々に無くなっていった。


 ある日の明け方。徹夜で作業したデータサンプルをようやく会社に送った僕は、小さく寝息を立てる瑞香の側のテレビを付け、ぼぉっと眺めていた。

 押し寄せる虚無とやるせの無さ。紛らわせるように、僕は夢現(ゆめうつつ)の中で蝶園で瑞香に言われた言葉の意味を考えてみる。


「私、貴方と一緒に有りの儘の世界を見てみたいな。貴方と一緒なら、どこだって良いのにね。」


 僕はやはりこの言葉を聞いたことがある。思い出せない、忘却の彼方。いつから僕は外の世界が嫌になってしまったのだろう。記憶を掘り返そうとすればするほど、汚泥に塗れたような寒さを感じる。苦しい。思い出したくない。これ以上はダメだ。せっかく蓋をしたんじゃないか。そうしないと生きていけなかったから。

 それでも僕はそれが大事なことのような気がしてその扉を僅かに開ける。

「ああ。あれは輪花(りんか)に言われたんだ―」

 思わず一人呟いた僕の頭の中で、とどめなく輪花という少女の記憶が思い出されていく。

 僕の幼馴染で、初めての恋人で、最愛だった人。いつもあの畦道を一緒に歩いて下校してたんだ。揃って田舎から出てきて、ここで暮らした。彼女は花が好きだった。そうだ。庭の沈丁花も、本当は輪花が植えたんだ。なんで今まで輪花のこと忘れていたのだろう。彼女は今どこに? いや、彼女はもう居ない、この世界のどこにも。

 僕は一体何を忘れている?

 激しい動悸で吐きそうになり、震えながらコップの水を口にする。いつしかテレビには朝のニュース番組が流れていた。

「……続いてのニュースです。先日発表された国防情報保護法の施行により、行政機関のセキュリティ基盤に円頓殻の導入が順次されています。これに伴い、本日より国内に僅かに残存する未手術者に強制手術通告が送られております―」

読み上げたアナウンサーに、派手な髪色のコメンテーターは相槌を打つ。

「ま、遅すぎた位ですよ。円頓殻があれば厳重な施設なぞ建てなくても、国の重要なセキュリティを守れますからね。権限を持っている人間だけ閲覧できるようにすれば良いわけですから。コストもずっと安い。今や自然回帰主義のカルトや、租界の一部くらいしか付けていない人はいないですからねぇ。治安維持の観点で、当然厳しく取り締まりされるでしょうな。」

「―万一ニュースをご覧の視聴者の方の中に未手術者の方がいらっしゃいましたら、国家保安局より一斉メールで送られた証明票をお持ちの上、速やかにお近くの病院等で施術をしてください。1週間以内に通告に従わない場合、逮捕・連行される場合がございます―」

 ニュースを聞き終えた後、しばらく僕は押し黙って壁を見つめていた。

 有りの儘の世界を見たい。病弱な瑞香が、唯一といって良いほど大事にしてきたことだ。これ以上、瑞香から何を奪えば気が済むのだろうか。

 彼女のことだ。当然拒むだろう。だが、今政府に拘束されでもしたら、瑞香は無事に帰ってくる保証はない。彼女が寝ている間に円頓殻手術を受けさせてしまうか。いや、そもそも瑞香の残された体力で手術など持つはずもない。

 僕は、僕たちが詰んでしまった事を静かに悟った。




 街を出て数時間経っていた。山道に入り、舗装されていない地面が車を激しく跳ね上げる。

「あれ、パパ……? ここは……どこ?」

 車内の強い揺れで瑞香は起きてしまったようだった。

「起こしちゃったかい? ごめんごめん。この辺はもう自動運転機能が作動しないんだ。だから僕が自分で運転するしかなくてね。」

 妙に明るい僕の声と、都会から遠く離れた山道。いつもと状況が違うことを悟ったのか、瑞香はもう一度ゆっくりと聞いた。

「……ここはどこ?」

「もう2時間くらいで着くよ。街からずっと離れた山あいに、コテージが買えたんだ。今時辺鄙な田舎の土地なんて、誰も買わないからなのかな、貯金で一括で手に入ったんだ。これからはそこで、二人で暮らそう。」

「なんで? お家は? それにお仕事だってあるのに―」

「もう、仕事はいいんだ。それに瑞香、言ってたじゃないか。もっと遠くへ行きたいって。新しい家はきっといいぞ。家の周りに円頓殻が反応するものなんか何にもない! あたり一面、瑞香が好きな自然しかない。空気の綺麗な所なんだ。そこなら瑞香の体調もきっと安定するさ。」

 瑞香は黙っていた。車内は、エアコンの送風音だけが静かに響いている。

「パパ、言わないといけない事があるの。」

 長い沈黙の後、瑞香は口を開いた。

「私の体調は、良くなる事はないわ。」

「何言ってるんだ。そんな事ないさ。今まで街に住んでいたのが良くなかったんだ。空気は汚れているし、人も多い。瑞香に悪いことばっかりだ。最初からあんな職場なんか辞めればよかったんだ、そうすればもっと早くこうして―」

「違うの、パパ。そういう問題じゃないの。私は免疫の病気なんかじゃないんだから。」

「おいおい、何言ってるんだよ―」

「聞いて!」

 瑞香は怒鳴った。それはほとんど悲鳴に近かった。

「……パパ。ちゃんと本当の世界を見て。もうずっと頭では分かってるはずなの。」

 一度言葉を切り、彼女は覚悟したように呟いた。

「私はただ、欠陥品なだけ。そのご病気を患っていたのは、輪花さんよ。パパの最初で最後の恋人。先天性の免疫疾患で……パパはすごく頑張ったけど、もう他界なさっているわ。」


 意味が理解できなかった。いや、もしかするとずっと理解していたのかもしれない。

「パパは悪くないわ。とても優しいだけだもの。だからたくさん傷ついて、疲れてしまったの。」

 瑞香は横を向き、車窓から景色を眺めていた。彼女がどんな表情をしているのか僕にはよく見えなかった。

「違う……それだけじゃないんだ、国防情報保護法っていうのがあるんだ。そのせいで、国民はみんな円頓殻手術をしなくちゃいけなくて、それで、そうしたら、瑞香も手術をしなくちゃいけなくって。手術なんかしたら瑞香は……」

「そうね。知っているわ。パパの中ではそうなんだよね。長いこと、心が追いついていなかっただけなの。でも、もうこうなってしまったら、全部思い出すしかない。本当にごめんなさい。」

 開けたくない記憶の扉が、瑞香の優しい言葉でこじ開けられていく。気持ち悪い。頭の中がぐるぐると回転する。

「もうやめてくれ!」

 僕がそう叫んだ時だった。急にハンドルの自由が効かなくなった。車が激しく震える。暗闇の中で制御を失った車体は滅茶苦茶に雑木林を突き進み、大きな木に体当たりをした。衝撃と共にエアバックが急速に膨らみ、僕の眼前を覆い、僕の視界は暗黒に覆い尽くされた。


「パパ! お願いだから起きて!」

 どのくらい時間が経ったのだろうか。気絶していた僕を現世に引き戻したのは、必死に僕を呼ぶ瑞香の声だった。

「瑞香……無事なのか……?」

「起きたのね!私のことはいいから! 逃げるの、今すぐ!」

 車が突っ込んだ雑木林の近くに、ランプのついた車両と幾人かの人影が見えた。

 僕は直感した。軍警だ。手術を拒んだ僕らを追ってきたのだ。車からよろよろと這い出す。案の定、車のタイヤはスパイクのようなものが張り付いている。瑞香を連れて逃げなければ。目的は彼女のはず。

 瑞香に近づこうとしたが、急に足に力が入らなくなり、膝をつく。視界が真っ赤なことに気がついた。手で拭う。ああ、これは僕の血か。ひどい量だ。

「パパ! パパ! あぁ、なんてこと……」

 遠くから男たちの声が聞こえる。青ざめた瑞香は僕の肩を担ぎ、森の奥へ奥へと逃げ始めた。大の大人を担いでいるにも関わらず、瑞香の足運びは規則正しく速かった。

 しばらく走った後、瑞香は岩陰に僕をそっと置く。息一つ乱れていない。急いで自らの服の一部を破き、出血した僕の患部に当てた。

「寒い、な……」

どくどくと温かいものが僕から溢れ続け、どうしようもない寒さが押し寄せる。医者ではないが僕にだって分かる。この血の量は、もう助からない。

「パパ。お願いだからこれ以上喋ろうとしないで。」

 涙を流し懸命に止血をしようとする瑞香。その手を払って腹から声を出す。だが口から出たのは蚊の鳴くような小さな声だった。

「あいつら軍警の狙いは……君だ。僕を置いて逃げろ。僕は手術をしてるし、罪は免れないだろうけど保護されるかもしれない―」

「円頓殻のことで追われているわけじゃないの。私は強制手術の対象ですらない。彼らも軍警ではないわ。」

 応急処置に集中しながら喋る瑞香に目をやると、瑞香の姿がぶれていた。まるで調子が悪い円頓殻が写し出すホログラムのように。

「瑞香……?」

 視界が次第に暗くなっていく。四肢の感覚はもう無かった。止まらない血を見て、瑞香は全てを悟ったかのように天を仰ぎ見、慟哭した。

 どれくらい時が経っただろうか。彼女は横たわる僕を覗き込み、寂しそうに微笑んだ。

「こんな形で伝える事になって、本当にごめんなさい。貴方が私を造ってくれた時から、ずっとずっと愛していたわ。私の記憶の殆どが輪花さんのものであっても、私を伴侶として造ってくれなくても。私、パパの娘でいられて本当に幸せだった。パパはこれから静かに眠るの。だから、最後に私の本当の顔を見てくれたら嬉しいな。」


 ああ、瑞香。全部思い出したよ。謝るのは僕の方だ。産み落とされてからずっと、僕の見たい世界に付き合ってくれていたんだね。最初からわかっていたんだ。輪花の代わりなんかいるはずもないから、僕は君を娘にしたんだ。健康な体に造ってあげることもできなかった僕を許しておくれ。僕は遠のいていく意識の中で、円頓殻のスイッチをオフにした。さらさらとホログラムが崩れ、瑞香の本当の姿が円頓殻の裡(うち)から明らかになる。

「ああ、お前の瞳は、本当に綺麗だね―」


 息を引き取った父を静かに見下ろし、瑞香は佇んでいた。背後から武装した男達が静かに姿を表し、二人の周りを取り囲んだ。

「ターゲットを発見。博士の方は……ああクソ、死んじまってる。上になんて報告したらいいんだ。実験体の方は幸い無事だ。機能停止プロトコルを発動して直ちに回収しろ……何? プロトコルが作動しない?」


「これ以上父と私を侮辱する事は許さない……壊れかけの身とはいえ、お前達の命を刈るくらいは容易いぞ。」

 動揺する男達を遮り、瑞香は冷たく言い放った。

「―上に報告しろ。実験体にプロトコルが作動しない。あぁ、三原則も完全無視だ。我々ハウンド2は実験体と交戦に入る!」

 瑞香は絶叫し、男達に襲いかかった。


「結局このヤマはなんだったんでしょう。何が何だか、僕には。」

散らかった機械の部品と男の死体を眼前に、童顔の新兵が呟く。部隊は対象の回収と撤収準備を進めていた。

「さぁな。俺たち民間警備会社はビッグテックの連中の使い走りだからな。あー、実験体から脳核を摘出するのだけは忘れんなよ。」

少しくたびれた顔の部隊長は空を見上げながら煙草に火をつける。

「資料に書いてあったろ。ヒューマノイド社の上席研究員が、極秘計画の未完成実験体を盗んで逃走した。奴はイカれちまって、どういう訳か実験体を自分の娘だと思い込んじまってた。そいつを捕まえて実験体を回収しろってのが俺たちの任務だよ……まぁ、運悪く死んじまったわけだが」

「あれは本当にアンドロイドだったんでしょうか。僕には、あの悲痛な声はとても機械のようには―」

「若造。この業界で長生きするコツはな、余計な事は見て見ぬ振りする事だ。」

 あまり得心行っていない様子の新兵を見て、部隊長はため息をつく。

「……知り合いから聞いた与太話だけどな。ヒューマノイド社には長年人格を持ったアンドロイドを造るっていう極秘計画があったそうだ。機械的に命令を聞く量産機じゃなくて、自分の意思を持ったヤツをな。なんでも、死んだ人間の記憶をAIに宿らせて思考させる事で、自我を芽生えさせようとするらしい。ま、眉唾の陰謀論の類だがな。」

「じゃあ、博士は実験用のデータを自分の恋人の記憶にすり替えて―」

「さ、もうこれくらいでいいだろ。今日見た事は帰ったらビールでも飲んで忘れちまいな。これは忠告だぜ。」

 新兵は神妙な顔をしてアンドロイドの残骸と男の遺体を見つめた。僅かに緑色の残光を発するアンドロイドの頭部から、おぼつかない手で脳核を引き抜く。


「迎えが来たぞ! 撤収だ!」

 隊長の合図とともに部隊は皆ヘリに乗り込み始める。新兵は振り返り、彼らにそっと手のひらを合わせた。



 その時、彼の眼前を何か白いものが横切った気がした。

 それは二匹の蝶だった。

 蝶達は踊るように舞いながら、金色の朝焼けの空へどこまでも高く翔んで行った。

                           

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